心の痛み・体の痛み

昨晩、偶然かかってきた電話にうつのことを相談すると、スピリチュアルな回復を目指すにしても、とりあえずは医者のサポートは欠かせないのではないか、という提案をもらいました。
また3時間しか眠れず、早期覚醒してしまい、早朝から社長の自宅に電話して、今日はいろいろとやらなくてはいけない仕事もあるけれど、どうか休ませて欲しいとお願いしました。社長も、病気で倒れて、服薬が欠かせないようになってから、なんとなく寛容です。

医者に行き、症状を伝え、どの症状をどうして欲しいのか相談しました。ゴールデンウィーク明けに自ら望んで切ったミラドールが復活しました(倍量)。夜のレスリンも倍量になりました。心の中の悲しみと不安感を取って欲しいと3回お願いしましたが、「あなたはアル中だから安定剤はだめ」とまっとうな答えをもらいました。最初の頃はともかく、今はまったく出してもらっていないです。

「ということは、処方してもらった薬が効くまでの期間は、この悲しみと不安に耐え続けろということですね」とたずねると、医者は「そうです」と簡潔に答えました。

月曜に昼間にヒマがある人に相談の電話をしました。とても助かりました。
「あなたは迷える一匹の子羊を救った羊飼いです」と伝えると、その人は自分がクリスチャンだと答えました。最近、クリスチャンの人に導きを得ることが多いです。これは単なる偶然なのでしょうか。それとも今まで僕が彼らの声に耳を傾けなかっただけでしょうか。

「あなたがいままでAAに使ってきた100の力を30にして、残りの70は他のことに使いなさい」
自己犠牲は美しいときもあるが、自分がそれに酔っているときは、こっけいでしかありません。
僕はAA以外のことにも生きがいを感じることに負い目や罪悪感を持っていました。でも、生きがいはたくさんあるに越したことはありません。

僕はラウンドアップで、いろいろなことに気づいてしまいました。気づきたくなかったことまで気づいてしまいました。でももう、それは知らなかったことには戻せません。

夕方からAAミーティング。苦しいときには、誰の言葉も心に入ってきます(逆に言うと苦しくないときは、人の話に好き嫌いがあるわけです)。みんな大好きだよ、と言いたくなりました。

考えて、考えて、考えた

来年の9月に福岡で、日本AAの30周年を祝う記念集会があります。それは関東も含めた全国評議会で決めたことです。現地の実行委員会では、それに近い時期のローカルイベントの開催を慎んで欲しいという要請を全国に出しました。
関東(甲信越)では、春秋にラウンドアップ(RU)という数百人規模のイベントを行っています。過去に周年記念集会が行われたときには、重なるRUは中止になっていたそうです。だから、来年の秋の関東のRUはやめたほうがいいという意見が出ていて、僕も役割上その意見に賛成でしたし、それが正しいことだと確信していました。

一方、やっぱり来年の秋もRUはやりたいという意見も根強くあります。そういう人たちの理由は、福岡まで行くにはお金がかかるから貧しい人は行けないし、まして生活保護の人々はどうなんだという話でした。でも、僕はそれだったら一回ぐらい我慢したっていいじゃないかと思っていたのです。それになんとなく建前っぽい感じがします。
今回の茨城のRUに参加したのは、どうしてそんなにRUが必要とされているのだろう? という理由が知りたかったからです。

ラウンドアップでは、ミーティングやワークショップが開かれています。でも規律に縛られないAAでは、それ以外のことをやっている人もたくさんいます。ただロビーに集まってしゃべっている人、ハイキングに行く人、ソフトボールをやる人、麻雀をやる人、ラッフルをやっている人・・・。僕は特定の誰かと一緒にいるのではなく、いろんな場所をうろつきまわりました。

(続き)初日のオープニングでは、九州から来た集会実行委員が「関東は九州に恨みでもあんのかよ」と訴えて大うけしていたそうです。

答えは最終日の「さよならセレモニー」の中にありました。各種のプログラムから一人ずつ、それに参加した人が感想を短くしゃべりました。ソフトボールの人の話はとても率直でした。「俺はソフトボールをやりにRUに来ている。ソフトボールのないRUには参加しないよ。みんなでソフトやるのがいいんだ」
もちろんミーティングに何かを見つけたと言う人もいました。でも、そんな人ばかりじゃありません。ずっと麻雀ばかりやっていた人もいました。ラッフルの運営にかかりきりの人もいました。仲間に囲まれて延々おしゃべりを楽しんでいた人もいました。
僕は一人に30周年集会についてどう思うか尋ねてみました。
「行くとしても、お義理の気持ちが強いと思う」
委員会では聞けない正直な話がここにありました。

家に帰って、疲れたので布団に横になって考えました。なかなかまとまらなかった考えが、急に一つにまとまりました。30周年集会にはソフトボールはたぶんないでしょう。麻雀もラッフルも、24時間仲間としゃべる部屋もないでしょう(一ヶ所に集中して宿泊しないから)。
彼らの求めているものは、来年のその日の福岡には用意されていないのです。彼らは30周年という「晴れがましさ」を求めているのとは違うのでしょう。彼らが必要としているものを奪うのは間違っているような気がしてきました。

だから僕はもう、来年秋のRU開催には反対しません。でも、30周年の晴れがましさは福岡に譲ってやって欲しいです。AAが始まったのは東京ですから、関東も30周年かもしれませんが、その「晴れがましさ」は彼らに譲ってやって欲しい。そうじゃないと、一生懸命やってる九州の人々があまりにかわいそうです。それを求める人は九州まで行けるでしょう。できるだけ日付は福岡とずらして、(30周年と言わず)普段どおりのラウンドアップをやるのが一番だと思いました。

正しいかどうかわかりませんが、僕の意見は変わりました。今回ラウンドアップに行って良かったと思っています。

実際にどうするのかは、今後委員会の人々が決めていくでしょう。

ラウンドアップ参加(土・日)

土曜朝3時半。目覚まし時計よりちょっと早く仲間の電話で起きました。
4時半集合。
中央道・首都高・常磐道と抜けて、現地に9時過ぎに到着。
午前中のオールドタイマーズ(古株)の話を聞きました。一人30分ですからかなり長いです。6人中4人の話を聞きました。人の話に好き嫌いがあるのは良くないですが、僕も普通のAAメンバーです。
お昼を頼み忘れたので、おにぎりで昼食。
午後は医療関係者との交流会に参加。よく考えずに質問したので、自分でも何をたずねたいのかわからなくなってしまいました。アルコール依存症に関わる医療関係者が、回復の失敗例ばかりを目にして燃えつき(バーンナウト)してしまうことがあるように、AAメンバーも12番目のステップの成功率の悪さにセルフ・エスティーム(自己評価)の低下を経験することがあります。それを補うのにはどうしたらいいかを聞きたかったのですが、話はスポンサーシップへ。ただ、セルフ・エスティームは自給自足が原則かな、という結論が見えたので、それでいいことにして別の場所へ。

麻雀に参加するものの、途中で腹痛を起こし惨敗(4位)。
夕食を食べて、入浴。男湯の中で男だけの分かち合い。その後、珍しくラッフル(ビンゴ大会みたいなもの)に参加。仲間に話の押し売りをしてしまいました。ちゃんとラッフルに参加したのは初めてかな(時間は半分だけだけど)。
再び麻雀へ。2位、トップと調子を上げていくけれど、おけらになった人がでたので、これも神の意思かも知れぬと思い終了。
24時間ルームで話している仲間に、「もう寝るね」と言って部屋へ行ったのが12時ぐらい。打ち合わせがあるはずだったのに忘れてごめんなさい。こんなに早く寝るのは自分としては珍しいことなのですが、麻雀を続けた仲間も、24時間ルームの仲間も、寝たのは同じ1時だったようです。
...

続き

日曜朝7時起床。朝風呂と食事。さよならセレモニーに出席。解散後、ロビーでたむろしていたら、急に踊りだして倒れた人がいました。僕は彼がふざけているのだと思い、「酒飲ませりゃ治るよ」と冗談を飛ばしていたのですが、事態は冗談どころではなく、本物のアルコール性てんかんでした。断酒後の期間が短い人が身体に無理をすると起こることがあるのだそうです。東京の仲間たちは、処置にも慣れたものです。舌を噛み切ってしまったので救急車が呼ぶことになりました。貴重な経験をさせてもらいました。

10時半出発。3時に集合場所に帰還。一度もハンドルを握らせてもらえませんでした(信用まるでなし)。

大勢の中にいると、自分がありきたりのAAメンバーであると確認できて嬉しいです。回復は競争ではないから、優れたAAメンバーになる必要はありません。無名のひとりである喜び。
こちら のオーナーと会えました。更新止まってますけど、お元気そうで何より。
日記読んでますと言われること数回。駄文を読んでくださってありがとう。

宿泊のイベントでは、毎回身体も心も疲れきってしまいます。明日からまた仕事かと思うとうんざりですが、仕事を休めない理由は増えています。こんなに疲れるなら二度と行くものかと誓うのですが、しばらくすると懲りずにまた行ってしまいます。
でも、いろいろな事象が僕をだんだんAAイベントから遠ざけていくでしょう。もう一度会いたいけれど、おそらくもう会えないだろうと思った仲間には挨拶しておきました。霊的な交わりの中で、僕たちは共にあるでしょう。

実行委員の皆さんお疲れ様。ありがとう。今度は僕らの番です。

予定稿(金曜夜用)

だいたいラウンドアップに行こうという動機が実にうつ病の人間らしい考えから来ているのです。例えばラウンドアップは楽しいからとか、回復を得たいから、ヒントを得たいから、人と交わりたいから(たとえそれが麻雀卓を囲んででも)というのなら、それはまさに純粋な動機です。

しかし僕はラウンドアップにそんなに行くほうではありません(疲れるし)。大体2年に一回のペースでしか行っていませんでした。しかし去年は一回、今年は二回参加することになります(一回は実行委員だけど)。なぜ急に回数が増えたのかというと、それは役割が割り当てられたからであります。どこへでも極力顔を出す役目があります。そこで何が起きているのか知り、人々と話をすることが大切だということになっているのです。
だから僕はラウンドアップ「にも」行きます。でもその理屈に得心が行っているかというと、心の奥底まで納得しているとは言えません。だから、自分が十分活動しているということを、まずは自分自身に納得させ、そして出来れば他の人にもそう評価してもらいたいという動機付けが行われます。だから、ラウンドアップに行く動機が純粋ではありません。

もちろん行けば楽しむでしょう。得がたいものも得るでしょう。そのことに疑いはありません。でも、「自分が納得できていない責任を果たすため」そして「自分が無能力者でないと証明するため」という不順な動機が混じりこんでいると、どこか隙間風が吹いてしまいます。

けれども種をまいたのは自分です。刈り取ることは簡単です。動機と目的を今からでも「楽しむこと」に切り替えてしまえばいいわけです(じっさいそれが簡単にできるほど器用な人間ではありませんが)。
久しぶりに会う仲間もいるでしょう。よく顔をあわせる仲間ともっと長い時間行動を共にするのもいいかもしれません。いつだってたいした目算もなく、出たとこ勝負で生きてきたんじゃなかったっけ。

人間の心の奥底には、人間では埋めることの出来ない間隙があるといいます。ラウンドアップがそれを埋めてくれる人もいるのでしょう。残念なことに僕はそうではないし、なれるとも思いません。だからといってひがんでみても仕方がありません。

時間と言う無限の力を持った神様が、なにもかも押し流して行ってくれるでしょう。来年からはまた2年に一回のペースに戻ればいいだけです。

続き

まあともかく、元気はありませんが、ラウンドアップに行ってきます。
無理に楽しもうとせずに、仲間の中を漂ってきます。

イライライライライライライライラ

朝すっきり目がさめたと思ったら、単なる早期覚醒だったようで、身体がきつくてたまりません。
回復は一日ずつ なのだから、プログラムを始めたからといって、そんなに早く奇跡のような結果を期待するのは無理でしょう。

依存症からの回復とかうたいながら、すっかりうつ闘病記へと変わっているこのごろであります。

うつ状態は、落ち込んでばかりではありません。イライラして落ち着かないということもあります。大した仕事はしていないのに、一日緊張が解けないおかげで、夕方には疲労がたまっています(易労性といいます)。「ああ疲れたな、早く帰って横になりたい」というのが自然な考えなのでしょう。でも、夕方に駐車場で、落ち着きのなさを全開にしてしまいます。素直に家へ帰るより、ルーチン外のミーティングに出てみたくなるのです。
しかし物事が決断できないのも症状ですから、車の暖機運転が終わっても、まだ運転席で決められずにいます。そして、いくらなんでもこれからミーティングに行っても遅いだろうという時間になって、家へ向かいます(外部要因による意思決定)。

ミーティングに行って見慣れた仲間の顔を見れば、心は安らぐでしょう。しかし身体は確実に疲れます。疲労の上に疲労を重ね、そいつを翌日に持ち越していくのは良くありません。ルーチンのミーティングだけきっちりこなしていればいいのだと分かっていても、イライラ落ち着かないのです。
まして週末にはラウンドアップが控えています。これも肉体的には大変です。過労と抑うつ全開で行ったら台無しですから、僕の選択は正しいのでしょう。
でも何か、脅迫的な何かが存在しています。

僕は大局観を失っています。時期が来れば良くなるのは経験が証明しています。じりじりと一日が過ぎていくのを待っていればいいはずです。でも、どうしても、「世の中でこんなに苦しい思いをしているのは自分だけ」という考えにとらわれがちなのです。

困ったものです。

意識的なふれあい

例の本には、一日一回黙想の時間を持ったほうが良いと書かれていました。牧師であるAAメンバーからもステップ11を勧められました。いままでは暖かいお風呂の中で機会的に黙想するだけだったのですが、とりあえず黙想を毎日の習慣にしてみようという気持ちになりました。

姿勢はいろいろと試したみたあとで、シャーロック・ホームズが考え事をしているポーズが具合がいいとわかりました(僕の場合)。そしてやってみると、昔、願いながら決して叶わないだろうと思っていたいろいろなものが、今、自分に与えられていることに気づいて驚きました。

そして、僕が意識的な黙想から得た最初の神からの導きは、「財布の中の現金を勘定したほうがいい」というものでした。なかなか現実的で、異論をさしはさむ余地がない導きであったので、さっそく実行に移しました。

久しぶりに身体の奥底から眠くなり、歯磨きもせず、緑内障の目薬もせずに寝てしまいました。だからといって翌朝の目覚めがすっきりしていたわけではありませんが、通常の不機嫌な朝がやってきました。

布団の中で、なぜ僕は仕事がこんなに嫌なのだろう、休みたいのだろうと考えていました。話の成り行きで僕は慣れない仕事を抱えています。慣れない仕事は失敗する可能性が高いので不安なのですが、それはいつものことなので良しとします。問題はその仕事に値段をつける必要があることです。慣れたことなら自分の仕事に値段をつけるのも慣れています。世間の相場も知っています。慣れない仕事は見積もりができません。相場がわかれば、それにあわせることもできますが、それを知りません。
つまり僕は困り果てていたのです。けれど自分ではそれを認めたくありませんでした。値段なんてテキトーにつけちゃって、後で赤字になっても知らん顔、ぼろもうけしたらほくそえむぐらいのいい加減さがあればいいのでしょうが、残念ながら持ち合わせがありません。
「そうか僕は困っていたのか。そんな立場に追い込まれた運命を呪っていたのか」

午前中に2本の電話をかけ、僕は押し付けられた仕事を押し返すことに成功しました。誰も怒ってなんかいませんでした。言葉を翻した僕をあきれちゃった人もいるかもしれませんが、It's not that matters. であります。

ただ漫然と祈るのではなく、意識的なふれあいを求めていくことが、今の自分に必要とされているようです。

スピリチュアルな病気

「うつ」をやめれば、楽になる。 という本を読んでいます。この本は書名でずいぶん損をしているような気がします。この本に書かれているように、大半のうつ病者は自分は治らないと感じています。その人たちに対して、治ると断言されても、それを信じてみようという気になれないものです。

また、ある書評で「こんな内容をうつ状態の人が読めるわけはないし、読んだらもっと自責の念を強めてしまうだろう」と書かれていたので、そうかもしれないと思い、調子が良いときに読むように決めていました。

しかし、調子の良いときには、苦しんでいないわけですから、この本の内容に耳を貸そうという気にはなれないでしょう。僕は抑うつに対してまったく無力を認め、よくなるためなら「なんでもする」(とは言わないが、できるだけのことはしてみよう)という気になったのです。

「生理学的理由によっておこるうつでも、治るとまではいかなくても、コントロールできるようになる」という文章を読んだとき、僕の求めていたものはまさにこの言葉だと思いました。治るとは言ってくれなくていい、それは信じられない。でも、良くなるというのなら、そうなりたいと思うのです。

僕はこの本を読み始めたばかりですが、「うんうん、私もそうだった(今もそうだ)」と思い、「ひょっとしたら、私にもできるかもしれない」と感じています。

それは僕がAAのビッグブックを読み、そこに書かれていることを受け入れるだけの、ほんのわずかな謙虚さをようやく獲得できたことが効いているのでしょう。AAの仲間の話は大切であります。それなしには僕は依存症から回復できませんでした。しかし、仲間の数は有限です。そこに僕の悩みがありました。しかし、ビッグブックに書かれていることは、時代や人種や文化を越えて普遍です。原理はいたってシンプルでした。

うつは身体の病気であり、心の病気であり、またスピリチュアルな病気であると説かれています。確かに身体や心の病気であれば、薬は必要だし効き目があるかもしれません。でも、スピリチュアルな部分は自分が良くなろうと思い、そのために何かをしないと良くはならないことは、依存症での経験が教えてくれています。

続き

確かに自分は病気であることを選択している部分があります。他の人からどう見られているか、何を期待されているかに泥濘しています。他の人の役に立つことが目標だとするならば、まず役に立てる自分が存在することが欠かせません。そうでなければ、ドーナツの穴と同じように空虚です。
ステップを踏む過程は、本来すがすがしいものであるはずです。ステップが苦しいのは自分の側に大きな問題が残っているからでしょう。僕はその問題を出来る限り取り除きたいのです。

今回のうつのエピソードの中で僕は剥き出しの感情で人を傷つけました。後悔しています。後悔はしていますが、それは相手の傷のことではなくて、そのことで相手の僕に対する評価が悪いほうに変わってしまうのではないかという恐れであり、相手との関係が変化することへの恐怖心の表れにすぎません。
僕は自分を苛むことで償いにかえているのです。そうではなく、僕は傷に直面しなくてはいけません。たとえただ待つことしか手段がないとしても。

僕はアルコールより古い問題に対して、やっと向き合おうという気が起きてきたのです。
プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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