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離婚

掲示板で離婚という単語が出ていました。
僕も離婚経験者なので、それについて少しだけ書いておこうと思います。

離婚は結婚よりずっとエネルギーが必要だと言われますが、それはその通りです。

結婚するときは、二人とも気持ちのベクトルが「結婚したい」という同じ方向を向いています。けれど、離婚するときは、離婚を請求する方(離婚したいと言い出す方)と請求される方で、気持ちのズレがあります。お互い次の相手が決まっていて早く別れたいという場合ならいざ知らず、片方はあまり離婚したくないと思っているのが普通じゃないでしょうか。結婚するのも大変ですが、それは共同作業だからまだいいのであって、離婚は足の引っ張り合いになりがちなのでエネルギーを消耗するのです。

だから、離婚するには、様々なサポートが必要になります。婦人相談所、法律家、カウンセラー、グチの聞き役(モラル・サポートってやつ)などなど。そうした支えなく離婚を遂行しようとすると、途中でエネルギーがつきて離婚話がうやむやになってしまったりします。それほどまでに「現状維持」というのは圧倒的なパワーがあり、物事を変えるのは大きなエネルギーが必要になります。
(アル中さんたちも、「現状維持」の圧倒的な力によって飲み続けているんです)。

僕の以前いたホームグループでは、オープンミーティングは(アル中でなくても)誰でも話し(分かち合い)ができました。それに毎回来ていた女性がいました。彼女は旦那さんがアル中で、入院も役に立たずに飲み続けているという状況でした。彼女は半年ほど通い続け、最後に「ダンナの回復は諦めました。離婚することにしたのでもう来ません」という言い残してそれっきり来なくなりました。(当時アラノンはこの地にありませんでした)。

この話をすると、結局AAは彼女の役に立たなかったと判断する人もいます。けれど、僕はそう思いません。1、2回来ただけで来なくなってしまう人たち、再飲酒、それを何度か繰り返して、何年か後にようやく訪れる回復。そうした状況を半年見続けて、彼女はダンナの回復を待つのを諦めることができ、離婚するだけのエネルギーを貯められたのでしょう。

だから、離婚するのだから自助グループは必要ない、という考え方は誤っていると思います。それに、僕は離婚後もアラノンやギャマノンに留まり続けている人たちも知っています。それは離婚がすべての問題を解決するわけではないことを物語っています。子供がいなければ離婚も良いかも知れませんが、別れても子供にとっては親は親なので、離婚すればいいというものでもありません。

「人間最後はどうせ死ぬんだ」と言いながら飲み続けているダンナさんと、「最後は離婚すればいいのよ」と言いながら行動しない奥さん。実は夫婦のベクトルは現状維持で一致しています。だからなかなか離婚しないのです。

自助グループという道具

相変わらずスポンシーから毎晩電話をもらっています。

昨夜はいつもの会場に行ったのに、ミーティングをやっていなかったそうです。きっと何か間違いがあったのでしょう。せっかく行ったのにやってなかったと恨み言が出たり、やっていなかったのをこれ幸い、ミーティングに出なくて済んだとばかりに家に帰ってしまったのなら、スポンサーとしては説教をせねばならないところです。

しかし彼は別のグループの会場に向かおうとしました。ところが近所の会場に行く予定だったので小銭しか持っていません。これではそちらの会場に行く途中の有料道路が抜けられないので、金を取りにいったん家に戻っていたら30分遅刻しちゃいましたが、暖かく迎えてもらえました、という話でした。

そうやって1年目に毎日努力してミーティングに出ることは、一生続くソブラエティの良い土台になってくれることでしょう。立派な建物を建てようと思ったら、基礎をしっかりと工事しなくてはなりません。・・という話をするということは、今日の行動は良かったと褒めることでもあります。

回復の方向へ向かう行動は褒め、ダメな方向への行動は叱る。しかも「後で」ではなく、すぐに。これは犬猫のしつけと同じです。会社の新人教育とも同じかも。

彼は家族から小遣いをもらう身なのですが、以前ミーティングへの交通費をちょろまかして酒を飲んだこともあるので、家族の信用がまるでありません。金を渡せば飲んでしまうし、どうしたらいいんでしょう、とご家族から相談を受けたので、金銭出納帳をつけてもらうことにしました。1円の単位まで出納を記録して、毎日帰ったらそれを現金の残高と一緒に家族に確認してもらう(もちろんレシートを添付して提出)。そこまでやっているのに、今度は「自動販売機で缶コーヒーを飲む回数が多すぎないか?」と言われたそうです。レシートのでない自動販売機でコーヒーを買ったことにして、また酒を買う金をちょろまかしているのじゃないか、と疑われたわけです。

そこまで家族を疑り深くさせたのは、本人の過去の行動です。こんなときの慰めの言葉は、「証拠の空き缶を持って帰って提出しろと言われなくて良かったね」です。(まあ、実際それをやっても、今度はどこで拾ってきた空き缶だと疑われるだけでしょうけど)。

それだけ疑われていても本人が腐ってしまわないのは、真面目にミーティングに通う姿勢が見えるおかげで、少しでも信用が回復する方向へ進んでいるからです。信用回復も自分の努力次第だと実感できれば、努力する方向へ進めるわけです。

自助グループは道具なのだといいます。それを言えば、断酒すら道具です。道具というのは何かを実現する手段ですから、断酒が目的になるのは本末転倒だと考える人がいてもおかしくありません。

断酒というのは、その上に何かを成し遂げるための基礎です。基礎が軟弱だと、立派な建物も倒壊します。良い人生を送りたければ、質の良い断酒という基礎を維持していくことが大事です。つまり、断酒は手段であると同時に目的でもあるのです。自助グループも同様です。

もう一つ大事なことは、道具をきちんと使いこなせているか、ということです。自助グループに負の感情を持つ人は、自助グループという道具の使い方が下手なのです。逆上がりができない小学生が、鉄棒の授業を嫌いになるのは自然なことです。

逆上がりはできるまで練習しなければできるようにはなりません。だからミーティングにひたすら通えと言うわけです。

ギャンブル患者増加中

お世話になっているメンタルクリニックの先生から、AAのミーティング会場地図がなくなったので持ってきて欲しいと言われました。そのついでに少し話をしたのですが、「最近の依存症の新患は、ギャンブル依存症ばかりだ」というお話でした。

その数週間後、ギャマノンのセミナーにおじゃましました。
そこで大学の医学部で依存症を専門にされている精神科の先生にお会いしました。
地元の保健所では月に1回、依存症相談・依存症家族教室というのをやっており、保健所の委託を受けた精神科医が、ご本人や家族の相談に乗っています。実はこれが酒害者家族教室と呼ばれていた頃、僕の母もお世話になったことがあります。そのころは、前述のクリニックの先生が担当していたそうですが、現在はセミナーでお会いした大学の先生がやっているそうです。

その先生がおっしゃるには、そちらでの相談件数も、最近はアルコールよりギャンブルの依存症の人が多い、という話でした。

最近ギャンブル依存症の人が増えているのかどうか。それはわかりません。
ただ、ギャンブル依存症の人が治療につながる数(患者数)が増えているのは確かなようです。

なぜそうなのか、理由は僕にはわかりません。法律の改正によって新規の借金がしづらくなったのと関係あるのかもしれません。

ちなみに「患者」とは、医療機関で治療を受けている人のことです。未治療の人は患者数には含めません。IDCの診断基準を使って日本のアルコール依存症者数を推計すると約82万人。このうち患者数が約2万人。無事断酒している人たちが多少いるにしても、残りの大多数である(数十万人)は未治療です。

患者数が増えても、母集団である依存症者数が増えているとは限りません。

製薬会社がSSRIを売るために行ったうつ病啓発キャンペーンのおかげで、うつ病患者が増え、それをあてにしてメンタルクリニックがたくさんできました。だからといって、うつの人が増えたとは限りません。うつの人の中で、治療につながって患者になる人の割合が増えただけでしょう。

話を戻して、DSM-IV(IDC-10)では病的賭博は衝動制御の障害に分類されていますが、現在ドラフトが出ているDSM-Vでは依存症の分類に移動してきています。(ギャンブル依存症が診断書にも使える病名となるわけだ)。加えて、何らかの社会的原因によって、ギャンブル依存症の受診率が上昇中です。

今後何年間か、ギャンブル依存症が最も注目を浴びる依存症になるのかもしれません。

病気だから

「病気だから」という理由で、許してもらえる不始末はたくさんあります。
インフルエンザにかかったら仕事を休んで当然ですし、精神病であれば犯罪が不起訴になることもあります。

病気に無理解ならともかく、理解しているならば症状を非難しても意味がないことは分かります。

依存症というのは「自分の思い通りにしたい」病気です。それが病気の症状であり、具合が悪ければ悪いほど、その症状も重くなります。例えば、自分が悪かった場合でも素直に謝罪することができなくなります。「ごめんなさい」が言えないのも、アル中という病気の症状です。

例えばAAというのは、そうした病気の人の集まりですから、仲間の症状を責めることはしません。気に入らないことがあれば椅子を蹴って出て行ってしまってもいい。そして次の回には何食わぬ顔でそこに座っていてもいい。それが何事もなかったように受け入れられる。(現実のAAがそうなっているかどうかはともかく)それが一つの理想の姿です。なぜなら、「思い通りにならないのが気に入らない」と出て行ってしまうのも症状だし、「この前は失礼なことをしてごめんなさい」と謝れないのも病気の症状だからです。

それを責めても仕方ありません。「回復してない奴は仕方ないよね」と肩をすくめて、その件は終わりにするしかないのです。頭が下げられるようになってくれば、それだけ回復したね、と言われる仕組みです。

スピリチュアル(霊的)というと、なんだか超自然的な怪しげなものや、聖書の真髄みたいなものを想像するかもしれません。だからスピリチュアルなものを求める人は、聖書を読んだりします。けれど、スピリチャリティ(霊性)というのは、例えば人と人とのつながりです。それが霊性の本質なのかどうかは知りませんが、現象面から見えるのは人と人とのつながりです。

だから、スピリチュアル(霊的)に病んで症状を出している人は、人とのつながりが断ち切れていきます。その症状が例えば、「失礼なこと、わがままなことをやっておいて、後になっても謝りもせず、それを当然だと思っている」というわけです。確かにそういう人は、つきあってくれる人が次第に減ってしまいます。

ビッグブックには、霊的に病んだ人から傷を受けたとしても、病気だと思って許すしかないとあります。健康な人は、ビッグブックを読まずとも、そのことは分かっています。世の中には霊的に病んだ人との関係を断ち切るわけにいかず、付き合いを続けざるを得ない立場の人もいます。病んだ人というのは、周囲の人たちに「病気だから」という理由で許され続けているのです。(まあ、病気だからと意識はされていないかもしれませんが)。

ここの「ぶどう」の掲示板も霊的に病んだアル中さんたちが来るところです。だから、症状を出している人もいます。悪態をついて出て行ったヤツが、しばらく時間をおくと、しれっと戻ってきたりします。その時に、前回は失礼をしましたと頭を下げる人はなかなかいません。

例えば普通の職場でそんなことをやれば嫌われ、繰り返せばその職場にいられなくなるでしょう。友達づきあいもそうです。子供の遊びだって、わがままをやったあとは「ごめんなさい」を言わなければ、再び仲間には入れてもらえないものです。

アル中さんは「頭を下げたくないから(謝罪するのがイヤだから)もうあそこには行かない」ということを良くやります。オレはアイツらが嫌いだと言っているパターンは、たいてい謝罪から逃げ回っているだけです。そうやって、人とぶつかり続けて自由に動ける範囲を狭くし、苦しく生きているのがアル中さんです。ステップ8・9というのは、それを打破するステップでもあります。

「ぶどう」に限らず、ネットの断酒板やブログなどのアル中コミュニティには、具合の悪い人が必ずいます。例えば、ひいらぎ(やその周りの人)に失礼なことを面と向かって述べて、しかもそれに謝罪もできない人がいたとしても、僕は「その人は病気だし、それは症状に過ぎないのだから」と許すしかありません。それが唯一取りうる選択肢だからです。それは僕が特に寛大な人間だという意味ではありません。本当にそれしか選択肢がないのだし、それが一番楽な道だからです。(介護職員の人が認知症のジジババに対して持つ感情に近いのでしょう)。

何の話がしたいかというと、何ヶ月、何年酒をやめていようが、そのように「病気だから」「症状を責めてはいけないから」という理由で人に許してもらっているうちは、「回復している」とは見てもらえない、信用してはもらえないということです。

そうやって病気だからと許してもらっておいて、「重症だ」「回復していない」という評価をもらうと、気分を害するのも、これまた具合の悪さ(症状)なのでしょう。

人はアル中の言葉なんか聞いちゃいないのですが、行動はよく観察しているものです。いくら本人が「自分は回復した」と主張しても、行動でバレてしまうわけです。何を言うか(ネットに何を書くか)じゃなく、どんな行動をするかで判断されているんだ、ってことが・・・まあ、具合の悪い人に理解できるはずもないのですけどね。

さらに何が言いたいかというと、そういう症状丸出しの状態から、人は回復できるということです。具合の悪い人をバカにしているわけではなく、そこから良くなれるんだから、良くなろうよというわけです。しかし、それが上から目線だと感じられてしまうわけだ。

平等に扱われていても、「上から目線で言われてる」と感じてしまう。特別扱いされたい(甘やかされたい)病気なんですな、依存症って。

「ご存じでしたかAA」

アルコホーリクス・アノニマスは、以前にはどうしようもない酔っ払いであった連中が企画し運営している仲間の共同体である。

仲間の資格は“もう飲めない”ことと、やたらとわけをきかないことである。この共同体には規則もなければ会費や月謝のようなものもない。そういった目に見える組織は何もないらしいのである。ミーティングでスピーカーになった人は、一つのことから出発して全く違うことがらへと語り進み、しまいに、“このプログラムは効く”ということのほかには自分はほんとうになにも知らないという。

グループは絶えず破産しているのに、いつも金があるらしい。

こなくなる仲間がいつでも出るのに絶えず成長しているらしい。

人々は、AAが利己的なグループだと言うけれども、いつも他人のためになにかしているようにみえる。どのグループも掟や規則、布告や決定を破る。みんな気楽にそういうものを無視する。何か気に入らぬことがあったら、いつでも怒って去る権利がある。―――同時に何事もなかったような顔で立ち戻り、何事もなかったように迎えられる権利もある。24時間以上先の計画は何もない。それで偉大な計画が生まれ素晴らしく続いていく。AAには規則書にのっとったことは何もない。

―――どうして続いて行けるのか?

たぶんわれわれが自分のことを笑えるようになったからだろう。神は人間を笑うものにも造ったのだ。
たぶん神はわれわれの努力を喜ばれ、誰かがまちがったボタンを押しても、すべてよいようにして下さるであろう。
神はたぶん、われわれが完全であることより誠実であることを喜ばれる。たぶんわれわれが他の何者でもない、われわれ自身であろうと努めることを喜ばれるであろう。
どういうわけか、それは知らないがこれは効く。仲間は皆AAの投資信託から配当を受け取り続けている。

飲まないで生きるために、こいつが賢いやり方なのだ。

「ご存じでしたかAA」 from BOX-916 '95/10 (BOX425, Norris)

その概念を他の依存に拡張する

昨日の続きです。

・渇望=アレルギー反応=身体の病気(の相)
・とらわれ=狂気=精神の病気(の相)

さて、この「渇望」と「とらわれ」というアディクション概念を理解すれば、対象をアルコール以外に広げることも可能です。アルコールをギャンブルや覚醒剤に置き換えてみても、まったく同じ図式が当てはまります。

だから、アルコールのためのAAのほかに、ギャンブルのためのGA、薬物のためのNAが存在するのは当たり前のことと言えます。AAのメンバーと、GA、NAのメンバーは「問題」を分かち合うことはできません。それぞれ依存の対象が違うからです。けれど、問題の「解決方法」=12ステップは同じなので、方法を分かち合うことは可能です。

(ビギナーは問題の違いに注目してしまい、解決方法の共通性に目が向きません。それが自分の問題から目をそらす原因となります。だから依存対象ごとにグループを分けるのは意味があると思います)

さて、ここからが本題です。これまでの話は、本題を理解するための前フリでした。

アルコール・薬物・ギャンブルの場合には、健康と病気の間の線引き(境界線)は明確です。アルコールなら酒を飲んでいる・飲んでいないの境目に線が引かれています。しかもその線引きは全員に共通で、僕だけ「一日缶ビール一本までなら断酒のうちね」ということはありません。断酒と飲酒の境界は全員共通です。

アルコールやギャンブルは完全にやめることができます。回復とは完全にやめ続けることです。コントロールを取り戻して、適度に楽しめるようになることではありません。

けれど、依存症によっては完全にやめることができないものもあります。例えば摂食障害の人は食べるのを完全にやめることはできません。買い物依存だからといって、一生買い物をしないわけにもいきません。

完全にやめることができない依存症の場合、コントロールを取り戻すことが回復なのでしょうか? そういう誤解が存在する気がします。僕もこのタイプの依存症に興味を持つまで、なんとなくコントロールを取り戻すのが回復だと誤解していました。

アルコール依存症の場合には、適度に飲める(節酒)ことはない。けれど、摂食障害の場合には適度に食べられるようになり、買い物依存なら適度な買い物が実現するのが回復です。それがあたかも失ったコントロールを取り戻したように見えてしまうわけです。

しかし、そうではありません。「完全にやめる」という点はすべての依存症に共通です。やめるというのは、健康と病気の境界線を踏み越えていかないということです。アルコールやギャンブルの場合は、その境界線が量がゼロのところに引かれているわけです。ゼロじゃないところに引かれている依存症の場合でも、線の向こう側に行っちゃダメという点は共通なのです。

さらに、線の引かれている場所が人によって違ったりするようです。例えば摂食障害は、最近は食べ物依存(food addiction)と呼ぶようですが、どこまでが健康な食事かは人によって違います。ある人は、砂糖を食べると過食おう吐が始まってしまうので、砂糖を使った料理は食べられないのだそうです。この場合砂糖を trigger food と言います。トリガーとは引き金という意味です。この人にとっての砂糖は、アル中にとっての最初の一杯の酒と同じです。カフェインがダメという人もいます。あるいは種類は関係なく量の問題で、御飯を茶碗2杯食べるとダメ。種類でも量でもなく食べる状況が問題だという人もいます。このように、境界線の位置は人によって違うのですが、その向こう側(例えば焼き肉食べ放題に行ってお腹一杯食べてくる)に行けないのは、共通だというわけです。

food plan とは、その人にとってどこまでが健康で安全な食事か示したものですが、これはスポンサーや施設のスタッフが決めてくれるのだそうです。食べ物依存からの回復にはぶり返しがつきものですが、これは境界線の場所が人によって違うために、food planの確定に試行錯誤が避けられないからではないかと思います(この部分は外野の勝手な想像)。

境界線、つまり food plan を守っていくことがアブスティネンス(アルコールで言うところのソーバー、薬で言うところのクリーン)であるわけです。

(ただし過食おう吐には stress coping の効果があり、何らかの精神的疾患、不調の症状として食べ吐きが起きている場合もあるはずです。その場合は、元の疾患が良くなれば食べ物に対する完全なコントロールが戻っても不思議ではありません)。

共依存の場合も同じです。人の世話を焼く行為を完全にやめてしまうことはできません。生きていく以上、人と何らかの関わりは持たねばならないからです。ここも同じように、健康な関わりと病的な関わりの間に線を引くことになり、しかもその線の位置は人によって違ってくるはずで、どこに線を引くかは(おそらく)スポンサーと相談しながら決めていくしかないのでしょう。

買い物依存でも、健康な買い物と病的な買い物の間に線を引くしかありません。

わかりにくいのは感情の問題です。感情に線引きは難しいですから。
例えばある人が、強い恨みの感情を持ち、その恨みを吐出することでストレスフルな環境に耐えていたとします。けれど、それをやるたびに鬱になり仕事を休んでいるとするなら、感情のアディクションを持っていると言えるでしょう。その場合は、健康な感情と病的な感情との間に線を引き、向こう側に行かないようにするしかありません。そして、砂糖が trigger food である人のように、(砂糖のような)一見無害な感情あるいは行動であっても、それがコントロール喪失を引き起こすトリガーになっているのなら、避けていくしかありません。もちろん、どこに線を引くか、何がトリガーになるかは人によって違うでしょう。

ひょっとすると、境界線がゼロ以外のところにあり、その場所が人によって違うのが、各種依存症では普通であり、境界線がゼロの位置になって全員共通であるアルコール・薬物・ギャンブルの依存症が例外的なのかも知れません。

人間関係の中でときどきブチ切れてみるとか、信頼できる友人に愚痴をこぼすという形で陰口を言うとか、そういうことが trigger action になっているなら、それを諦めるのは辛いことでしょう。けれど、アディクション概念に基づいて考えれば、

「普通の人ならできる何かを、病気である私たちは一生諦めねばならない」

ことは分かってもらえるはずです。諦める対象が、一杯の酒であれ、砂糖であれ、陰口であれ、その困難性は変わりありません。その難しさを「自分だけの力では(あるいは人間の力では)絶対にやめられない」と自覚したときに、無力が認められます。

この境界線の曖昧さが「コントロールを取り戻せる依存症もある」という誤解を生んでいるのかも知れない・・・と思い至りました。どこまでがアブスティネンスで、どこからがスリップか。どんな依存症でも、その境界はハッキリさせねばなりません。そうでないと、じくじくとスリップが続く陰気な状態が続いてしまいます。

アディクションの基礎概念

アディクション(依存症)には、いろいろな種類があります。アルコール、ギャンブル、覚醒剤・・・。それぞれに12ステップのグループがあり、共依存や感情の問題の12ステップグループもあります。

ここではまず、いろんな依存症に共通する概念を考えてみます。

アルコールを例に取ると、飲んでいる状態では「渇望現象」が起きます。強迫性とか、飲酒欲求と呼ばれるもので、もっと飲みたい、飲み続けたいという気持ちです。これによってコントロール喪失が起こり、酒のせいでいろいろなトラブルが起きます。

AAでは渇望現象を「身体のアレルギー」と呼びます。アレルギーとは何らかの物質が身体に入った時に起きる異常反応です。アルコールが身体に入ったとき、アルコール依存症者の身体には「渇望現象」という異常なアレルギー反応が起きる、と考えるわけです。花粉症を意志の力で克服できないように、この渇望を意志の力で乗り越えることはできません。体質によって花粉症になる人ならない人がいるように、依存症になるのも体質の問題です。

(花粉症は免疫系、渇望現象は脳内の報酬系の異常なので、科学的に正確な例えではありませんが、観察される現象は同じです)。

花粉症には抗ヒスタミン剤が有効です。ひょっとすると将来「渇望現象」を抑えて飲酒のコントロールを可能にする科学の進歩があるかもしれませんが、「今はまだできてはいない」わけです。

酒をやめるためには、まずこの渇望を乗り越えて酒を断たねばなりません。渇望が強烈な場合には断酒はなかなか難しくなりますが、最悪でも精神病院の保護室に拘禁して酒から隔離してしまえばいいので、解決可能な問題です。アメリカではアルコールの解毒(デトックス)を専門にやってくれる短期入所施設が増えているのだそうです。

この「渇望現象」は酒をやめ続けていれば消失していきます(ゼロにはならないかも)。飲酒欲求が消えれば問題は解決したと思う人が多いのですが、もしそうならデトックス施設さえあればアルコール依存症の治療は完璧ということになります。

現実には解毒だけでは依存の問題は解決しません。依存症者は渇望現象(飲酒欲求)が消えた後も再飲酒してしまうからです。人はストーブに触って火傷すれば、二度と熱いストーブに触ろうとはしなくなります。僕自身の経験を挙げると、一度古い生ガキにあたったらカキの匂いをかぐだけでも吐き気がするようになりました。これが人の正常な反応です。

ところが、アルコール依存症の人は、あれだけ酒で痛い目にあったのに、また酒に手を出してしまいます。心のどこかで「今度こそ大丈夫だきっと」と思って酒を飲む行為は、今度こそ火傷しないと思ってストーブに触るのと同じです。

これは明らかに自己防衛の本能が損なわれている状態で、何らかの精神の不健康(つまり狂気)が存在しています。「狂気」でなければ、何ヶ月、何年も酒をやめて渇望がなくなった人がまた飲んでしまうことが説明できません。AAではこれに「(精神的)とらわれ」という言葉を与えています。

この狂気を取り除き、精神的な健康を取り戻してくれるのが12のステップです。

つまり依存症には二つの相があります。一つは「渇望現象」に支配された身体的病気の相。AAはこれを治せません。節酒できるようにはしてくれません。もう一つは酒をやめている時期で、精神的とらわれがある精神的病気の相です。AA(あるいは12ステップ)はこちらを治すためのものです。

「酒をやめる」というのは、前者の問題だけでなく、後者の問題が解決されている状態を言うのでしょう。

(もちろんそのための手段が12ステップしかない、と言うつもりはありません)

では、このアディクション概念をアルコール以外の依存症に広げてみましょう。
プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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