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ステップセミナーのスピーカー決まる

こちらで案内している地元のAAのステップセミナー。
http://www.ieji.org/dilemma/2010/08/103-aa.html

ステップセミナーというと、何人かのスピーカー(話し手)に12ステップを割り振るパターンが多いように思います。ステップ1・2・3、4・5、6・7、8・9、10・11・12みたいな分け方。
これはこれで分かりやすくていいのです。例えばステップ4と5を話す人の棚卸しの話がまとめて聞けますから。けれど利点ばかりではありません。そのステップに至るまでの経緯も含めて15分や20分で話をまとめろというのは無理な要求で、時間切れで尻切れトンボになってしまうことも少なくありません。

今の日本のAAでは、ストーリイ形式で棚卸しをすませたら、その先のステップに進めなくなっている人が少なくありません。(まだ棚卸しをやるだけマシだという現実!)。そうなると、ステップ6・7から先は話せる人がぐっと少なくなってしまいます。僕のいる地区では、ステップを話せるメンバーの数が確保できないという理由で、ここ数年ステップセミナーは開催せず、自由テーマのオープンスピーカーズミーティングばかり開いてきた次第です。AAとしてステップを話せる人が少なすぎる・・・ってのは、これはかなり情けない状況です。

いや、まだ自分たちの実力不足を認識しているだけ良いか。某所のステップセミナーを聴きに行ったら、スピーカーが「僕はまだこのステップをやっていないので、別の話をします」と話し始めたのは驚きました。しかもそれが何人も。僕はいったいここに何を聴きに来たのか?と自問自答し、椅子に座りながら意識が空想の世界にかっ飛んでいってしまいました。昔スポンサーに言われた「できないことを、できると言うな」という言葉を思い出します。

というわけで、状況を打開すべく、うちの地区でもステップセミナーをやらねばならん、という話になりました。そもそもステップセミナーは、ステップを1から12までやった人が、その回復の喜びを伝えるためにやるものでしょう。だったら、12ステップを「ぶつ切り」にして聞き手に差し出すのはおかしい。人数は少なくなろうとも、1から12まで全部のステップを時間をかけて話しきってもらおうじゃないか、という企画になりました。

うちの地区は12グループあるので、いままでの地区のイベントでは、1グループから一人ずつスピーカーを差し出す?ことになっていました。自分のグループのメンバーでも良いし、よそのグループの人に話をつけてもいい。スピーカーを出せないグループのぶんは、県外のメンバーに話をしてもらう。というパターンでした。

今回は6人だけ。そのかわり12ステップをちゃんとやっているメンバーを推薦しろ、ということになりました。はたして推薦は集まるのか?・・・1回目の会議で自薦他薦7人の推薦が集まりました。しかもわりと若手が多かった。(ここでいう若手とは実年齢ではなく、飲んでいない年数の若さ)。それを見て「若い者にはまだまだ負けられない」と思ったのかどうかは知りませんが、2回目には「超先ゆく仲間」が4人も名を連ねました。

実は僕のホームグループでは、毎年県外の女性のメンバーにスピーカーを依頼しています(交通費負担のために献金をプールしている)。今年もそうする予定で、方々に頼んだのですが、ことごとく日程が合わない残念な結果となってしまいました。(結果としてスピーカーは全員県内の人間になりました)。

実行委員長の「自薦の人優先」の声で5人が決定。自分は12ステップを全部やっているから、その話を聞いてくれ、というメンバーが5人も出てきたのはいいことでしょう。残る1人もすんなり決まりました。もし人数が多すぎた場合にはどうするつもりだったのか、実行委員長にたずねると、「この場で誰が良い悪いという話をすれば、それはその人の棚卸しになってしまう。その場合にはくじ引きで決めるつもりだった」だそうです。さすがだ。

というわけで、いまからセミナーが楽しみです。

ちなみに、僕もスピーカーの推薦を頂いたのですが、辞退させて頂きました。他でも話をする機会を与えていただいているので、露出が多くなりすぎるのは良くないと思ったからです(日本人的横並び意識)。僕の他にも同じ理由で辞退した人がいたように思います。(だいたい1時間もらったって、全部のステップの話をするには相当忙しい)。

「自分はこのステップはやっていないので・・・」という言葉を聞かなくて済むステップセミナーです。飲んでいた頃どんなにひどい自分だったか正直に話せるのが良いスピーカーではありません。そこからどうやって回復してきたか。具体的に何をやってきたのか。聞き手に、ああ、自分もそれをやれば良くなるかも知れない。いや、なりたいぜ、できるはずだ、やり方をもっと詳しく教えてくれ、と思わせるのが良いスピーカーです。(と自分が話さないので、何とでも煽れるわけだ)。ご期待を。
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話す脳・書く脳

たまには雑記を更新しないと心配されてしまいます。

言語の能力には、聞く・話す・読む・書くの四つがあります。
このうちアウトプットのあるのは、話す・書くの二つです。

話すこと、書くこと、両方を立派にやり遂げる人もいますが、たいていはどちらかが優勢になります。僕自身は話すことは苦手で、どうせアウトプットするなら書く方を選ぶ人です。

精神病理学は、精神病患者の内面世界を探求する学問で、病気を治療することよりも、その構造を明らかにすることをめざしました。この学問はおもに統合失調症の人にインタビューすることで成り立ってきました。というのも、統合失調の人は書くことは苦手(表現が貧弱)でも、話すときの表現は豊かで、内面が探りやすいからです。

ところが、この手法は自閉症の人には役に立ちませんでした。自閉症の人は(高機能自閉症と呼ばれるIQ70以上の人でも)しゃべって自分を表現することが苦手だからです。というか、そもそも人間の相手をすることが苦手なんですけどね。そのせいで、自閉症の精神病理は長い間謎のままだったのです。なぜ学者たちが自閉症の人に文章を書かせてみようと思わなかったのか、そのほうが謎ですけど。

やがて、テンプル・グラディンとかドナ・ウィリアムズという自閉症の人たちの自伝が出版され、その内面が詳細に分かるようになってきました。実は自閉症圏の人たちは、話すことより書くことの方がずっと得意だったのです。

そんなことから、僕は人間の脳には話すことが得意な脳と、書くことが得意な脳の2種類があるのじゃないか、と思うようになったのです。仮に前者を「シゾイド脳」、後者を「アスペ脳」と呼ぶとします。

アスペ脳の人たちは、話すことより書くことを得意していて、自閉症的なものごとへのこだわり(頑固さ)があり、意識を注ぐ対象の切り替えが苦手で、共感する能力が薄いので孤独を好む。

シゾイド脳の人たちは、逆に書くことより話すことの方が得意。だからAAでいえば月刊誌BOX-916に投稿を頼まれるのはヤだけど、皆の前で話をしてくれと頼まれたら引き受けちゃうとか。頑固さが少ないかわりに、興味の対象が移ろいやすく、共感力が高いので孤独より人と一緒にいるほうを好む。

・・・などと書いているけれど、まあ一種のシャレなので、あまり本気にしてもらっては困るんですけどね。

もちろん、書くことが得意=アスペルガーとか広汎性発達障害でもないし、話すことが得意=統合失調なんてことがあるわけもありません。でもなんとなく「そういう傾向」を感じてしまうことがあります。人と接するときに、この人はどっちが得意かな、ということを考えてみるのもいいかもしれません。

注意しなければならないのは、長く話せるから話すことが得意ってわけでもないし、ブログのエントリが長いから書くことが得意とは限らないということです。(どちらかというと、長くなるのは下手な証拠)。アフォリズム(金言、箴言)と呼ばれる言葉は短いものばかりです。

誤解への恐れ、自信のなさ、話の長さ、うるささ

以前、統合失調症の息子(といってももう成人)を持つ父親の作ったサイトを読んでいました。ブックマークしておくのを忘れ、最近検索しても見つからないので、たぶん消してしまわれたのでしょう。

病気についてのサイトだと、症状や原因や治療についての記述が多くなるものですが、その父親さんは病気そのものよりも、病気を得た息子の行動パターンに関心があるようでした。例えば、なぜ息子が身近な人ではなく世の中のほうに関心を向けるのか? それは人間関係が苦手なので人の相手をせず、テレビやパソコンに向かって政治や経済を論じていた方が楽だから(つまり苦手なことから逃げ出しているだけ)。そのことと病気と関係があるのかはわかりませんが、そんな具合になかなか興味深いサイトでした。

その中に、「息子がなぜ目の前の議論にこだわるのか」というのがありました。

議論の勝ち負けにこだわる人がいます。あるいは、誤解されるとひどく気分を害する人がいます。相手にきちんと伝わらなければ気が済まない人がいます。

なぜそんな「こだわり」が生まれてくるのか。先のお父さんによれば、それは「長期的な損害回復に自信がないから」とありました。僕はそのことに深く納得しました。

議論に負けることも、自分を誤解されることも、相手に理解してもらえないことも、どれも「損害」です。人間誰だって、負けるより勝ちたいし、誤解されたくないし、理解してもらいたい。それは損害を被りたくないからです。

例えば僕が「心の冷たい人だ」とか「仕事ができない使えないヤツ」と誤解されたとしましょう。それは僕の評価が落ちる損害をもたらします。けれど長い目で見て、誤解をした人との付き合いを続けていけば、「ひいらぎは思っていたより冷たくはないのかもしれない。いやむしろ思いやりのある暖かいヤツかも?」とか「こいつ意外とできるじゃん」という評価の向上がもたらされるでしょう。

長い目で見れば、自己評価(セルフエスティーム)に対する損害はたいてい回復することができる、と信じることができるのが「自信」だと思います。

自信がない人は、いつも議論に勝って、誤解があれば必ず解き、人々に理解してもらうことで、自らの優秀さを証明し続けなければなりません。十戦十勝でなければならないのです。なぜなら、九勝しても一つの負けが自己評価を大きく下げるからです。

何かを成し遂げようと努力を始めても、いつも途中で嫌になって続かないとします。すると、そのことに自分が飽きてしまう前でなければ、「自分がどんなに素晴らしいことに取り組んでいるか」をアピールできません。途中で放り出すヤツのほうが、やっているときはアピールがうるさいのです。一方長く続ける人は、いつか誰かがそれを見つけて褒めてくれることは分かっているので、鷹揚なものです。

中身がそれほどある話じゃないのに、妙に話が長くなる人がいます(AAミーティングでも)。話の中の状況を微に入り細をうがち説明を加えます。なぜ話の枝葉をそんなに詳しく話すかと言えば、その時の自分の判断や行動の動機を誤解されたくないからです。「ほら、こういう状況だったら、あなたでもあの時の私と同じことをするでしょう?」というわけだ。これも目の前の損害回避を優先させた結果です。

ブログでも妙に文章が長い人がいます。一つのエントリの中にいくつも話が入っていたり、一日にいくつもエントリがあったりします。なぜそうなるか。僕も雑記を書いているので分かるのですが、思いついたアイデアは、その時に全部話して(書いて)おかないと、次に話す(書く)機会が来たときに思い出せるとは限らないのです。そうなると、アイデアを表現することで自分の優秀さを示す機会を一つ失ってしまいます。その時に、十戦十勝でなければならない考えを持っていれば、今回すべてをだらだらと長く話す(書く)しかなくなってしまいます。

この「長期的な損害回復への自信」というのは、長い時間の中で自分の評価を良い方に逆転させた、という経験をいくつか経なければ得られないものなのかもしれません。子供が大人になるように、ある程度年数が必要なものなのでしょう。回復の中でも年数が必要な部分です。

などと書いているこの文章も結構長いのですけど。ともあれ「長く続かないヤツほど、やっているときはうるさい」ってのは確かです。

ノンアルコールビールを飲む危険性

下の文章はアメリカのAllAboutの
Non-Alcoholic Beer - The Dangers of Drinking NA Beverages
http://alcoholism.about.com/cs/relapse/a/aa000104a.htm
の翻訳です。

片手間に訳したので、すべてにおいてアバウトな訳ですが意味は汲んでもらえると思います。

アルコール飲料(ビールやワインなど)と同じ匂いをしたものを飲むと、アルコールなしでも脳が酔いを再現し、飲酒時と同じ精神状態になりうるということでしょうか。

ノンアルコールビールを飲む危険性

「ビールもどき」と呼ばれるそれは、あなたが思っているよりずっと本物に近い。
断酒している人がノンアルコール飲料を飲む危険性が指摘されているが、その警告に科学的な証拠が登場した。

先頃私たちのオンラインフォーラムで行われた議論では、断酒を継続したいと願う人たちがなぜノンアルコールビールと呼ばれる飲み物を遠ざけることにしたのか、その様々な理由が示された。一番多い理由はアルコールの誘惑を遠ざけることだった。

ノンアルコールと呼ばれるビールにも微量のアルコールが含まれているという事実は脇に置くとしても、ノンアルコールビールが回復中のアルコホーリクの再飲酒を促すという理論を補強する新たな研究成果が発表された。

Alcoholism: Clinical & Experimental Research誌の11月号では、匂いが渇望の引き金となってアリコホーリクを再飲酒させ得ることをカリフォルニアの科学者チームが報告している。

彼らの実験では、アルコールあるいはキニーネ(苦く透明な物質)のどちらかを自己投与するようにラットをトレーニングし、その後にオレンジかバナナの匂いをかがせた。バナナの匂いはアルコールを消費した後にかがせ、オレンジの匂いはキニーネを味わった後に与えた。

アルコールも、そしてアルコールを予感させるものも、どちらも脳内物質であるドーパミンのレベルを上昇させうる。ドーパミンは、喜びや快楽をつかさどる物質である。研究者は「アルコールを暗示させる」匂いをかがせる前と後でラットの脳内のドーパミンが増加することを発見した。私たちのフォーラムでは、本人がノンアルコールビールを飲んでいるときの態度や行動が、本物のビールを飲んでいたときに次第に似てきたことを家族の女性が述べているが、この研究成果は彼女の報告した現象を説明してくれる。

このカリフォルニアでの研究は、再飲酒を防ぐ治療を作るにあたっての重要なステップになりうるとして科学者たちに引用されている。National Institute on Alcohol Abuse and Alcoholism(http://www.niaaa.nih.gov/)によれば、アルコホーリクの90%が酒をやめてから4年以内に再飲酒を経験している。

カリフォルニア州La JollaにあるScripps Research InstituteのDr. Friedbertは、「私たちのこの研究の重要性は、脳メカニズムや神経系の調査に信頼できる手段を提供することで、より効果的な治療法を発見するために知見に基づいたアプローチを始めるきっかけとなりうることだ」と述べている。

それが完成するまでの間は、断酒を続けようという人への最善のアドバイスは、アルコール飲料に似た匂いをさせるものは何であれ遠ざけるべきだということだ。

By Buddy T, About.com Guide, Updated February 06, 2004

摂食障害〜乱用と依存を考える

神戸ネタもそろそろ尽きそうです。

基本的に人間はNINO(No Input, No Output)だと思っているので、神戸大会のようなInputがあればOutputが出てくるものの、新たな刺激がなければ雑記に書くことも生まれてこないものだと思っています。

神戸では、後藤恵先生の摂食障害についての講演を聞きました。その中で印象に残ったのは、摂食障害からの回復の中期目標の一つに「組織の目標に沿って行動できる」、長期目標に「組織の目標を自分に合わせて変えていける」というのが入っていたことです。(文章はうろ覚えなので細かい表現は違っているかも)。
後藤先生のパワポはスライドが次々入れ替わるもので、一枚一枚の説明は短いものでした。それを僕なりにふくらませてみます。

ここで言う組織とは、学校や職場や自助グループのことです(家族ってのは入らないのかも)。集団の行動目標に沿って動けなければ人と一緒にやることはできませんから、社会復帰のためには「組織の目標に沿って行動できる」ことは必要です。これが短期目標の次の中期目標に来るのはうなずけます。

さらに、その目標が自分の考え方と違う場合に、いつも自分を押し殺して組織に合わせてばかりでは押しつぶされてしまいますから、目標のほうを自分に合わせて修正できなければなりません。そのためには、意見を表明して人を納得させるなどのスキルが必要になってきます。

環境調整によって症状を抑えることはできても、社会とのつながりを取り戻していく過程で、必ず自己の変革(回復あるいは成熟)を迫られる、という点はアディクション同様です。

話は後藤先生の講演から離れます。さて、摂食障害はアディクションなのかどうか?

それはイエスでもあり、ノーでもあります。斎藤学先生など依存症の専門医が診ていたアルコールの女性患者のなかには、アルコールと摂食障害を併発している人が多く、アルコールが止まっているときには食べ吐きがあり、食べ吐きが止まっているときにはアルコールが止まらないといった様相で、だったらアルコールも摂食も同じ依存症でいいだろうと考える人たちがいるわけです。一方で、思春期痩せや、神経性無食欲症という病名の患者を診ている小児科医の人たちは、それがアルコール依存症と同じ病気だとはとうてい見えないわけです。そんなふうに、医者の間でも診ている患者の層の違いによって、意見が異なっており、一つにまとまるとは思えません。

当事者の意見も割れていますが、自分と同じ意見の専門家の言葉を引用しているだけでは、まとまりようがないでしょう。

拒食のみで始まったあたりでは依存症とは無縁でも、やがて過食が混じるようになり、さらには過食おう吐やチューイングへと発展していく中で、物質依存やプロセス依存と同じ症状を見せるようになっていくわけです。その症状の変遷のどの部分を医者が診ているか(初期か、中期か、後期か)、当事者がどの部分にいるか(どの部分にいると自分が思いたいか)によって、摂食障害がアディクションであるかどうかの意見が分かれてくるのでしょう。

やはり乱用(abuse)と依存(dependence)は分けて考える必要があるのだと思います。乱用は依存を含む概念ですが、「依存のない乱用」というのはあり得るのです(その多くは依存に移行していくにしても)。

乱用というのは、何らかのストレス対処や、心の病の症状をきっかけとして始まります。仕事のストレス解消に酒を飲むとか、うつの人が自己治療として酒を飲むとか。やがてそれが習慣化し、量が増えていって、何かのトラブルが起きたときに「乱用」というレッテルが貼られます。この時点ですでに依存になっている人もいれば、まだの人もいます。けれど「まだの人」もそのまま放置すれば、やがて多くは依存の段階へと進んでいきます。

ストレスや心の不調を抱えたとき、アルコール以外のものを選ぶ人もいます。処方薬乱用をする人もいるし、パチンコにはまる人もいる。自殺しようとリストカットしたら、死ねなかったけれど気分がすっとした人はリスカにはまる。買い物やセックスにはまる人もいる。拒食や過食もその一つです。

「依存のない乱用」の段階では、症状より原因に注目すべきなのでしょう。完全に症状を抑えることは必ずしも必要ではありません。けれど、症状を続けていれば(それがパチンコであれ、過食であれ)やがては一定数の人たちの症状がアディクション化し、原因を取り除いても(取り除ければの話ですが)アディクション化した症状が固定することになります。

プロアナというのは、拒食症を病気ではなくライフスタイルとして支持する考え方だそうです。また摂食障害のグループのなかには、症状をやめることを目的としないとするグループもあります。どう考えようとその人の自由だとは思うのですが、やはり将来に何が待っているかを考えて、今すぐでなくてもいいので、3年後、5年後、あるいは10年後には原因を解消して症状がとまっている自分の姿を想像して欲しいと思います。

というのも、摂食障害も一定割合が死ぬ病気ですし、いったんアディクション化すれば「症状をやめることを目的としない」などと言っていられなくなります。それともう一つ。

摂食障害の家族の人たちの話を聞く機会がありました。過食おう吐の場合だとそれに費やされる食費が、家飲みのアル中さんの酒代よりよっぽど多かったりします(しかもそれが同居の親の負担だったり)。それをどうやって解消していいのかわからない。ご本人のほうは摂食障害は依存症とは違うと考えていても、家族の心痛はアラノンやギャマノンの人の話とまるっきり同じなのでありました。

「乱用があれば、何もかもアディクションである」とする考え方も、「××はアディクションとはまったく違う」という考え方も、どちらも偏っています。

アルコール依存とDV

最近AAミーティングで妻を殴ったという話をあまり聞かなくなりました。
僕がAAに来た十五年ほど前には、家庭の中の暴力とか、自分がその加害当事者であるって話は珍しくもなんともありませんでした。最近そういう話を聞く機会が減りました。

たぶん、アルコール依存の人のDVが減っているのでしょう。(ここでは身体的暴力という狭い意味のDVを指している)。

自分がDV加害者であることをミーティングでカミングアウトしなくなってきただけ、という可能性もあります。一方、実数として減っている可能性もあります。

断酒会の古い人が「今の若い奥さんたちはすぐに離婚してしまう」と言ったそうですが、酒をやめないダンナを最後まで支える奥さんが減っているのかもしれません。奥さんが殴られる前に離婚してしまえば、ダンナのほうも殴らずにすむわけです。そもそも世の中が離婚しやすくなっている影響もあるのでしょう。

また、依存症についての知識が広まり、DVが発生する以前の早い段階で、医療や自助グループに来る人が増えていることもあるのでしょう。そこで酒がやまらなければ、さらに病気が進行して奥さんを殴るようになったとしても、とりあえずAAミーティングという観測窓から見ている限りは、DVは減っているように見えるのかもしれません。

個人的な印象としては、アルコールの人より薬物の人のほうが暴力に訴えやすい傾向があるように感じられます。最近のダルクやNAの広がりによって、薬物主体の人がAAでは減っていることも関係あるのかも知れません。

ひょっとすると、一時期下火になっていたスポンサーシップがAAの中で再び盛んになりつつあり、家族への暴力のようなデリケートな話は、ミーティングではなくスポンサーとの間で行われているのかも知れません。

いろいろ可能性がありますが、やはりこれだけDV話が珍しくなるってことは、アルコールの人のDVが減っていると考えたほうが自然だと思います。昔のデータと今のデータを比較しているわけではないので、憶測の域を出ない話ですけど。

DV加害者プログラムをやっている信田さよ子先生が、薬物の人は何人か来たけれど、アルコールの人はまだ一人も来ない、と言っていました。信田先生は「アルコール依存の家には必ずDVがある」と言っていますが、それは何をDVと捉えるかによります。広く言葉の暴力まで含めればそれは真実です。身体的暴力に限ればそうとも限りません。信田先生がアルコール臨床の真ん中にいた1980年代と現在とでは、患者像にずいぶん違いがある気がします。アルコール依存の人がDVの加害者臨床に登場しないから、アルコールの人はDVの問題に熱心ではない、と捉えるのは無理があると思いました。

僕は信田先生のファンであるだけに、そういう言葉の細かいところが気になってしまうのかもしれません。

12ステップの棚卸しと埋め合わせには、自分の行った加害行為の再評価と傷の修復の働きがあります。そういう部分もDV加害者プログラムをやっている人たちには理解されていないようです。これは専門家たちの勉強不足を責めるよりも、自助グループ側の情報発信力の弱さが問題なのでしょう。

日本の自助グループは閉鎖的すぎる、というのが神戸で感じたことの一つでした。

ひとつ前の雑記で、日本の自殺数が12年前不自然に急増していることを書きましたが、それについてメールをいただき、下記の資料を紹介いただきました。この場にてお礼を申し上げます。

平成10年における自殺者数の急増要因
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2007/pdf/pdf_honpen/h022.pdf
平成19年版 自殺対策白書
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2007/html/gaiyou/index.html

自殺統計のいい加減さ

神戸のネタを引っ張ります。

総務省統計局が発表している「主要死因別死亡者数」のグラフを見てみましょう。
http://www.stat.go.jp/data/nihon/g4821.htm

1990年代に心疾患が減り、かわりに脳血管疾患が増えています。こんなふうに急に死因が変動したのにはからくりがあります。グラフの元になったデータを見てみると、心疾患というカテゴリには、下に4つのサブカテゴリがあります。急性心筋梗塞、その他の虚血性心疾患、不整脈、そして心不全です。変動以前には心不全が心疾患死のおよそ半分を占めていました(変動後は1/4程度に低下しています)。

死因としての心不全は「心臓が止まった」という意味です。人間死ぬときは心臓が止まるのは当然なので、心不全というのは実は死因について何も語っていないに等しいことになります。

病死の場合には医師が死亡診断書か死体検案書を書きます。病死であることが明らかな場合には、具体的な死因が不明でもその解明のためにわざわざ解剖を行ったりしません。外側から検案を行うのみで死因を判定します。その時に「心不全」という死因が多く書かれていたのです。

それに対して「死因をちゃんと判定していない」という批判があったために、厚生労働省が「心不全となるべく書くな」と指導した結果、かわりに脳梗塞が増えてしまったのです。

(その頃死亡診断書・死体検案書の書式が変わって心不全と書きづらくなった、という話も聞きました)。

こんなふうに日本の死因判定はいい加減で、あまり信用できたものではありません。

医師が明らかな病死ではないと判定した場合、警察に異常死として届け出がされます。警察では警官によって検視が行われ、犯罪が関係する疑いがある場合は司法解剖が行われます。そうでない場合は、監察医に回されて行政解剖が行われるはずですが、この仕組みが整っているのは東京・大阪・神戸だけで、他では解剖によらない検案が行われるのみです。

さて、ニュースによれば12年連続で自殺者が3万人を越えたそうです。

自殺死亡の年次推移
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/2.html

こちらのグラフでも1990年代後半に奇妙な現象が起きています。それまでの10年間ほど自殺者が年2万人程度で推移していたものが、急に3万人を越え、その後それが維持されています。

いったいこの年に何が起きたのか? 自殺者を急に1万人も増やすような社会変動があったのか? どうもそうではないようです。

先に書いた死因の判定プロセスを見ると、その理由が見えてきます。警察に届けられた異常死は、警官(検視官)によって犯罪による死かどうかが判定されます。明らかな自殺である場合には、犯罪と無関係なので監察医に回されてそれで警察の処理は終了です。しかし、犯罪となると司法解剖も必要だし、犯罪の捜査もしなくてはなりません。つまり、自殺と判断した方が、警察は仕事が減って助かることになります。

なので、厚生労働省が「なるべく心不全と書くな」と指導したように、警察庁が「なるべく自殺と判断して仕事を減らせ」という通達を出した・・・のかもしれません。それを裏付ける証拠はありませんが、そう考えればつじつまはあいます。

(予算不足、人手不足から司法解剖も犯罪死全体の数%しか行われていません)。

というわけで、日本の死因統計は、元になるデータがいい加減なので、あまり細かい数字を追いかけてみても意味がありません。

神戸での二日目の午前中は、自殺予防の話を続けて聞いていたのですが、その中に統計のいい加減さの話が出ていたので、改めて調べて雑記にまとめてみました。

自殺者の数はそれほど信用できる数字じゃありませんが、それでも自殺が交通事故死よりずっと多いことは確かです。いままでは自殺と関係のある精神疾患としてうつ病ばかりが取り上げられてきましたが、これからは依存症にも着目していかなければならない、という話でありました。

依存症と日本の宗教

神戸の話ですが、すこし脇に逸れます。

初日、信田さよ子先生の講演のあとの質疑応答で、「日本ではなぜアメリカのように自助グループが流行らないのか?」という会場からの質問に対し、先生は「日本では宗教が活躍しているから」と答えていました。その答えを意外に思った人もいるのでしょうが、かなり真実を突いていると思います。

日本の宗教人は依存症の問題にわりと熱心です。AAで会場を借りているカトリック教会の部屋の壁には、教区のアルコール問題研修会の告知が貼りだしてあります(単に古いのが剥がされてないだけですけど)。2月にRDPのワークショップで利用した天理教の施設にも、依存症問題研修のポスターがが張ってありました。信者あるいは信者候補の抱える問題の一つとして、依存症問題を理解しようという機運が少なからずあるようです。

日本人の宗教に対する感じ方として「悩みを抱えた人の心に入り込んでくる」というのがあります。それは日本の宗教がそういう布教スタイルを取ってきたからであり、それが「宗教に取り込まれるのは心の弱い人だ」という偏見を形作る原因にもなっています。その是非はともかく、その悩みの中に依存症問題も含まれており、宗教人が依存症問題の最初の相談を引き受けることも良くあります。

信心してみたけれど酒は止まらなかった、という話はいくらでも聞きます(それぐらい宗教を試してみる人は多い)。宗教では酒が止まらなかったからこそ、医療や自助グループにやってくるわけです。一方で、ブッシュ前大統領のように宗教によって依存症から救われた人もいるはずです(けれどその人たちは自助グループには来ないでしょう)。

じゃあ海の向こうのアメリカはどうなのかというと、宗教から見捨てられた(酔っぱらいは迷惑だから)人たちが自助グループで助かっているという構図のようです。

僕は長い間、向こうでは教会でAAミーティングをやっているところも多いし、AAと宗教というのは暗黙の協力関係というか、良い関係にあるのじゃないかと思っていたのです。何年か前の Slaying the Dragon の邦訳記念講演のときに、著者のホワイト先生にそのことを質問している人がいました。

教会でミーティングをやっていると言っても、それはあくまで教会の一室を貸してくれているにすぎないのであって、信徒の人が酒をやめてもなかなか「正門から入って聖堂に入れてもらう」というわけにはいかない。ちゃんとした信徒として扱ってもらえるようになるには、長い時間がかかるのだとか。

recovery church という話を聞いて驚いたのですが、そうやって教会にマトモに相手にしてもらえない人たちが集まって、自分たちの教会を造っているのだそうです。

なんとなく「宗教が相手にしてくれているうちに宗教で助かるのが上等な人で、見捨てられて自助グループまで行ってしまうのは下等な人」というニュアンスを感じさせる話でありました。(そういった社会の偏見を取り除こうとしているのが、回復擁護運動なのですけど)。

こうした日米の違いは、それぞれの社会における宗教の立場の違いから来ているのでしょう。

ともあれ、日本では(とくに田舎のほうでは)宗教が依存症の問題の引き受け手になっており、それは市井の宗教人たちが人の悩みに偏見なく向き合おうとした結果だろうと僕は考えています。しかし、依存症の問題は経験も知識もない人たちにとっては手に余ってしまうことも、想像できます。

僕はまずいったん宗教を頼ってみることを否定的に捉えていません。もちろんそこで助かる可能性もあるからです。そこで助からないにしても、いろんな手段を試してみて、何をやってもダメだったからAAに来た、というほうが話が早いからです。

睡眠薬と風邪薬

夏風邪をひいてしまい、ここ数日市販の風邪薬を飲んでいました。一昨日あたりから痰が出てくるようになり(良くなってきた証拠)、昨夜から飲むのをやめました。おそらくそのせいでしょう。寝付きが悪く、眠ったのは布団に入って電気を消した1時間後ぐらい。眠りも浅くなり、朝起きるたら睡眠不足特有の頭痛がしました。

市販の風邪薬には、咳止めとしてリン酸ジヒドロコデインが、また気管支拡張のためにdl-塩酸メチルエフェドリンが入っています。

リン酸ジヒドロコデインは咳止め薬の「ブロン」の主成分でもあります。コデインはモルヒネと同じアヘンアルカロイドの一種で、モルヒネほどの依存性はないものの、ブロン中毒になる人たちはコデインの陶酔感を期待しています。

塩酸エフェドリンは、マオウのアルカロイドで覚醒剤の原材料として規制されています。スポーツ選手に乱用があることでドーピング規制の対象になっています。風邪薬に使われているのは安全化が図られたもの(頭に「dl-塩酸」がついている)。

どちらも風邪薬に入っているのは微量であり、通常は問題になりません。(薬の乱用をする人たちは、効果を強くするために風邪薬を20錠、30錠、あるいはひとビン丸ごと飲んでしまいます)。けれど、昨夜僕がよく眠れなかったのは、コデインとエフェドリンの離脱症状で間違いないでしょう。依存症者として、鎮静系や覚醒系の薬物に対して過敏に反応する体質を抱えているのだと思います。

僕はうつのおかげで薬を使わないと眠れない時期が長く続きました。最初はいわゆる睡眠薬です。次に睡眠薬はやめにしたものの、他の用途の薬で眠気を催す薬(ある種の抗うつ剤やマイナートランキライザー)を寝る前に飲むことで睡眠薬代わりにしていました。中でもワイパックス(ロラゼパム)には長く世話になりました。ワイパックスには筋肉をほぐす効果があるので、緊張型頭痛と肩こりを抱えている僕には非常にありがたい薬でもありました。

そうやって薬を飲み続けていると、「僕の睡眠中枢は完全に壊れてしまっていて、一生寝るための薬が手放せないのではないか」という気分になってきます。けれど、医者と相談しながらそういった薬を少しずつ量を減らし、効果の軽い薬に切り替えて、長い時間をかけてやめていきました。(これは同時にうつ症状の軽減があったからこそできたことでしょうけれど)。いきなり全部やめる人もいますが、僕の場合にはそれはうまくいきませんでした。それができるのなら、一度にやめた方が良いでしょうね、きっと。

薬を減らすと、よく眠れなくなります。広い意味での離脱症状でしょう(退薬症状)。けれど、早ければ2〜3日、遅くとも2〜3週間の間には、必ず減らした量で眠れるようになっていきました。

一時期、アタラックスP2(塩酸ヒドロキシジン)というじんましんの薬(かゆみ止め)を使っていました。別に皮膚の疾患があったわけではなく、精神の鎮静作用があるので眠気を催す薬として使っていたのです。これを中断したときには、軽い不眠とともに「皮膚が猛烈にかゆくなる」という副作用が4週間ほど続きました。アタラックスを飲み始める前はそんなことはなかったので、明らかにリバウンド現象です。主治医も初めての経験だったそうで、曰く「アタラックスよ、お前もか!、って感じ」だそうです。

いまでは眠るために薬は要りません。夜遅くなってくると自然に眠くなってきます。薬を使って寝ていた頃は(薬を飲まなければ)夜遅くまで元気に?活動することもできたのに、今はそれができないのが少々残念です。

それほどぐっすりよく眠れているわけではありません。最初に書いたように、風邪薬程度に簡単に振り回されてしまいます。けれど、不思議なのは「よく眠れないことがそれほど気にならない」のです。人間生きていれば、眠れないときだってあるさ、という程度です。

逆に言えば、精神的に調子が悪かった時代は、なんであんなに「眠れないことが気になり、辛かった」のか? それはおそらく精神的に調子が悪かったからでしょう。(不眠は精神的不調の症状であり、原因ではないということ)。

ノンアルコールビールとCBT

依存症の認知行動療法(CBT)ってどういうことをするのか?

例えばこれを見て下さい。

久里浜アルコール症センター:アルコール依存症の認知行動療法について
http://www.hosp.go.jp/~kurihama/ninti.htm

CBTとは「今までの出来事や物事に対する認知(=見方や考え方、価値観、こだわり)を自分自身で検討し、その認知を変えることで、これからの行動や生活を改善しようとする治療法」とあります。

CBTの実装は様々ですが、たまたま他のものを探しているときに、こんなものを見つけました。
ギャンブル依存症からの自由を目指して 自己管理ワークブック
http://www.adp.ca.gov/opg/pdf/JP_Final%20Workbook_WEB.pdf

こちらはギャンブル依存症のワークブックですが、依存の対象が違うだけで基本はアルコールと同じです。この中の第III章では「ギャンブルの衝動を生じさせる誘因」を自己分析しています。誘因は内部誘因(気持ち)と外部誘因(状況)に分けられますが、外部誘因というのは以前のギャンブル体験を思い出させる状況です。ワークブックでは、ギャンブルがしたくなった状況を自分で思い出す作業が組まれています。

さて、なぜノンアルコールビールが売れているかと言えば、それは酒の代用品だからです。酒を飲むわけにはいかないが、酒のかわりに「あたかも酒を飲んでいるかのような雰囲気」を作り出してくれる小道具であるからこそ、普通のジュースより高価であるにもかかわらず売れているのです。

コンビニでは清涼飲料水のコーナーではなく酒のコーナーに置かれ、高速道路のSA・PAでは「飲酒を誘発する恐れがあるので未成年には売らない」とされています。

断酒後に宴席に出たことのある人なら経験があるかもしれませんが、皆でわいわい騒いでいると「酒を飲んでいないのに少し酔ったような気分」を味わうことがあります。以前酒を飲んでいたのと同じ環境に置かれると、脳は飲酒下の状況を再現するようで、そのことは酒に限らずいろんなことに当てはまります。

ノンアルコールビールも、アル中さんたちにとっては、過去の飲酒状況の再現に他ならず、飲酒の衝動を生じさせる誘因となるものです。それは脳がそういう仕組みになっているのですから仕方のないことですし、逆にその仕組みを逆手にとってCBTという療法が編み出されているわけです。

「ノンアルコールビールを飲んでも飲酒欲求が沸かなかった」という話をする人もいますが、その姿は「断酒後には宴席に出るなというが、出ても再飲酒にはつながらなかった」と言っている人と同じです。なだいなだの「アルコール問答」という本にこんな話があります。

昔は山道を車で走っていると「路肩注意」という標識を多く見かけました。道路が十分整備されていなかった時代は、路肩が崩れていることがあり、注意を喚起するためのものです。普通の危機感覚を持った人ならば、「路肩注意」の標識を見れば道の端に寄らず真ん中を走ろうと心がけます。

「断酒後に宴会に出たけど酒を飲みたくならなかった」と言っている人は、路肩注意の看板があるのに路肩を走っても大丈夫だったと言っているようなものです。一度や二度なら大丈夫かも知れませんが、それを続けていけば、いつかは路肩が崩れた部分を踏んで谷底に真っ逆さまということになります。ノンアルコールビールや宴会も同じことです。

断酒後に楽しみがないので、飲まない人で集まってカラオケに行って楽しむのはいいのだけれど、昔カラオケをやりながら酒を飲んでいた人は飲みたくなるので参加しない方が良い、という話を断酒会の方から聞いたことがあります。CBTという名前は付けなくても、認知と行動の修正によって酒を遠ざけるのは、以前から経験的に行われてきたわけです。

おそらく、ビールが嫌いでウィスキーばっかり飲んでいたという人が、ノンアルコールビールを飲んでも飲酒衝動にはつながらないと思います(状況があまりに違うから)。ノンアルコールビールを飲みたがるのはビールを飲んでいた連中なので、「ノンアルコールビールは危険」という表現でオッケーでしょう。

ノンアルコールビールを飲んでも大丈夫だったという発言は、自らの愚かさ(少なくとも無知)を露呈しており、恥をさらしているだけです。しかし認知(こだわり)が修正できないからこそ、くりかえし失敗できるのだとも言えます。
プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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