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リハビリ

僕が子供のころ、実家でヤギを飼っていました。
雌ヤギは乳を搾り、雄ヤギは種ヤギとして種付け料が父の副収入になっていました。種付け料はヤギの血筋によって決まるらしく、良い血筋の雄ヤギを確保することが収入アップにつながるのでした。
ある時、峠の向こうに良い雄ヤギがいると聞いた父は、軽トラックに雌ヤギを積んで出かけました。そのヤギに種を付けてもらって雄ヤギを生ませる算段でした。しかしあろうことか、冬の凍結した峠道で車を正面衝突させてしまい、膝蓋骨(膝の皿)を折る大けがを負いました(ヤギは死んだそうです)。
退院してきた父は、天井から紐をつり下げ、米を入れた一升瓶を足にくくりつけてリハビリに努めました。それは相当痛かったようで、脂汗を流しながらリハビリに励む父の姿を今でも思い出すことができます。父が農業の力仕事ができるようになるまで回復するには、一年近くが必要でした。

話は変わって、アルコール関係で知り合ったある人のことです。
彼は過剰服薬(OD)をやって救急車で運ばれました。幸い一命は取り留めたものの、意識を失っている間に足が変な角度で曲がっていたため、血行が悪くなり、片足に機能障害が残りました。
その足はかなり痛み、無理に動かそうとするとさらに痛くなるのだそうで、理学療法士が勧めても「痛いから」という理由で彼はリハビリに熱心に取り組みませんでした。やがて足が徐々に回復し、痛みが取れる頃になってリハビリをやろうとすると、「動かさない状態で長く経過してしまったので、今さら機能回復は望めない」と突き放されてしまったのだそうです。

何にせよリハビリというのは痛かったり苦しかったりするものです。しかし、痛いから、苦しいからとリハビリを避けていては機能回復が望めなくなってしまいます。

うつ病においても、難しいのはリハビリなのだそうです。薬を飲むことは難しいことではありません。うつ病が社会に認知されるようになったおかげで、仕事を休むことの必要性も理解して貰えるようになりました。つまり、薬を飲むこと、休むことは比較的簡単なのですが、問題なのはリハビリです。

元々苦しいことを無理して続けてきたのでうつになった、と言えます。リハビリというのは、その環境に徐々に戻っていくことです。ところが、足の関節と同じように、社会的機能も使わなければ徐々に衰えていきます。健康な時には、膝を曲げることも歩くことも痛くなかったものが、怪我をした後はそれが脂汗が流れ落ちるほどの苦しみに転じてしまいます。けれどそれを経なければ機能回復がありません。つまり、リハビリというのは強いストレスなのです。

昨日まで休職して家にいた人が、いきなりフルタイムの仕事に復帰するのは無理な話です。それは動かない膝を無理に動かして農業をしろというのと同じです。結果としてうつがぶり返すことが多く、再び休職どころか退職ということになりかねません。やはりリハビリ期間は必要だし、しかもそこで焦って無理をしても、その期間はなかなか短くなってくれません。

逆にリハビリの辛さを回避する人たちは、「元々苦しいことを無理して続けたせいでうつになったのだから、こんな辛いことをしてはまたうつがぶり返す」と言います。そうやってリハビリを回避し続けた挙げ句、機能回復が難しくなっていきます。つまり「うつをこじらせてしまう」わけです。

満員電車に揺られて会社の近くの図書館に「出勤」し、そこで8時間過ごして帰ってくるとか。出社するだけで仕事をせずに会社に7時間いろとか。残業制限があって、仕事が終わらなくても帰らなくちゃいけないとか。そこに辛さや苦しさがあるのは当然で、それを飛び越していきなり日常生活には戻れないものなのです。その間にぶり返しがあっても、地道にリハビリを積むしかないのでしょう。

アルコール依存症もリハビリが難しい病気という点では同じだと思います。精神病院から退院していきなり仕事に復帰という例もありますが、皆がそううまくいくわけではなく、無理をすれば簡単にぶり返します。

そういう意味では、AAという自助グループはリハビリのためのグループと言えます。その人の社会的機能を回復させる役割があるわけです。やはり最初のうちはリハビリに時間を割いた方が良いし、そのほうが後々の人生を楽しめると思います。

unpaid work だって仕事なので、部屋を片づけることだってリハビリのひとつだし、それで疲れ果てるというのも僕も経験しています。大変だけどガンバってね、と応援するしかありません。もちろん、社会的機能は仕事ばかりではなく、様々なことがあります。見知らぬ人と話をすることだって、最初はなかなかできないものなのですから。

金銭や名声が幸せをもたらすとは限らないのですが、最低限の経済的安定や人間関係がなければ、幸せはとても難しくなります。同じように、幸せであるためには「何でもできる」必要はないのですが、ある程度のことはできなければ難しいと思うのです。
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刑法39条

刑法は犯罪に対する罪を決めていますが、同時に様々な理由で刑を減免しています。なかでも目立つのは責任能力がないものは罰しないという規定です。

一番分かりやすいのは14才未満の少年の罪を問わない刑法41条の規定。極端な例を挙げると、ロシアで両親が泥酔している間に3才の姉が新生児の弟を殺してしまう事件がありましたが、3才の少女の罪を問えないことは常識的に理解できます。

すでに削除された刑法40条は、いん唖者に対する減刑を定めていました。聾唖教育が未発達だった時代には、聴覚障害者は言語の獲得が難しく、そのため精神的に未発達な人が多かったのがこの条文の理由ですが、教育の発達した現代では聴覚障害者だからといって一律に減刑の対象にする必要がなくなったというわけです。

刑法39条は、心神喪失者は不処罰、心神耗弱者は減刑と定めています。最近は重大な事件が起こると、弁護側の主張の中に「心神喪失による無罪あるいは減刑」が含まれていることが珍しくなく、判決が責任能力の有無をどう判断するかが注目されます。それに関してよく聞く話が、精神障害者の犯罪のほとんどが不起訴になるという噂です。実際僕もその噂を信じていたのです。

うつ病の当事者として体験発表を依頼されたことがあり、その時に控え室で昼食を食べながら精神科医の先生の話をうかがいました(ようは雑談を脇から聞いていただけ)。話題は精神障害者の犯罪についてで、その9割が不起訴になる現状を嘆く話でした。もちろん、先生は9割が不処罰になることをけしからんと言っているわけではありませんでした。ほぼ自動的に不起訴になる仕組みでは、正式な裁判によって無罪(犯罪の事実がない)ことを証明する機会を奪ってしまう、障害者の裁判を受ける権利が侵害されていることを問題として取り上げていたのです。

実はこの9割という数字は、犯罪白書に心神喪失・心神耗弱と認定された者だけを母数にした数字として9割と掲載されたものでした。ところが、この9割という数字が精神障害者全体に拡大されて一人歩きしてしまったようで、僕も誤解していました。

精神障害者「不起訴9割」は誤解
http://homepage2.nifty.com/whitehole/db/4book/020703yomi.html

全体の起訴率が58%に対し、精神障害者の起訴率は46%。
殺人と殺人未遂に限ってみても、全体が58%、精神障害者は50%。

確かに一般に比べれば起訴率は低くなっていますが、極端な差があるわけではありません。

ひょっとするとあの時の先生の話も、精神障害者全体ではなく、心神喪失・心神耗弱という認定を受けた人だけに絞った話だったのかもしれません。(だとすれば僕がバイアスのかかった聴き方をしていたわけです)。確かに単純に不処罰とするのではなく、犯罪の事実があったのかどうか裁判で事実認定をしたあと、有罪であった場合のみ減刑する仕組みが本来であろうと思います。

実は以前AA関係の知り合いが泥酔して暴行事件を起こし、依存症での入院履歴もあったおかげで不起訴になったことがありました(依存症以外の病気はなかったはず)。その後彼は規定によって強制入院となり(医療観察法の施行前だったものの)数ヶ月で退院というわけにはいかず、久しぶりに顔をみた頃には拘禁症で見る影もない状態でした。結局外で暮らすことができずに病院に戻ってしまいました。もし彼が懲役に行っていたら結果は違ったかも知れないと思うのです。

というわけで、特に結論を導くでもなく終了。

不全感の進行

12&12では、人間の欲望(本能)を、社会的共存・(物質的精神的)安全・性の三つに分けて、いずれも人間が生きて行くには欠かせないもの(神から与えられたもの)と規定しています。つまり欲望があるのは健康なことです。

しかし、人は時に長期的展望を欠いたり、視野が狭くなったりすることがあり、すると欲望を過剰に満たそうとします(あるいは必要なだけ満たすことを否定し過度に禁欲的になる)。例えば名声欲にとりつかれるのは社会的欲望の暴走で、部屋が片づかないのは物質的精神的安定を求めすぎた結果だと言えます。そして、どれかひとつの本能を優先するとき、他の本能が犠牲にされます。

自分の中でこの三つの欲望(本能)のバランスが崩れたり、他者の本能とのせめぎ合いが起こるとき、私たちはトラブルに巻き込まれます。けれど、それは何もアル中だけに限りません。世界中の人たちが同じように欲望のせめぎ合いの中で生きています。けれど、なぜAAの12ステップがこの仕組みを強調するのでしょうか。

以前に、「アル中は自分に都合の良いものを、自分に都合の良い方法で、手に入れようとする。だから彼らが最も聞きたくない言葉は No だ」という言葉を紹介しました。また、ビッグブックには「私たちアルコホーリクは、自己規制力をあまり持たない」とあります。

つまり、アル中というのは、自分の中の三つの本能のバランスを取ったり、自分と他者の欲望のバランスを調整する能力が低いわけです。自分の欲望を満たそうと他者を犠牲にする一方で、常に自分は状況の犠牲者だと感じてもいます。

欲望が満たされないとき、人は怒り(恨み)を感じます。欲望が満たされない予感があるとき、人は不安(恐れ)を感じ、それが怒りに転じます。欲望の調整能力を欠いたアル中は、不安に支配され、怒りを持ちやすい人間だと言えます(そして怒りはやがて鬱に転じます)。

ところで「幸せ」とは何でしょうか。分かりやすいのは、欲望が満たされること=幸せという考え方です。人に尊敬されること、親切な人たちに囲まれること、金銭の不自由なく、ものに恵まれること、性的にも満足して、健康で利発な可愛い子どもがいることなどなど。こうした欲望の充足が人生の目的なのでしょうか。もちろん、最低限の必要が満たされなければ、幸せはとても難しくなります。けれど、ひたすらそれでいいのか?

12&12にはこんな文章もあります。

「人生の主な目的は人間の基本的欲求の充足にあるという信念」
「この信念によって生きようとして一番失敗したのが、私たちアルコホーリクなのだ」

これは何を意味するのか。どんなに恵まれた人でも、満たされない欲望を抱えているものです。もし人生の目的や幸せが、欲望を満たすことだとするなら、この世の中には生きる目的を果たした人も、幸せな人もいないことになります。しかし、世の中には完全には満たされていないのに幸せな人たちがいるのです。

結局アル中は、満たされないことへの不満や不安が人一倍強いのではないか。しかもその欲望は長期的展望や、他者との関係の視点を欠いた近視眼的なものではないか。そうした絶え間のない苦痛にさらされているからこそ、アルコールの陶酔がもたらす一時的な万能感(完璧な充足感)を「幸せ」だと勘違いして深くハマったのではないか。

だからこそ、肉体的な渇望(飲酒欲求と呼ばれるもの)が去った後でも、調整に失敗した欲望のもたらす不全感が、アルコールが与えてくれる幼児的万能感(つまり再飲酒)へと引き戻そうとし続けているのではないか。

というのが僕のとらえ方なのです。なので僕の棚卸しは、欲望をどれだけ満たすのが適切かという観点に基づいています。

単に酒をやめただけでは、満たされない不満、不安、不全感は解消されないどころか、かえって悪化するでしょう。というのも、いままで一時的であれそれを解消してくれたアルコールを使えなくなってしまうからです。(その意味では酒を飲んだからこそ生き残って来れたとも言えます)。

やはり何かの手段で本能を調整し、欲望が適度に満たされれば幸せであると感じられるようにしていく必要があります。そしてその手段のひとつが12ステップです。もちろん、12ステップ以外にもその方法はあるでしょう。ただそれが、内省と自己鍛錬などと大げさなものでなくても、何らかの軌道修正を日々行うものであろうとは思うのですけど。

この不全感は放置しておくと拡大するもののようですが、それは「不満はたまるもの」と考えれば当然かもしれません。飲まないだけで何もしなければ、おそらくこの「恨みがましさ」は拡大していくのでしょう。そして、それは再飲酒の引き金にもなるし、飲んだ後のトラブルを拡大させる原因にもなります。

前に「飲まなくても病気は進行する」という話を書き、では病気のどの部分が進行するかについて掲示板にも少し書きました。けれど書き漏らしたことがあったので、あらためて書いた次第です。つまり、

「飲まなくても、不全感の部分は進行し、悪化していく」

(ことがある、くらいにしておくか)。

下りのエスカレーターを歩いて上っているたとえ話がありましたが、まさにあれです。

断酒しても進行する?

すべてのアル中さんが毎日飲んでいたわけでないにしても、たいていは毎日酒を飲んでいた時期があったと思います。

アルコール依存症は進行性の病気だと言います。進行性で最後には死に至るものの、断酒によってその進行を食い止めることができる・・・と説明されることが多いのではないでしょうか。

けれど、断酒を続ければ依存症という病気の進行は完全に食い止められるのでしょうか? どうもそうではなく、断酒を続けていても病気のある部分は年月とともに着実に進行していくように思えてなりません。AAの仲間と話していても、「飲まなくても進行する」と考えている人は確かにいます。JoeMの本にも同じことが書かれていて、アル中は世界中同じなのかと思いました。

例えば1年間毎日飲んでいれば1年(365日)ぶん病気が進行するとします。では1年のうち1ヶ月しか飲んでいなければ、同じ1年でも30日ぶんしか進行しないのか? どうもそうならないようで、確かに毎日飲むのに比べれば進行は緩やかなものの、やはり病気は酷くなっているようです。それどころか、完全な断酒を1年続けても、やっぱり病気はいくぶん進行しているように思えます。

頭ではこんな風に考えます。10年毎日飲んでいたのなら、365×10=3650日ぶん進行したはずだ。断酒を決意し、完全な断酒は無理だったものの、その後の1年で1ヶ月しか飲んでいないのなら、(前の10年間に比べれば)ほんのわずかしか進行していないはずだと。

ところが、再飲酒を始めてから、飲酒が酷くなる(例えば連続飲酒とか)になるまでの期間や、再飲酒の間隔は、次第に短くなっているように見えます。3650日ぶんの進行と、30日分の進行が、ほぼイコールにしか思えない場合があるわけです。

つまり、

断酒していても依存症は進行する。

と考えた方が自然です。

しかしこれには異論が出ています。それは「毎日飲んでいた頃は、たいしたトラブルも起きなかった。なのに酒をやめようと四苦八苦するようになると、酒量も増え、トラブルも増えた」というもので、つまり「酒をやめる努力をすると、依存症の進行が加速する」という説です。(これには、なまじ酒をやめる努力なんかしない方が良い、というニュアンスが含まれるのかもしれません)。

どっちの説にしても、「再飲酒すれば元の飲んだくれに戻る、どころかもっと酷くなっている」と考えていることは一致しているわけですが。

準備ができるまで

僕は20代を東京の調布で過ごしました。大学を中退しフリーランスのプログラマーをやっている間に何度か引っ越しましたが、住み慣れた調布を離れませんでした。やがて自殺未遂をきっかけに長野の実家に戻ることになります。AAにつながるのはその4年後、今回のソブラエティはそのさらに1年後からです。

JSOで全国のミーティング会場の一覧表を作っています。ある時それをめくっていると、過去に住んでいた調布にもAAグループがあり、カトリック教会でミーティングをやっていることが分かりました。

いったい何度その教会の前を通り過ぎたことでしょう。何も知らずに、酔っぱらったままで。もしあの頃に自分がアル中だとわかっていて、その会場を訪れていたら、自分にはまったく違った人生があったのではないか。長野に戻る必要もなく、仕事を続けることもできたのではないか。あの当時持っていた夢を諦める必要はなかったのではないか?(まあその夢は今となってはかなりどーでもいい夢ですけど)。

自殺未遂で運ばれた救急病院の医師に、精神科を紹介してくれと頼んだのですが、そのとき示されたリストから、AAがメッセージに入っていた病院を選んでいたら、やっぱり違う人生になっていたかもしれません。そう考えると、人の人生は、小さな選択で大きく変わりうるものです。

飲まなくなった後も、「どうせ酒はやめるにせよ、違う人生もあり得たのでは」という後悔に結構つきまとわれました。財産や社会的地位をあまり失っていない人を見るたびに、羨望が自分の過去の選択、過去の無知に対する後悔をかき立てました。

けれど今では分かっています。自分がアル中だと知り、AAの存在を知っていたとしても、当時の僕が教会のドアを開けることはなかったでしょう。AAの病院メッセージに触れたとしても、「くだらねぇ」のひと言で済ませていたでしょう。あのころの僕は、

まだ準備ができていなかった。

それ以上でも、それ以下でもありません。物事には正しいタイミングがあり、そのタイミングを自分の都合に合わることはできません。

謙虚さというのは、強いられて選ぶだけでなく、自ら進んで選び取ることもできるものだそうです。それは自分の人生も同じでしょう。僕は自分の人生の有り様を、仕方なく受け入れることもできるし、喜んで受け入れることもできます。もう「別の人生だってあったはず」と考えてほぞを噛むこともありません。

ちなみに、調布の会場は現在は別の場所に移っているようです。

自立しない中年男たち

たまちゃんのブログ朝日新聞の切り抜きを載せたエントリ があります。

話は「親の婚活」なので、この雑記の守備範囲とは無縁ですが、そこに信田先生の話が載っています。携帯で読んでらっしゃる方のために、該当部分を丸ごと引いておきます。

−−−−
 母子関係などに詳しいカウンセラーの信田さよ子さんは「『子どもが自立しない』という、シニア世代の母親からの相談は少なくない。でも、そういう自分自身が子どもを縛り付けていることに、気づいていない人が多い」と話す。
 経済的には自立できるのに、社会人になっても同居させ、食事から洗濯までしてあげているのは、母親自身という指摘だ。「就職したら自活させる。収入が少なくて一人暮らしができないなら、家事を分担させるなど、親も子も、ある種の境界を設けるべきです」
−−−−

なんでこの部分に目が止まったかというと、AAやその周辺を見渡してみて、やっぱり「中年男が親と同居しているパターンは難しい」と感じるからです。

高齢者の家を訪ねることの多い介護職員の話も載っています。中高年・独身・無職で、老齢の母親と同居、生活費は亡くなった父親の遺族年金。これで母親が亡くなったらどうやって暮らしていくのか・・・。

僕は実家で飲んでいた頃に母親から「夫婦だったら別れられるけど、親子の縁は切れないからねぇ」と嘆かれたことがあります。作った子供にPL法は適用されないはずなんですが、かように母親というのは製造者責任を(取りたがる|取らされる)ものなのです。

「ぬるま湯につかる」という言葉があります。「気も意欲も持たず、現在の境遇に甘んじてぬくぬくとくらす」という意味です(広辞苑)。男子にとって実家はまさにぬるま湯そのものです。風呂が熱すぎても冷たすぎても、入った人はすぐに飛び出します。ほどよく熱ければ身体が温まって出て行きます。しかし、ぬるま湯というのは熱くも冷たくもないのでいつまでも入っていられます。かといってホカホカに暖まらないので、出ればカゼを引きそうな気がして出られず。おまけにぬるま湯は、徐々に冷えていくのです。

実家は快適かというと決してそんなことはないものです。家族の胃袋を握っている主婦(この場合は母親)というのは「権力者」です。機嫌を損ねて飯や風呂や洗濯の世話をしてもらえなくなったら大変なので(ぬるま湯が冷水に一変するので)なかなか逆らえないわけだ。え? それは普通の夫婦関係でも変わらない? そうかもね。

お母さんとしては「息子に一人暮らしをさせて、飲んだくれて世間様にご迷惑をおかけしては申し訳ない」という気持ちなので、そこは夫婦関係と違うんですけど。

実家から出れば必ず良い方に向かうか、と言えばそうとも限らないのが難しいところですが。

実はアクティブなスポンシーの一人がこんな状況で、とりあえず彼が精神的・経済的に自立するまでお母さん元気でいてくださいと、こちらも祈るような気持ちでいるのです。

曖昧で宙ぶらりん

ビッグブックを使ったステップミーティングに慣れてくると、『12のステップと12の伝統』(12&12)という本を使ったステップミーティングに違和感を感じるようになってきます。なんかステップについて話しづらいのです。

もちろん、普段のミーティングで自分がちゃんとステップの話ができているか? というと、そこは正直心許ない部分もあります。が、それはともかくとして(華麗にスルー)、12&12のミーティングでステップの話をするのは難しいのです。例えばステップ6の文章の先頭には、「これは大人と子どもを分けるステップです」とある聖職者が言った、と書いてあります。

それを読むと、僕の頭はいきなり「大人って何だろう、子どもってなんだろう?」と考え出してしまい、自分にはこんな子どもっぽい部分があります・・みたいな話をしてしまいます。けれど「大人とは何か」は、そのすぐ次の段落に書いてあります。自分の欠点すべてを神に取り除いてもらおうと、繰り返し繰り返し勉める人が大人なのだと。だからそれについて話をすればいいわけですが、つい焦点を外してしまうわけです。

それは道具を替えたため、新しい道具(ビッグブック)に自分がなじんでしまい、古い道具(12&12)の使い方を忘れてしまった、というわけではなさそうです。僕は12&12で何年もステップミーティングをやってきましたが、あのころは「何にも分かっちゃいなかった」。つまり12&12を使いこなせていなかったのです。

僕の経験から言えることは、薄っぺらな16ページのミーティングハンドブックの次に、いきなり12&12でステップを学ぼうとするのは無理があるってことです。

ステップはビッグブックで、伝統は12&12で学べるにしても、概念の本はあまり読まれていません。確かにあまり用がない気がしますが、ここは読んだ方が良いとお勧めしたい箇所がひとつあります。それはビルが「妥協による前進の必要性」を説いているところです。

アル中というのは、曖昧なものや矛盾しているものが嫌いで、ゼロか100かの両極端、何かと白黒ハッキリつけたがります。理想を100%実現したい、しかも今すぐ。理想が5%や10%しか実現できないなら、そんなの意味がないからやめちまえ、となります。例えば働くんだったらマトモな仕事(正社員とか)、それが無理なら全く働かない。時給数百円の仕事を日に2~3時間することから始めてみよう、とはならないわけです。

宙ぶらりんで曖昧な状態に耐えられない、というのは精神状態の悪さでもあり、発達障害的でもあります。アル中になる前から発達障害を抱えた人が多いのか、アルコールを飲み続けた結果発達障害類似の状態になったのか。

それはともかく、両極端に走りがちなアル中さんたちが集まって何かをやろうとすれば、イライラが募ることになります。実はAAの委員会で僕はイライラが募っていました。物事がスムーズに進まないことに苛ついていたのです。けれど一日を振り返って気がつきました。物事がスムーズに進むという「僕の理想」が今日の委員会で(=今すぐ)実現しないことにイライラしていたのだと。次回に持ち越しになった話もありましたが、ともかく議論に進展があったことに目を向けられないのは、確かに自分本位の考え方です。

宙ぶらりんで曖昧な状態に耐えたくないので、今すぐ白黒ハッキリつけることで心の安息を得ようとする。そうした自己中心性を取り除いて欲しい、と願うことから始めるしかありません。

喫煙と知能指数(IQ)

今回はGIGAZINEから。

タバコを吸う若い男性は非喫煙者に比べIQが低い傾向が明らかに
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20100407_dumb_smokers/

元ネタはここ
Proof: Smoking Is Dumb
http://www.aftau.org/site/News2?page=NewsArticle&id=11971

"Only dopes use dope" (麻薬(dope)をやるのはバカ(dope)ばっかり)
という言葉はタバコにも当てはまるのか、という刺激的なキャプションがついています。

イスラエルで軍に入隊した18〜21才の男性2万人以上を対象に、喫煙の有無とIQ(知能指数)の関係を調べた研究結果が発表されました。結果、1日1本以上タバコを吸うのは約28%、タバコを吸ったことがない人が68%、禁煙した人が3%。

そして注目のIQは、非喫煙者の平均が約101。これはIQは100が平均になることから考えると妥当な値です。一方、喫煙者のIQは約94と、非喫煙者に比べて7低くなっています。さらに、一日一箱以上吸う人に限れば、IQの平均は約90と実に11も違いました。

健康問題の専門家の間では、「タバコを吸う人たちは、低所得の地域に住み、良い教育を受ける機会がなかったため、健康的な判断を下す能力が低くなった」と考えられていて、そうした地域に向けて禁煙教育が行われています(欧米諸国の話)。つまり、喫煙問題は、経済問題の反映であろうとされていたわけです。

アメリカのように志願制の軍では貧しいために入隊する人が多いのですが、イスラエルは徴兵制で貧富に関係なく徴集されますので、この調査からは経済問題の影響は極力排されています。

つまり、素質としての知能が高くても低くても(貧しさゆえ)良い教育を受けられなかったために、タバコを吸うようになってしまった=「喫煙の原因は低所得(貧困)である、というのが今までの考え方だったのに対し、所得や教育とは無関係に「低IQと喫煙が関係している」ということをこの調査結果は示しています。

低IQの人は、タバコ以外にも依存症を引き起こしやすく、また肥満や栄養障害にもなりやすいとあります。

僕の子供の頃には「タバコを一本吸うと脳細胞が何万個死ぬ」ということが言われました。今回ちょっとググってみましたが、それは科学的根拠のある話ではなさそうです。けれど、喫煙によって脳萎縮が起こるのは確かなようです。タバコを吸っても吸わなくても、加齢によって人間の脳は縮んでいきますが、喫煙者の方がより萎縮することが確かめられています。

頭が悪いせいでタバコを吸って、吸ったせいでさらに頭が悪くなるとは、なんという皮肉。

ちなみに僕は15年ぐらい毎日一箱以上吸っていたので、「かなり残念」だと言われています。

AAはうつに効果がある?

今回はこれが元ネタです。

Attendance at Alcoholics Anonymous meetings may reduce depression symptoms
http://www.addictionjournal.org/viewpressrelease.asp?pr=116
「AAミーティングに出席するとうつが改善する」という話。

プロジェクトMATCHというのがあります。
http://www.commed.uchc.edu/match/
これは退院したアルコール入院患者あるいは外来患者に対して、12ステップ・認知行動療法・動機強化療法のいずれかをランダムに割り振り、その後1年間に渡って、飲酒パターンの変化、社会機能、QoL、治療の利用度などを調査したものです。これによって、どういう特性を持った患者には、どの治療法(の組み合わせ)が有効かを調べるのが目的です。

で、上の論文の研究者は、AAミーティングに出席するとうつが良くなるのはなぜかを研究をするにあたって、プロジェクトMATCHのデータを利用しました。

アルコール以前からうつがあったのか、それともアルコールの使用によってうつになったのかはともかく、問題飲酒者全般にうつ症状が見られます。AAはうつを対象にしたものではありませんが、12ステッププログラムや共同体は気分(感じ方?)を改善するようデザインされています。断酒後数週間でうつ状態が改善するようになりますが、AAに通っている人にはこれがより速いスピードで起こります。この研究は、AAプログラムがうつに効果があるかどうかを調べています。

プロジェクトMATCHからデータを抜き出した1700人は、治療プランはランダムに割り当てられたものの、AAミーティングに出席するのは自由でした。調査の開始時点では、アルコール依存症の人に典型的に見られるようなうつ症状が多くの人に存在していました。しかし、調査が進むにつれ、より多くAAミーティングに参加している人は、アルコール使用の頻度や量が減ったのはもちろんのこと、うつ症状も顕著に改善していきました。

AAを批判する団体は、アルコールに対する「無力」や「性格上の欠点」に取り組む必要を強調することで患者に悲観的な世界観を植え付けてしまうと主張しているが、真実はその反対である、と研究者は結論づけています。多くの治療プログラムがAAや類似の12ステップグループへの参加を勧めていますが、この結果を踏まえれば断酒だけでなく、気分の改善にも効果があると患者に伝えることができる、というわけです。

僕の個人的体験からも、AAミーティングはうつに有効です。僕は飲酒を始めるより前にうつになっており、当然飲酒によってそれが悪化していました。断酒後も、仕事に行けないような状況でも、ともかくAAミーティングには行っていました。それは自分が会場を開けて司会を務めなくてはならない事情もあったのですが、AAミーティングの効果を体験的に感じました。しかしながら、本格的にうつが改善したのは、12ステップに取り組んで霊的な部分の改善が起きてからでもありましたけど。

確かにうつが酷いときには、人と接する気分になれなくて当然です。けれど、(昔のように)うつ病といったら入院患者のような重症の人たちばかりだった時代ならいざしらず、軽症のうつが増えてきた昨今、さらにアルコールが原因でうつ症状がでているのがほとんどであるアル中さんたちの場合、うつの人にこそ断酒会やAAを勧めるべきなのでしょう。

なかなかうつが良くならないのなら、なおさら断酒会やAAを熱心にやるべき。

というわけです。

資源不足な人たち

2ちゃんはほとんど読まないのですが、たまにまとめサイトを読んでいます。
先日もそんなサイトを読んでいたところ、ある下請け運送業の悲惨な労働条件についてのスレッドが載っていました。トラックを運転する資格と技量があれば、もっと条件の良い職場も見つかるだろうに、なぜそんな過酷な条件で働いているのか。それは、その条件でも魅力を感じる人がいるからです。それは、

「人と接する必要が(ほとんど)ない」から。

体力的にきつく、拘束時間が長く、賃金が安く、危険が伴っても、人と接せずにすむのならそれで良いのだそうです。

それを読んで、ふとホワイト先生の講演を思い出しました。

調査したところアメリカでは何かのグループに頼らずに酒をやめている人が意外と多かった、という話でした。それはどういう人たちか。例に挙げられたひとつは、医者や弁護士のような多忙な専門職の人たちが、メーリングリストなどを使って酒をやめ続ける仲間内のコミュニティが存在していることが確認されました。

もう一つ、内的資源が乏しいため人と接することができず、一人で酒をやめている人たちが、事前に予想したよりずっと多かったのだそうです。「内的資源に乏しい」ってのも専門用語でわかりにくいのですが、例としてDVや虐待を受けた人が挙げられていました。

(もちろん、こうした例以外にも、グループや宗教的なサービスに頼らずに酒をやめた人たちは、昔から少ないながらも存在していたわけですが、それは別の話として)。

依存症以外の精神病、生育環境、発達障害、暴力被害など、資源が乏しい理由はいろいろあるでしょう。原因がなんであれ、乏しさゆえに過酷な労働環境に耐える人がいる。一人での断酒に耐える人がいる。好んで耐えているわけでなく、それを選ばざるを得ないのです。

そうやって、人との関係を希薄にして、それで寂しくないのか? そりゃ寂しいに決まっています。僕だって飲みながら寂しさをひしひし感じていました。僕の場合には、孤独に追い込まれたあげくにAAにたどり着いちゃったわけです。その時に、AAに通えるだけの内的資源てやつが残っていたのでしょう。けれど、それが十分残っていない人だっているのです。

寂しいけれども、ダイレクトで濃い人間関係は耐えられない。そういう人がネットに出てきているのじゃないか(ネットの人の中にそういう人が多いのじゃないか)、と思うのです。ネットだったら薄めた人間関係を持つことも可能ですから。

6〜7年前ぐらいの「ネット断酒」を唱えていた人たちは、リアルで新しい人間関係を作ることも可能で(もちろんアル中さん特有の不器用さはあるものの)、でも断酒のためにわざわざそんなことしたくない、という人が多かったように思います。

でも最近のネット上のアル中さんたちは、自分のやり方に限界を感じていても、孤立した断酒にこだわらざるを得ない人たちが増えている感じがします。これはネットの普及によって、ネット上に内的資源が不足した人たちが増えたせいなのかもしれません。

そういう人たちに対して「こうしたらうまくいくよ」と示す道を僕は知りません。リアルな人間関係が苦手でもリアルなグループに行ってみるしかない、という経験しか僕には持ち合わせていないのですから(別に一生通い続けろとは言ってないし)。リアルなグループに「行けない」人たちも、悩めるアルコホーリクには違いありません。手助けできるものならすべきです。でも、まず自分の守備範囲を決めて、その中をきちんとすることが、僕が自分に課した目標なのです。
プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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