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積極的な行動

かずきちさんがブログで「ステップ3は行動のステップか」というエントリを書いていたので、それについて書いてみたいと思います。

ステップ3は「決心をする」ステップです。では決心するのは行動なのかどうか。

ビッグブックには、ステップ4の先頭に「次に、私たちは精力的に行動を始めた」とあります(p.92)。

一方、12&12には「ステップ3は、残りの全ステップと同じく、積極的な行動を求める」とあります(p.48)。

どちらも「それ以前のステップは行動ではない」とは言っていません。ステップ4以降の行動には活発さが求められること、ステップ3以降の行動には積極性が必要なことを言っているのみです。

ステップ3の「決心する」は made a decision です。decision はここでは決心と訳されていますが、決定すること、判断することです。判断を下すのは、明らかに行動(行為)です。

ステップ1は、自分はアルコールに対して無力だと「知る」ステップです。ステップ2は、その問題はハイヤーパワーが解決できると「知る」ステップです。この二つのステップは、情報を手に入れるステップなので、「情報を手に入れる」以上の行動は必要とされません。ミーティングに行くのも、スポンサーの話を聞くのも、「情報を手に入れる」ためです。

ステップ1と2を順調にこなせば、私たちは決断を迫られます。自分は問題を抱えている(アルコールの問題)、しかもその問題は今日にも明日にも再燃するかもしれない。もし問題の解決策がないのなら、黙って問題に耐えていくしかありません。どこかに解決策があっても、それを知らなければやはり耐えるしかありません。

しかし、ステップ2で解決策の存在を知ってしまった。そこで二つの選択肢があります。解決策があることを知りながら、それをせずに今までと同じ悩みに耐えていくか、あるいはその解決策を試してみるか。

解決策が分かっていても、決断を下せないことはいくらでもあります。僕は先日車のアイドラーという部品を交換しました。ずいぶん前からエンジンの異音に気がついていて、いつかはディーラーに持ち込んで点検修理しなければならないと分かっていました。問題があることを知っている(異音)、解決策があることも知っている(ディーラー)。これはステップ1と2ができている状態です。

けれど僕は「解決策を使う決断を下す」という行動を取ることはありませんでした。異音のする車に乗り続け、その音に不満を持ちつつも我慢を続け、関係ないエンジンオイルを交換したりしていました。僕が問題から目を背け続けるうちに、アイドラーの破壊は進んでいきました。ある日アイドラーはついに壊れ、ディーラーに持ち込む以外方法がなくなりました。そして修理の5日間、僕は車なしでとても不便な生活を強いられました。事故をして永久にその車を失わなかったのは、せめてもの幸いでした。

自分で直せないものを修理できる力を持ったもの(車の場合には修理工場、自分の場合にはハイヤーパワー)を頼る、という決断をまず下さなければ、解決策を知っていたとしても何の役にも立ちません。ステップ3こそはまさに要(かなめ)です。

人間は生活しながらたくさんの決断を重ねています。RDPのセミナーでは「人は一日に約5千回判断を下す」と教えられました。そして

決断の質が生活(人生)の質を決める。

とも教えられました。良い決断をすれば良い人生が、ヘボな決断をすればヘボな人生が待っているわけです。

春だというのに雨や雪の寒い日が続きました。そんな日に車なしで徒歩と電車で濡れながら通勤する羽目になったのは(おまけに遅刻もした)、直せる力を持った存在を頼らないというヘボな決断を僕が下し続けたからです。僕がアルコールで何度も入院したのも、ヘボな決断を続けたせいです。

ステップ3は良い決断をするステップです。ヘボな決断はステップ3ではありません。いままでヘボな決断を続けていたものを、良い決断をするように変わらなくてはなりません。ステップ1と2で情報を手に入れても、いままでと同じ自分であり続けることができます。けれどステップ3でもいままでと同じならば、ヘボな決断が下されステップ3にならないだけです。

ヘボな決断を良い決断に入れ替える、という「行動」がステップ3です。
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仲間の「支え」

スポンサーだからといって、スポンシーのことを勝手気ままに雑記に書いて良いわけではありませんが、少し書いてしまいます。

スポンシーのひとりからは毎晩電話をもらっています。その電話代は月に数百円では済まないでしょうが、それも回復の費用だと思ってもらうしかありません。ミーティングに通う費用や仲間と飲むコーヒー代と同じことです。

毎日の電話の内容に大きな変化はありません。変わりがないことも大事な情報です。変化がない状態が続いていれば、小さな変化に気づくこともあります。

最近スポンシーの電話の中で、「ミーティングの前(や後)に○○さんと話をしました」という話題が出てくるようになりました。以前はそういう話題が出てくることはありませんでした。もちろん以前からミーティングの前後に仲間と話をしていたでしょうが、その「仲間と会話した」という事実は、家に帰ってスポンサーに電話する頃には頭に残っていなかったわけです。なぜ頭に残らなかったのか、それは話の中身が他愛のないことだったからかもしれず、回復に関わることなのに彼の頭に引っかからず残らなかったのかもしれません。

しかし今は「仲間と会話した」ことが彼の一日の中で大事なことだと感じるようになったわけです。この変化が起こるまで、毎日ミーティングに通って半年かかりました。いかにアル中が人間関係を苦手にしているか、それを乗り越えるのに時間を要するかがわかります。

もちろんスポンシーも過去に、他の人と心の深い部分で通じ合った(と思った)こともあったはずです。けれどそれは酒か薬が身体に入っていたからこそできたことでした。いざ酒や薬が使えなくなって、しらふで世間に放り出されると、どうやって人付き合いしたらいいか分からずに途方に暮れてしまう、それはどのアル中さんにもあることです。

もちろん、表面的な付き合いはできるのです。というか、表面的な人付き合いは上手だったりします。自分の内面を隠して飾って(虚勢を張って)見せることは得意なのです。そして、人付き合いとはそういう表面的なことだと思ってしまっているので、人間関係に虚しさを感じていたり、人に対する恐れを持っています。

そういう偏りを取ってくれるのは、ステップよりも、仲間という人間の存在によるものです。であるからこそ、気まぐれにあっちの会場、こっちの会場に行ってもらうのではなく、当面同じミーティングに通い続けてもらう、というのが僕の考え方です。

mil 「底つき体験」に関する誤解

依存症からの回復には「底つき体験」が必要だとされます。
しかし、「底つき体験」とは何であるか。これはずいぶん誤解されているように思います。

まず一つは、「社会の底辺のようなところへ落ちぶれることが底つきだ」という誤解です。おそらく「底」という言葉のイメージが底辺を想像させるのでしょうし、アル中という言葉にはそういう雰囲気が含まれているのでしょう。しかし、アル中さんがドヤ街にたどりつけば回復するわけではありません。どちらかと言えば、頑固に底つきしなかったがゆえに落ちぶれてしまったわけです。

大きなトラブルが起きることを「底つき」だと思っている人も少なくありません。例えば酒のせいで失職したり、離婚されたり、あるいは大きな病気にかかるなどなど。つまり「酒を止めよう」と思うきっかけになるような出来事が「底つき」だと思われているわけです。その出来事は大きなトラブル(入院など)かも知れませんし、小さなトラブル(健康診断の数値が悪い)かも知れません。

なぜそのような誤解が生じるのか考えてみます。するとどちらも「飲んでいた酒をやめるきっかけになる」という意味で使われていることが分かります。何かのきっかけがあって酒を止めた人たちが、「回復には底つきが必要」と聞かされます。当然その人達は、自分が現在飲んでいない以上は回復に向かっていると信じたいでしょう。そして、自分が酒をやめたきっかけを「あれが底つきだった(=だから私は回復に向かう条件が整っている)」としてしまったのでしょう。

もちろん「底つき」は落ちぶれることではなく、断酒を決意するきっかけでもありません。では「底つき」とは何なのか。

まず底つきのためには、何であれ「酒をやめる努力」が必要です。ほとんどのアル中さんは、酒をやめるために最初から何かを頼ろうとはしません。断酒のために人からああしなさい、こうしなさいと言われることを好まず、自力でやめようとします。その努力が成功しているうちは、底をつくことはできません。つまり「底つき」とは断酒の失敗からしか得られないものです。

中にはまったく自力で断酒できなかったという人もいます。精神病院に入院して物理的にアルコールから隔離されているとき以外はやめたくてもやめられなかった、と言います。失敗続きの人の底つきは実にシンプルです。

なまじ自分の力で断酒が成功している人のほうが底つきは難しいわけです。しかしやがて再飲酒というチャンスがやってきます。その時に、自分ではうまく断酒できなかったことを認めて別のやり方に切り替えることができれば、それが「底つき」になります。あくまで自己流にこだわれば、底つきのチャンスは次回の再飲酒に先延ばしになります。

中には再飲酒という失敗を犯さなくても、自己流の断酒の見込みの無さに気づける人もいます。しかしそういう人はわずかです。

問題をややこしくしているのは、少ないながら自己流で一生断酒できる人が存在していることです。この人たちは底つきなしで一生酒をやめきったわけです。その中には回復を遂げずに一生酒を我慢した人もいるでしょうし、底つきが不要な回復を得た人もいるのかもしれません。しかしいずれにせよ少数です。

大多数の人にとっては回復に「底つき」は不可欠です。それは、自分のやり方ではうまくいかなかった。だから(人からああしろ、こうしろ言われるのは気に入らないが、それでも反発心を抑えて)人の勧めに従ってみるしかないだろう、という「ある種の諦め気持ち」のことです。アル中さんにとって、人の指示に従うことは、酒を手放すことより難しいことです。多くの場合、自分で底つきをしたと思っても、まだまだ留保が大きく、自分のやり方を諦め切れていないものです。

底つきをした人はみじめな顔つきをしているものです。そりゃそうでしょう、自分の力を完全に否定されたわけですから、情けないみじめな気持ちになって当たり前です。あるAAメンバーが言っていました。

「俺はみじめになったヤツを見るのが好きだ。そいつが回復する準備ができたってことだからな。みじめならみじめなほうがいい、とことんみじめになって来てくれ、って思うよ」

自分のやり方にとことんこだわると、社会的に落ちぶれたり、大きなトラブルを起こしたりします。酒のせいでいろいろなものが損なわれないうちに回復につなげることを、底つきの底を浅くする=底上げと呼びます。なるべく失うものが少ないうちに回復したほうが良いに決まっています。依存症のケアに携わる人たちの間で「底上げ」がずっと言われ続けています。

しかしそもそも「底つき」が誤解されているために、「底上げ」に何が必要なのかも誤解されています。自己流の断酒を応援し、それをサポートすることが底上げにつながるのではありません。それは病気の進行を遅らせているだけで、アル中さんをより回復が困難な道へ誘導してしまうことになります。良かれと思って間違った手助けをしている点では共依存とちょっと構図が似ています。さすがに、早めに自力断酒を失敗させるために再飲酒の罠を仕掛けろ、とは言いませんが、失敗(再飲酒)の機会を捉えて自己流を諦めさせるのが「底上げ」への最短路です。

依存症の早期発見・早期治療が進んできましたが、それが必ずしも「底上げ」につながっていないのは、こうした事情があるからでしょう。

金の使い方

総務省統計局が発表した今年1月分の家計消費支出状況によると、酒類消費に支出した金額は一世帯あたり(全国平均)2,877円でした。一日に平均すると96円弱になりますから、アル中でないおとーさんたちは一日一本の発泡酒も飲んでいないということになります。ちなみに外食費のなかで飲酒の費用は1,928円なので、両方足しても一家族あたり1ヶ月の酒代は5千円たらず。
(ちなみに昨年11月は、酒類消費3,533円・外食費中の酒代1,374円)。

アクティブなアル中だった頃の僕は、一日に焼酎を1〜2本、ビールと日本酒を少々飲んでいました。外で酒を飲むことはあまりなく、ましてやおねーちゃんのいる店で飲むこともなかったので、酒の支出は酒屋やコンビニで買う費用だけ。おおむね月6万〜8万円ぐらいだったでしょうか。これを10年続けたわけです。(終わりの頃は酒税改定やディスカウントショップの出現で酒がかなり安くなっていた気がします)。

ギャンブル依存や買い物依存の人は、金の使い方も桁違いなので大変なようです。

いずれにせよ、その金の無駄な使いっぷりのバカさ加減は「笑っちゃうしかない」わけです。そのバカさ加減を正面から見つめると、我ながら「痛々しい」としか感じられないわけで、なんて自分はバカだったんだろうと自己憐憫に浸ったりするわけです。また自分のバカさ加減を受け止めきれない時には「こんなに金を使ってたんだぜぇ〜」という自慢話をしてしまい、それは昔に無駄金を使ったバカさ加減を、今その自慢話をするという形で再現してしまっているので、聞いている方に「痛々しさ」を感じさせてしまいます。

しかし、回復が進んでいけば昔の自分のバカさ加減も受け止められるようになりますし、今も大して変わらないバカっぷりの自分自身も受け入れられるようになります。結果として、自分のバカさ加減を「笑える」ようになってくるはずです。

ただし、自分を笑えることが回復の指標であるのは確かなことですが、自分を道化にして注目を集め人気を取るという脇道へ逸れてしまうことも、ありがちなことです。これは自分を笑うことを回復の手段にしてしまうことが間違いでしょうね。笑いというのは回復の結果として表れてくるものであって、手段ではないからです。

スティグマのある病気の告知

統合失調症(精神分裂病)の告知を受けていない患者さんは意外と多そうです。医者は治療上のメリットがなければ、告知をしないのかもしれません。家族は告知を受けているけれど、本人はご存じないというケースもありました。

AAに来る人の中には、当然統合失調の人もいます。AAはアルコールの問題だけを扱っているので、統合失調か否かは問題じゃありませんが、しかし気になってしまう時もあります。例えば幻覚・幻聴の内容です。

昔の精神科は入院が必要になるような重度のアル中ばかりを診ていました。そんな時代でも、幻覚(幻視)・幻聴を体験する患者は半分以下だったそうです。それでも僕がAAにつながった十数年前には、幻視・幻聴体験を話す人は珍しくありませんでした。その後、健康日本21のような国策のおかげでアルコール依存症の二次予防が進み、比較的軽症のうちに治療を開始する人が増えた結果、幻視・幻聴体験を持つ人の比率はさらに下がっている印象を受けます。

だからAAのミーティングで幻視・幻覚の話が出るだけで少々珍しいことなのですが、その内容がちょっと気になってしまったりするのです。アル中の人の妄想はたいてい被害的で、例えば声の幻聴が聞こえる場合にはたいてい非難する内容で、幻聴が褒めてくれるということはまずありません。しかし聞いていると、それはアル中の幻視・幻聴ではなく、統合失調のさせられ体験や被害妄想ではないかと思えてくるケースもあります(この違いは言葉では説明しにくい)。実際に、後になって治療上の必要から告知を受けたという告白を受けたことがありました。

医者が告知しない理由は、統合失調症にスティグマがまとわりついているからでしょう。本人の悩みを増やすだけなら告知の意味がありません。陰性症状(感情鈍麻・思考困難・意欲低下など)主体で妄想がほとんどない人もいますし、若い頃は陽性症状が目立ったけれど今は陰性の残遺症状があるだけの人もいます。その若い頃に酒を飲んでいたなら、急性症状もアル中の症状の一つにされちゃっているかもしれません。あるいは本人はそれを妄想だと思っておらず、実際にあったことだと信じていても、話を聞いてみると、いろいろつじつまが合わなかったりとか。

酒をやめた後も生き辛さが残ってしまい、それはアル中以外の何らかの病気があるからではないか、と考える人は珍しくありません。例えば雑記に発達障害の話を書けば、「私は発達障害でしょうか?」というメールが舞い込みます。ところが統合失調の話を書いても、同様のメールの数はほとんどきません。それは、「生まれつき」のほうが統合失調より社会のスティグマが少ないからだと想像しています。

自分は何かの病気ではないかと考えて、それを調べてみる。そういう「自分探し」は決して悪いことばかりではありません。時にはそれによって解決に向かうこともあるでしょう。けれど、どんな真実が出てこようともそれを受け入れる覚悟がないのなら、自分探しはやめるべきです。医者が「うつ」と言っているのなら、そういうことにしておけば良いと思うのです。

統合失調と境界性人格障害(ボーダー)の境、統合失調と広汎性発達障害(アスペルガー)の境、統合失調と非定型うつ病の境、どれにも明確に区別できない曖昧な部分があるようです。はたしてそこで正確な診断が必要なのでしょうか。医者は病名に対してではなく、症状に対して薬を処方してくれます。病名は便宜的なものです。正確な診断があってもなくても、治療(例えばカウンセリングに行く)が同じなら、診断にどれだけ意味があるのでしょうか。

医者が告知しないのには理由があり、それを信じれば良いと思います。明らかに未治療である場合を除いて、第三者が首を突っ込むべきでない問題だと感じています。

35周年記念集会

AA日本の35周年記念集会に行ってきました。
長野を出発したのは6時半。途中でのんびりモーニングセットを食べたせいで、9時半の開始時間に間に合いませんでした。でもちゃんとご飯を食べるのは大事なことなのです。
いくつかの部屋で同時進行でミーティングが行われており、スポンサーシップについてのミーティングを聞くつもりでいました。事前に仲間から案内があり、以前ごく短期間スポンサーをお願いした仲間がスピーカーをやることが分かっていたので、それを聞こうと思ったのです。しかし遅刻したせいでその部屋は満席。12の概念の部屋も同様に満席だったので、「関係者との分かち合い」の部屋を選びました。空いている席に着いてみると、横が葛西先生。斜め後ろは岡崎先生でした(岡崎先生とは面識をいただいていませんが)。

アメリカのドクターの話、山梨の大河原先生の話。それから質疑応答。

ある病院がアルコールのデイケア・ナイトケアに患者を囲い込むようになったおかげで、その近辺のAAメンバーが減っているという話がありました。病院は送迎してくれるので患者も楽だし、福祉事務所のケースワーカーもそちらを使わせたくなってしまう、という事情があるのだそうです。ところがデイケア・ナイトケアというのは社会復帰用のリハビリとしてはいま一歩であり、経済的に自立させようとした途端に再発というのもありがちな話です。

アルコール依存症の治療が通院指向になり、また厚生労働省が精神科デイケアへの保険点数を手厚くしたおかげで、アルコールのデイケアが全国的に増えているのだそうです。患者の囲い込みはその地方だけの問題ではなく、全国的な現象というわけだ。しかし今後はそれも抑制傾向になるかもしれない、という話でした。

外部の環境の変化によってAAが増えたり減ったりするのは仕方ないことですが、あまりAA外部に原因を求めるべきではないと思います。患者さんがAAよりデイケアを選ぶのは、デイケアに魅力を感じるからでしょう。「回復」という点でAAに魅力を感じて貰えないことが問題なのです。AAの成長が語られるとき、それはメンバー数、グループ数、会場数などの量的拡大についてばかりです。量ではなく、質が語られねばならないはずなのに。

アメリカの都市部には、無料でドライアウト(アルコールの解毒)をやってくれる施設があるという話でした。期間は5日間程度で、解毒専門です。一方で、以前はたくさんあった長期治療施設(長期といっても3〜4週間だけど)は減っているそうです。これは3年前のホワイト先生のワークショップで語られていたことと同じです。アメリカ社会のアルコホリズムに対する態度が変化していることが背景にあり、依存症を病気として治療するよりも、道徳的な問題として懲罰の対象にしようとする潮流があるわけです。

たまたま隣に座っていた仲間が「リカバリーパレード」のチラシを持っていました。アメリカではそうした傾向を反転させようと「回復擁護運動」が活動しています。リカバリーパレードはその日本への波及で、

「アディクションや心の病などに対する社会の偏見を取り除くのは回復者自身の責任である」

というホワイト先生の言葉をスローガンとして、今年の秋に東京で回復者の祭典(パレードなど)を行い、回復可能な病気であることを社会にアピールする企画です。

さて、お昼に昼食難民になっていたら、東京代々木のグループの面々が通りかかったので、くっついていって一緒に食事をさせてもらいました。このグループの雰囲気は他では得がたいもので、僕は「東京で出席するのにお勧めの会場はありますか?」と聞かれたときに、迷わずお勧めする会場の一つです。東京神奈川県境で新しくグループを作った仲間に近況を聞かせてもらうこともできました。

午後は大きなホールで、アメリカやモンゴルや韓国のメンバーのスピーチを聴いていましたが、前夜からの睡眠不足もあって頭痛がしてきました。とはいえ寝る場所もないので、隅っこに行って頭痛薬を飲み、戻ろうとしたら、「ひいらぎさんですよね」と声を掛けられました。「家路」にメールをくれた人で、AA以外のグループの人でした。頭痛薬が効いてきたのか、それとも単に女性と話ができて嬉しくなったのか、僕のステップの解釈の押売り話を30分ほどしてしまいました。その人が何年もかけて悩んできた仕事上の問題と、僕が夕食後すぐに歯を磨く気になれない問題を、同じ「性格上の欠点」にまとめてしまったのは失礼だったかもしれませんね。

別の仲間が「最近人を裁く傾向が強くて」という話を持ちかけてきました。ここはAAの会場で皆が回復を分かち合っているのですから、文脈からすれば「性格上の欠点」に話を持っていくべきなのかもしれません。けれど、最近の彼の事情を聞かされている身としては、そっちへ話を持っていきたくありませんでした。

僕の考えでは、人間は誰だって「うん、うん、そうだね」と頷きながら聞いてくれる話し相手が必要です。結婚している男の場合には、奥さんがその役目を引き受けている場合も少なくありません。何かの家庭の事情で奥さんがその役目ができなくなってしまうと、旦那さんのメンタルがちょびっと不調になって、仕事やAAでのパフォーマンスが落ちてしまうのは異常なことではありません。そんな時にはスポンサーに話を聞いてもらうのもいいし、それが忙しくて捉まらないようなら、スポンシーにその役目を負わせてもオッケーだと思います。きちんとプログラムができているスポンシーだったら、心配いらないはずです。なにせ時間を割いて無償でプログラムを渡してあげたんだから、たまにはそういう形で「支払って」もらってもいいじゃないのさ。

昼間のプログラムが終わってホールからどっと人が出てきてホールに溢れました。そこで会った仲間と「ネット上でのAAメッセージの運び方」みたいな話をしました。立ち話もなんなので、長野から一緒に来た仲間と合計3人で夕食にラーメンを食べながら続きの話をしました。話の中身については、改めて雑記に書きたいと思います。

夜は地元の仲間に誘われて名古屋観光に出てしまったので、結局ミーティングには一つも出ませんでした。たくさんの人たちが来ていました。ただ大きな集まりだと、せっかく知り合いと会ってもゆっくり話をする時間がないのが残念です。でも今回もまた人と知り合うことができました。長野に帰ったら夜半前。今回は同行してくれた人がいたので、交通費が半額で助かりました。実は5年ごとの記念集会に行くのは今回が初めてだったんです。

信仰についても高すぎる要求を自分にしない

「ステップ2でつまずいている」と言う人がいます。

その考え方は否定しませんが、僕はそうした話を聞くと、心の中で「はたしてそうだろうか?」と考えます。実はその人はステップ1でつまずいているのではないか。アルコールに対する無力を認めることができていないんじゃないか、と思うのです。

しかし、それは置いておいて、ステップ2にも難しさがあるのは事実です。

ステップで使われる「神」という言葉は、あくまで「自分で理解した神」という意味です。決して他の人の理解する神ではありません。神という言葉を聞いたときに、キリスト教やその他の宗教の神を思い浮かべる人が多いのですが、その信徒でない限りその神を思い浮かべるのは適切ではありません。なぜなら、それはその人の理解できている神ではないからです。

理解できていない、つまり信じることができない対象(神さま)を信じようとしても、それは無理です。無理なことはやめて、いま自分が信じられるものを信じればいいのです。

ではいま自分がどんな神さまを信じているか?

たとえばこんな質問をします。もしあなたの願い事を叶えてくれる神さまがいるとしたら、あなたはその神さまに何をお願いしますか? マジで考えてください。

仕事の成功、お金、健康、異性などなど。人によって願い事は違うでしょうが、ちゃんと考えてくださいね。

では次の質問です。もしその願い事を叶えてくれる神さまが、本当にいるとしたら、あなたはその神さまを信じてもいいと思いますか?

はい。そういう自分に都合の良い神さまだったら信じてもオーケーだ、と答えられた人は、もう「信じることのできる対象(神さま)」を持っているわけです。

もちろん、そうした都合の良い神さまを信じることは、稚拙な信仰です。「そんな未熟な信仰ではいけない」と私たちは耳タコで聞かされてきました。祈りとは願い事ではないと聞かされてきました。だから私たちは自分の理解できる神さまを捨て、人の信じる神さまを自分も信じなければと四苦八苦してきたのですが、それは間違ったやり方でした。

「ほかの人が信じる神のことは考えなくてよいのだとわかって、とてもありがたかった。あまり適当でなくても、自分なりの考えで、神に近づき、神に触れることができた」(p.68)

「そうして時間がたてば、とうてい手の届かないものにしか思えなかった多くのことが、受け入れられるようになった自分に気づくようになる。それが成長なのだが、成長するには、どこかで始めなければならなかった。だから私たちは、自分なりの神への理解から始めた。たとえそれはせまく、かぎられた理解だったとしても」(p.69)

立派な信仰を持つに越したことはありませんが、すぐにそうなれるわけではありません。幼児洗礼を受けて毎日曜日に何十年も教会に通い続けて得られるような信仰心を、たった十数回AAミーティングに通っただけで得られるはずがありません。立派な神さまを立派に信仰するという無茶な要求を自分にするのは止めて、いま自分の立っている場所から出発するしかないのです。

自分がどうしても神を信じることができない、理解することができないと言う人は、信仰心についても「立派な信仰を持った自分」を無意識に要求しているのです。そうではなく、拙かろうとも等身大の信仰から始めるしかありません。

ステップ2は、どんな神さまを自分は信じているか、どんな神さまなら信じられるか、ということから始めるしかありません。それが「私はこんな神さまを信じています」と人に言うのが恥ずかしいような幼さであったとしても、ともかくそこから始め、あとはそれを成長させていくしかありません。

selfish/self-seeking(利己的と身勝手)につい

今回はテクニカルな話です。

RDPの棚卸し表では、第4列(自分の過ち・欠点)には4つチェックする欄があります。
先頭から「利己的」「不正直」「身勝手・恐れ」「配慮(関心)の欠如」です。

これはビッグブックの以下の場所から来ているのでしょう。

 Where had we been selfish, dishonest, self-seeking and frightened? [p.67]
 自分がどこで利己的で、不正直で、身勝手だったのか。何を恐れていたのか。(p.98)

 Where had we been selfish, dishonest, or inconsiderate? [p.69]
 私たちはどこで自分勝手であり、不正直であり、思慮を欠いていたか。(p.101)

ここで問題になるのは selfish(利己的)と self-seeking(身勝手)の違いです。二つの違いについて入手できる情報と言えば、『ビッグブックのスポンサーシップ』に数行書かれているぐらいですが、困ったことにその文章が要領を得なくて違いがよく分からないのです。

先月奈良で、RDPの開発者ジョー・Mの後継者であるラリー・ゲインズ氏によるRDPのワークショップがありました。その中でも「この二つはどう違うのか?」という質問が出ていました。それに対するラリーさんの答えは極めてシンプルで、

「程度の違い」

というものでした。
selfish → self-seeking → self-centered の順に程度が酷くなっていきます。この程度とは「どれだけ求めているか」、つまり強迫感の強さです。この3つに共通するものは self つまり自分に(だけ)利益をもたらすという点です。

例えば同僚と昇進を争っていて、どちらかが上のポストに就けるとき、相手の足を引っ張ろうとして相手の能力に疑問を呈するアピールをする程度だったものが、自分が昇進できない不安が強まると、ウソの噂を流して相手を貶めようとする、とか。

別の例を挙げると、ある車を買いたいと思う。なぜその車が欲しいかというと、それを手に入れることでエゴやプライドが高められるから(つまりこの場合も利益を得るのは自分のみ)。他に使うべき金を惜しんで車を買うために貯金するだけでも selfish なこと。そして金が貯まって車を買いに行くと、値上げされていて金が足りないとする。さらに意固地に金を貯めても足りないとなると、今度はウソやズルや盗みをしてでも金を増やそうとする。このように欲求、恐れ、あるいは強迫感の強さによって、自己中心性というのは程度が強まっていくわけです。僕なりの言葉で言えば「人を押しのける力の強さ」でしょうか。

そう考えると身勝手と恐れがセットになっていることも頷けます。利己的と身勝手に本質的な違いはなく、ただ程度の違いと考えるのはシンプルで気に入りました。

なお、日本の回復研究会の配布している棚卸し表では selfish は自己中心と訳されていて、self-seeking は身勝手とされていたり、あるいはその言葉が削除され「恐れ」のみの欄になっていたりします。

自己中心性に関するラリーさんのコメント。
アル中は「自分に都合の良いものを、自分に都合の良い方法で、手に入れようとする。だから彼らが最も聞きたくない言葉は No だ」。

ストーリー形式の棚卸しを聞く

スポンシーの棚卸しを聞きました。今回はいままでの人生をストーリー形式で振り返るやり方で、従来の日本式の手法です。僕はこれにライフストーリー形式という名前を付けています。

書いてもらう前にスポンシーに出した指示は「これを書くのに何週間も、何ヶ月もかけてくれるな」でした。これが済んだら表形式の棚卸しに取りかかる予定なので、それが何ヶ月も先に伸びてしまっては、ステップ全体の進行が止まって困るのです。完璧を求めすぎる余り、時間がかかりすぎるのは良くありません。それよりも設定した期限までに仕上げることを要求したのです。

僕がこの方針をとるのには理由があります。僕はストーリー形式の棚卸しから性格上の欠点を分析する技法をスポンサーから受け継いでいません。聞いていれば大まかな欠点はわかるものの、その原因・根源を探っていく技量を持っていないのですから、そこに注力する意味はありません。表形式をやる前フリとしてやっているわけです。

このやり方にも利点があり、その人の人生全体を鳥瞰することで、行動や考え方の傾向を知ることができます。また登場人物も一通り把握できます。これは大事なことです。正直になりきれないスポンシーは表を書くときに、特定の相手を完全に無視して表に載せないことがあります。あるスポンシーは恨みのリストに奥さんと子供を載せませんでした。理由を聞くと、「妻と子に対してまったく恨みはありません」と真顔で答えたのでした。こんな具合なので、なにか重要なインシデントがあっても、その相手を表から外してしまう可能性は十分あります。棚卸しから誰かを外せば、埋め合わせからも外すことになり、それがステップ全体の効果を台無しにする可能性もあります。ストーリー形式を先にやっておけば、本人もスポンサーもそれをチェックできます。

ストーリー形式の場合、書くときも、話すときも、聞くときも、「考える」よりも「感じる」ことが大事であるように思います。しかし感じたことの効果は、月日とともに薄れていってしまうわけですが。

スポンシーはそういう「自分で問題を乗り越える力」がずいぶん弱くなっているので、別の手段に頼ろうとします。それが例えば酒、ギャンブル、異性であったりします。嫌なことがあると、不眠のために処方された睡眠薬を夕方飲んで寝てしまう人もいます。薬の依存になっていなくても、嫌なことを乗り越えるために気持ちよくなる薬が欠かせない人は、いつまでたっても同じ程度の悩みで音を上げています。

やめたばかりのスポンシーは、本当に些細なことで悩むものです。細かなことで悩まず易々と乗り越えていけるようになって欲しいと願うならば、やはり安易な癒しは与えないことでしょう。

悩みとはゴミのようなものであり、心に悩みがあるとは、心という部屋の中に悩みというゴミがたくさん散らかっている状態です。健康な復元力があれば、いずれ心の中が整理され掃除されて、悩みと折り合いがついていくものです。この自然な復元力が失われているようであれば、「棚卸し」という積極的な行動によって整理整頓をうながすべきです。

一時的な効果しかない慰めを与えるより、永続的な効果のある12のステップへ導くのがスポンサーの役割だ、という当たり前の話でした。

ボーダーの人は本当にアル中か?

あまり真面目な話ではないので、話半分に聞いてください。

パーソナリティ障害(人格障害)の一つに、境界性パーソナリティ障害(BPD)というのがあります。いわゆる「ボーダー」の人たちです。これは女性に多い。

BPDにはアルコールを含む薬物乱用が多いことが知られており、治療中のBPDの5割〜7割に薬物乱用があるそうです(アメリカの話)。では、アルコール薬物依存の人にボーダーは多いのか? 調査によって、また薬物によっても幅があるのですが、1割〜4割ぐらいです。ただ、対象を女性に限ればもっと割合は増えるかもしれません。BPDと薬物乱用が合併すると、より深刻なことになり、反社会性行動や自殺企図が増えるデータがあります。

ボーダーの女性アル中は、ネットにもAAにもいます。ただ、僕が知っている人はサンプル数としてはそう多くはありません。その多くないサンプルから僕が感じていることは、

この人たち本当にアル中かなぁ?

ということです。

彼女たちの飲んでいた頃の話は、結構すさまじいものです。・・・けれど、やめる気になったときは、結構スッパリ酒をやめています。やめる気になるまでは大変なのですが、その気になりさえすれば(BPDのないアル中さんに比べれば)結構簡単にやめてる感じがするんですよね。

もちろん彼女たちの飲酒時の状況を、DSM-IVでもIDC-10でも操作的な診断基準に当てはめれば、ちゃんと「アルコール依存症」っていう診断になるのでしょう。ただし操作的診断基準の問題については、素人の僕がここで改めて書くまでもありません。

彼女たちの飲酒は、どんなにすさまじかろうと、詰まるところボーダーの症状に過ぎないのじゃないか?

という印象です。
だからってBPDのアル中さんを別扱いする必要があるかどうかは判りません。ただ、女性のAAメンバーがスポンサーを選ぶときは、そのことを考えた方がいいような気がするのです。
プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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