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今年も1年ありがとうございました

Webalizerの出力データ。

今年一年の統計データ
送出バイト数 68.0Gbytes
訪問者数 70万8千
リクエストページ数 378万
リクエストファイル数 630万
リクエスト数 600万

今年も多くの皆さんに訪問していただいて、本当にありがとうございました。
一日の訪問者数2,000人足らずというのは、大きな変化がありません。

今年を振り返ってみると、AA的に大きなトピックはスポンサーシップにありました。

話はいきなり逸れます。グループホームや作業所を作ろうと活動している人たちの話を聞くと、障害を持った子供たちも18才までは養護学校で面倒を見てもらえて、親として大変ありがたい。ところが18才を過ぎた途端に、社会的なサポートがぐっと少なくなり親の肩にずっしりとかかってくるというのです。

また統合失調の親御さんたちの話でも、「自分たちが死んだらこの子の面倒は誰が見てくれるのか、これでは死ぬに死にきれない」と言います。「この子」といっても30代、40代の中年になっているわけです。

同じような問題は、アルコールや薬物依存の「この子」たちにも言えます。

「配偶者(奥さんとか)子供と同居」「単身」「親と同居」の3種類のパターンを比較したときに、一番社会的回復に時間がかかるのが「親と同居」のパターンです。もちろん、一概にものを言ってはいけなくて、仕事をしながら老親の面倒を見ている立派な人もいます。しかし、家族や仕事を失って実家に身を寄せ、親の年金で暮らしている依存症者も少なくありません。とりあえず家賃や食費の心配をしなくて済むぶん、社会的回復が先送りされている面があります。

これは、学校卒業後に親から自立することなく就労体験の少ない人にとっても、あるいはいったんは経済的に自立し結婚生活を営んだ後に親元に戻った人でも同様です。この両者にあまり差はなさそうです。

特に男性にとっては老いた母親の作る料理や身の回りの世話、年金などは(経済的不自由に目をつぶれば)それなりに快適なものです。母親がおらず父親だけとの同居だとそれほどの快適性はないみたいですが。

親の心配としては、やっぱり「自分たちが死んだらこの子の面倒は誰が見てくれるのか」ということです。そもそも人の世話にならなくて済むように、経済的に自立して、生活のことも自分でできるようになって欲しい、と息子に願うのが親の気持ちです。

昔だったら、そんなケースでも「2年ほど毎日ミーティングに通わせて、しっかり酒や薬を切るのが先だ」とシンプルなアドバイスをすれば良かったのです。それは酒や薬が止まれば仕事もできるようになる、「酒をやめられれば何とかなる」という前提条件が成り立っていたからです。

しかしその条件が成り立たないケースが増えてきたというわけです。この年齢でなんとかしなければ、親が亡くなってしまった後は、生活保護でどこかの施設に入るしかない・・いま何とかしなくては。スポンサーをやっていて、つくづくそういうことを感じさせられました。

さて、今年最後のミーティングに行って参ります。なんだかんだ言っても、ミーティングがあって、ステップがあって、根本的な酒の問題が解決できるからこそ、その先の問題で悩めるわけですから。

皆様良いお年を。
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なぜ発達障害に関心を?

今年の初めの雑記を読み返すと、発達障害のことばかり書いていたことがわかります。今年は発達障害に始まり、発達障害に終わった1年だったとも言えます。

僕はアルコホリズムの当事者としてアディクションの問題に関心があるだけです。その僕がなぜ発達障害の問題を追いかけているのか。それは単なる興味ではありません。

AAで酒をやめて5年ぐらいは、僕は県外のAAの実情をほとんど知りませんでした。たまに県外で開催されるAAのイベントに参加するか、出張に行った先のAA会場を訪れるのがせいぜいで、地元のことしか知りませんでした。けれど、しょっちゅう県外まで出かけていく仲間もいて、彼らは「東京近辺のメンバーはすごい(実力があるよ)」と感想を言うのでした。

地元のAAグループはどこも同じような問題を抱えていました。医療機関や保健所などいろいろなところからたくさんの人がAAを紹介されて会場を訪れるのですが、AAにつながる人は少なく、数回来ただけで来なくなってしまう人ばかりでした。また、せっかくAAを続けた人も、2〜3年すればミーティングに来なくなることが珍しくありませんでした(これを「卒業」と呼ぶ)。

結果どこのグループでも、一部の熱心な人たちがAAグループを切り回し、あとはビギナーばかりという状況が続いていました。

ビギナーを定着させ、「卒業」を防ぐために、ミーティングに出続けようという呼びかけが熱心に行われていましたが、何の解決にもなっていませんでした。だがきっとそれは僕の地元のローカルな問題で、東京や神奈川に限らず、大都市近辺には人数の多いグループはいっぱいあるにちがいない。日本のどこかにはこの問題を解決した人がいるはずだ・・・。そのように期待していました。

その後、AAの評議員という役割に選ばれました。これをやっていた2年間は、毎月東京へ行って関東の仲間と話をし、また2月には全国から集まっての会議がありました。それでわかったことは、僕らが抱えていた問題は、全国のAAに共通する問題だということです。

NY GSOのメンバー推計を見ると、アメリカのAAメンバー数は126万人。グループ数は5万7千ですから、1グループあたりの平均メンバー数は22人です。いま日本のAAグループで22人のメンバーがいるグループがどれだけあるでしょう?

AAを「卒業」したとしても、その後ずっと再飲酒することがなければ、AAはその人の役に立ったと言えるのでしょう。だが、そうではないことは数々の経験が証明しています。

「日本のAAは構造的問題を抱えている」

ではその原因はどこにあるのか。12ステップの力が弱まったからです。ステップ5(棚卸し)までしかステップをやらない人たちが増え、やがてまったくステップをやらないAAメンバーも増えてきました。スポンサーもスポンシーも持たないメンバーも増えました。僕も日本のAAのメンバーとして、これと無縁ではありませんでした。スポンシーや、グループのビギナーを手助けする手段を持たず、なにより自分の飲まない生活そのものが危険にさらされていました。

AAが持っているユニークな力を、日本のAAは失ってしまっていました。ではどうやってそれを取り戻せばいいのか。日本のAAを始めた二人のメンバーはすでにこの世にいませんし、この二人の代わりを勤めようという人も現れません。手段はないのか?

その答えが「ビッグブック」でした。これはAAのメッセージを運ぶ器として作られたものですから、うってつけでした。同じ問題意識を持っている人たちが集まって、ビッグブックのムーブメントが起こりました。それについては何度も書いてきているので改めて書きません。

その結果を評価するにはまだ早いと思いますが、多くの人たちと同じように、僕も「手ごたえ」を感じています。このやり方を続けていけば大丈夫だという確信を得ています。

だがビッグブックを使ったステップですべてが解決されたわけではありません。僕自身のスポンサーシップの中にも失敗がありましたし、他の人についても同様です。うまくいかなかったケースはいくらでもあるのです。

失敗には原因があり、そこには何かの問題が存在しているはずです。その原因をつきとめて解決すれば、失敗は減り、ビッグブックのステップの成功例はもっと増えるはずです。なにも考えずにただ失敗を繰り返していては愚かとしか言いようがありません。

そうやって調べていくうちに、発達障害の問題につきあたりました。もちろん、ステップがうまくいかない理由には様々なものがあり、すべて発達障害というわけではありません。けれど、発達障害を学んだ目で見れば、依存症と呼ばれる人のなかに意外なほど発達障害の問題を抱えていそうな人が多いことに気づかされます。

たいていの場合、発達障害は回復の足を引っ張る方向に作用しています。この問題をどうやって解決していったら良いのか。それは(少なくとも僕にとっては)すべてこれからです。でも、数年前からこの問題に取り組んでいる人たちもいて、その人たちの経験は他では得がたいものです。

これが、僕が発達障害に関心を寄せている理由です。

つまり、まずAAの中でステップの力が弱まったという問題があり、それをビッグブックのステップという手段で乗り越えつつあるわけです。そうやって、ひとつの山を乗り越えたところ、次に発達障害という山が見えてきたので、今度はそれを乗り越えなくちゃならなくなったわけです。

(たぶん、発達障害という山を乗り越えれば、次にまた別の山が待っていることでしょう。問題と解決とは常にそういう構造をしているものです)。

適切な支援があれば、酒をやめ、人々のいる社会に復帰できる人はもっと増えるはずです。

掲示板について

過去の話ですが、「これ以上ひいらぎさんの掲示板に書くなら、実家に帰らせていただきます」と奥さんに言われてしまった人がいました。「ぶどう」に限らず、掲示板投稿やブログのコメントを書くことによって精神状態が悪化しているのに、それを自分で止めることができない、という悪循環にハマってしまう人がいます。とばっちりを喰らうのは家族です。

このような聡明な奥さんが、誰にでも与えられているわけではありません。

「心の家路」もすでに9年目。多少なりとも名が知れたようで、リアルで人に会うと感想をいただくことがあります。その中で最も多いのは、掲示板「ぶどう」運営に対するねぎらいの言葉です。

それは「どうしようもない行為を繰り返す人たちの相手を、よく続けてらっしゃいますね」という類の、褒められているのか貶されているのかビミョーな言葉です(褒められていると受け取っておきますが)。

メンヘル(メンタルヘルス)に関する掲示板を運営している以上、いろいろな状態の人がやってきます。回復した人ばかりではなく、精神状態の悪い人たちも来ます。その「どうしようもない行為」については、ある程度の受忍も必要だと思っています。

掲示板運営のねぎらいの言葉に対して、僕の答えはいつも決まっています。

「ご家族の苦労を思えば、大したことはない」

僕はしょせん掲示板で相手にしているだけなのです。それは、自分の空いた時間を使っているだけだという意味です。嫌なら相手にしなければいいし、放置してもいい。スルーする能力は掲示板でのコミュニケーションに必要な能力です。最悪、書き込み禁止で相手を締め出す手段も残されているのです。

けれど、「どうしようもない行為をする人たち」にだって、家族はいるのです。家族は本人に24時間態勢でつきあわなければなりません。相手にしたくなくても絡まれるし、無視すればキレられる。本人を締め出したくても、離婚や別居という面倒な手順を経ねばなりません。まして親子となれば、別れたところで血のつながりは断てないのです。

そういうことを考えると、掲示板から締め出すのも早め早めの決断が求められていると考えています。

ネットワーク環境の普及とともに、掲示板にたどり着く人たちの性質も変わってきました。2009年後半の掲示板のやりとりのなかで、「もはやオープンな掲示板で有意義なコミュニケーションは期待できない」という意見が出ていました。僕もある程度それに賛成です。

実際に僕も「ぶどう」を初めとするオープンな環境から、クローズドなコミュニケーションへと移行しています。例えば直接のメールのやりとりや、メーリングリスト、会員制の掲示板、mixiなどです。管理人がそんなわけですから、「ぶどう」が以前ほど流行らなくなって、単なる情報掲示板になっていったのも当然です。

もともとリアル(対面)の自助グループに関する同好の掲示板だったわけで、ネットでうだうだ言ってないで自助グループに行け、というスタンスなのですから、掲示板が流行らなくても何の問題もなかったのです。

ただ、今回「ぶどう」が変な盛り上がりを見せた中で、やっぱりオープンな環境でなるべく有意義なコミュニケーションをしたいという要望がある程度あることもわかってきました。そのためには「どうしようもない行為を繰り返す人たち」をある程度制止する必要があるでしょう。何らかの形で、掲示板の機能を変更して、その要望に応えていきたいとは思っています。冬休みに時間が取れればやります。

掲示板の意見に偏りがあるという話もありました。個人の運営している掲示板なのだからそれは当然のことです。世の中にはたくさんの掲示板があり、それぞれに特色があります。自分の気に入った掲示板に行けばいいことですし、自分で掲示板なりブログなりを運営して、そこで自分好みにやればいいことです。

京都でのシンポジウムの感想

午前3時半に起床、それから車で京都まで移動し、ワンデーポート主催の「依存症を発達障害から考える」という講演とシンポジウムを聞いてきました。

前夜に寝たのが遅く、睡眠時間が2時間ちょっとだったので、きっと聴いている途中で居眠りしてしまうだろうと予想していたのですが、とても興味深くてまったく居眠りしませんでした。

まず前回の雑記で、「高機能自閉症とアスペルガー症候群の区別について...この二つを区別しない方向へ時代は動いている」と書きましたが、これには僕の誤解が含まれていたようです。

午後の部に京都大学の十一元三先生の講演があったのですが、自閉症スペクトラムの中の分類については専門家の中にも混乱があるとして、図にして説明がありました。記憶を頼りにその図を再現したのがこれです。



高機能自閉症とアスペルガー症候群は区別されるべきということです。高機能自閉症は知的障害がないカナータイプ(言語の遅れがある)。アスペルガー症候群は言語の遅れがないか、目立たなかったタイプ。アスペルガーとPDDNOSがDSM-Vで「自閉症スペクトラム障害」に統合される話とは別の話です。

今年の7月に、岩崎正人先生のギャンブル依存症に関する講演を聴きました。そのお話のなかの、典型的なギャンブル依存の姿とはこんな感じでした。

成人後にパチンコやスロットを始め、次第にそれにのめり込むようになる。結婚したときに奥さんの手前しばらく控えてみるものの、結局また手を出して元のもくあみ。やがて借金してギャンブルをするようになり、返済に困って借金が家族に発覚。家族や実家の父母の援助で借金を整理し、もう二度とギャンブルはしないと誓うものの、当然スリップしてまたまた借金が発覚。相談に来るまでに2〜3回借金の整理が繰り返されているのが普通。最初にギャンブルをやってから、10年〜20年ぐらい。仕事は(ギャンブルの問題さえなければ)ちゃんとできるタイプ。

これは、ギャンブル→アルコール、借金の整理→精神病院への入院、と置き換えて読んでみると、そのままアルコール依存症の典型例になります。

用事があって地元のGAグループに何度か出席させていただいたことがありますが、参加者の話を聞いていると、まさにこういうタイプの人がいます。アディクションの対象がアルコールや薬物ではなく、たまたまギャンブルだったという違いしかない人たちです。(アディクション型の人)。

酒やギャンブルの問題で仕事を失ったことはあるものの、そうしたトラブルが起きる前には仕事をちゃんとしていた時期があるし、回復途中でもなんとか収入のある仕事にありつけて、それを維持できている人がこのタイプには多いのです。

一方、京都でのシンポジウムで取り上げられた事例というのは、これとは違ったタイプです。
就労体験があまりないのが特徴です。高校や大学を卒業しても就職がうまくいかずに、家に引きこもってしまうとか。せっかくどこかで働けても、長続きしない。あるいは最初の仕事は長年うまくいっていたのが、ギャンブルが原因でその仕事を失ってしまうと、仕事そのものができなくなってしまうとか。
ギャンブルでトラブルを起こしていた期間も、それほど長くはなりません。ゲーム好きからパチンコやスロットに移行した人が多いのも特徴です。
発達障害が背景にあるケースです。

僕の考えではおそらくこうです。
アルコールにせよ、ギャンブルにせよ、本格的な重症の依存症者ができあがるまでには、10年、15年とトラブルを起こしながらも酒を飲み続け(ギャンブルをやり続け)る必要があります。もちろん比較的短期間で依存症者ができあがることもありますが、ある程度の時間は必要です。その間、アルコールやギャンブルを手に入れ続けるのに必要な収入が維持されなければなりません。これにはそれなりの能力が必要です。

ところが発達障害を抱えた人の場合、アルコールやギャンブルの問題を抱えると、短期間でそれが大きなトラブルに発展し、仕事=収入が維持できなくなってしまいます。若者の中にはまったく就労体験を持たない人もいます。こういう人の場合、本格的な重症の依存に発展するほど長くアルコールやギャンブルを続けることができないわけです。

成人の発達障害はいままでずっと見落とされ続けてきました。現在でもそれが診断できる医者は多くありません。しかし、アルコールやギャンブルの乱用を抱える人はいっぱいいます。そして「依存症は病気だ」という知識だけがいままで広がり続けてきました。そうして操作的な診断基準が適用された結果、アルコールの乱用があればすなわちアルコール依存症、ギャンブルの乱用があればすなわちギャンブル依存症、という判断が乱発されるのに至ったわけです。

つまり、問題はアディクションではなく、発達障害ゆえにアルコールやギャンブルの問題をかかえ、機械的な診断基準が原因で依存症と診断され、依存症の治療を受けて、依存症の自助グループに送り込まれてくる人が、たくさん存在している(少なくともそう考えている人たちがいる)、というわけです。

もちろんこの文章は問題を単純化しています。それぞれ典型的でないタイプもいるでしょうし、発達障害タイプ・アディクションタイプと二つにきれいに分けられるものでもなく、中間タイプや重複タイプもいるでしょう。話を元に戻します。

アルコールやギャンブルだけが問題だというのなら、その問題が取り除かれれば、再び働けるようになって良いはずです。しかし、1年2年と続けてもなかなかその状態にたどり着けない人がいます。若い頃からアディクションにハマって経験不足があるにしても、しらふになれば遅まきながら経験を積めるようになるはずです。ところが就労が安定しなかったり、まったく未就労の人たちがいるのはどうしてか。その背景には、発達障害の問題があるのではないでしょうか?

だとすれば、アディクションの問題だけを抱えた人の為にデザインされた回復プログラム(断酒例会とか12ステップ)が、有効に働かなかったとしても不思議ではありません。別の支援が必要なのです。

実際にそうした支援を行っている人たちの話が聞けたのは、とてもよい経験でした。

掲示板でのやりとりのなかで、依存症の早期発見が解決に結びついていないという話がありました。その話は再発に関してのものでしたが、再発なしでも社会復帰(就労など)の問題を抱えている人のことにもつながります。本来だったら早期発見・早期治療によって、軽症の人たちが断酒できたのであれば、社会復帰だってスムーズにいっていいはずなのです。しかしそうならないケースが多い。発達障害概念の導入は、その問題に光を当てるはずです。

スポンシーが就職に失敗しても、「まだ回復が足りなかった、仕事をするには早すぎたんだ」で済ませるのは、あまりに無策ではないかと思うようになりました。

12ステップより発達障害優先

自らも自閉症の子供を持つイギリスの精神科医ローナ・ウィングは、自閉症の基本症状を「3つ組の障害」にまとめました。

 ・社会性の障害(人との関わりの障害)
 ・コミュニケーションの障害
 ・こだわり(現在では想像性の障害)

日本で自閉症というと知的障害を持った人たちを示しますが、「3つ組の障害」は知能については何も語っていません。1980年代に知能の高い自閉症者の存在が認知されると「高機能自閉症」という名前が与えられました。あるいは、元になった概念を発見した人の名前をつけて「アスペルガー症候群」とも呼ばれます。

知能が高い、高機能と言っても、その閾値はIQ70です。IQ70は、なんとか底辺校と呼ばれる高校に入れるレベルだと思ってもらえればいいでしょうか。一方、天才的な知能を持つ人たちもおり、高機能と言っても幅広いことは覚えておく必要があります。

高機能自閉症とアスペルガー症候群の区別については諸説あるようですが、この二つを区別しない方向へ時代は動いているようで、2013年から使われるDSM-Vという診断基準ではアスペルガーとPDDNOSをあわせて「自閉症スペクトラム障害(autism spectrum disorders)」という一つにまとめています。

カナータイプの自閉症には「言葉の発達の遅れ」があるためコミュニケーションが障害を受けるのですが、アスペルガーの場合には言葉に遅れはなく、むしろ書くことは得意だったりします。しかし、コミュニケーションの量ではなく、質的な障害があると言われます。

アスペルガーの抱える問題とは「想像力の問題」と「一般化の困難さ」です。

「標準誤信課題」については、「発達障害について(その6)」で書きました。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100107

別の例を挙げます。子供の目の前でチョコレートの箱に鉛筆を詰めて見せます。箱を閉め、子供に「中に何が入っているかな?」と尋ねると、当然「えんぴつ」という答えが返ってくるでしょう。そこへ外から別の子供(ひいらぎ君)が入っていきます。最初の子供に「いま来たひいらぎ君はこの箱に何が入っていると思うかな?」と尋ねてみます。正解は「チョコレート」ですが、自閉圏の子供は「えんぴつ」と答えてしまいます。

ひいらぎ君の立場に立って考えてみることができれば簡単なのですが、その想像が働きません。箱の中に鉛筆が入っているという「目の前の事実に圧倒的にひきずられ」て全体を見失ってしまいます。

もちろん、この種の問題は学習によって乗り越えることができます。次に同じ課題を与えられたら「えんぴつ」と答えることを憶えればすむことです。アスペルガーの人は記憶力に優れており、この手のパターン学習はお手のものです。これを重ねることで彼らは「人の気持ちが分かるように」なりますが、それは学習の結果であり、想像を働かせる通常人とは質的に違ったものです。

このため、新しいパターンに出会うと、そのたびに誤信の訂正、学習が必要になってきます。一般化することが困難なのです。

あるAAメンバーがミーティングで「ステップ9をやったらこんなに素晴らしいことが起きた」という話をしていました。アスペルガー持ちのスポンシーがそれを聞いて、ステップ9をやれば何もかも素晴らしくなると感じ、早くステップ9がやりたくて仕方なくなってしまったそうです。

そのステップ9をやった人は確かに素晴らしい経験をしたのでしょう。けれど、そこへ到達する前にステップ1〜8で苦労も重ねているし、ミーティングなどでAAにたっぷり時間をかけた結果です。さらには、それが素晴らしい経験であったとしても、それだけでは解決できない様々な問題を人は抱えているものです。

そうしたことが想像できず、ステップ9をやると素晴らしくなるという「目の前の言葉に圧倒的にひきずられ」てしまって、ともかくステップをやれば、何もかも解決する、12ステップ万能だと思ってしまうのです。言葉の裏に、どんな気持ちや行動が隠されているか、想像してみることができません。それが一般化の困難さであり、社会性の障害へとつながっていきます。

結局アスペルガーの人が「人の気持ちが分かるようになる」というのは学習の結果であり、本当の意味では分かるようにならないのかもしれません。しかしパターンごとの学習を積み重ねていけば、社会の中で場面に応じたふさわしい行動を選択できるようになり、分かったのと同じ効果が得られるのではないかと思っています。

つまり食道発声法みたいなものでしょうか。人は声が聞こえさえすれば、その声が声帯から出ていようが、食道から出ていようが気にしません。同じように、想像力ではなく学習によるものであっても、場面にふさわしい言動が選択できれば、社会性が身に付いたとして人々に受け入れられ、自己評価を回復させることも可能になるだろうと。

アスペルガーの人は言葉の行間が読めません。これも「目の前の言葉に圧倒的にひきずられ」てしまうがゆえです。しばらく前に掲示板であった、ひいらぎさんが再飲酒したままAAに戻ってきていない人だ、という誤信も、僕のその前の投稿の一部だけに注目した結果でしょう。

話を本題に戻します。彼らは「人の気持ちが分からないことが分かっていない」のです(人の気持ちが分かると思っている)。分かっていないことが分かってくれば、誤学習を訂正し、再学習することもスムーズになると思うのです。ある程度それが済んでからでないと表形式で棚卸しをしても効果が限られてしまうでしょう。いや効果が限られるどころか、悪くすると誤学習を強化する方へ進みかねないと心配します。

12ステップより発達障害への対処が優先されるべき

と考えるゆえんです。

巨人の肩に乗る

21世紀になって、ワリー・Pとかジョーやチャーリーの業績が日本のAAに紹介され、それを知った人たちは「どうも今まで俺たちがやってきたAAは、本来のAAの姿からずれていたらしい」ということに気がつきました。その時に、今までやってきたことはいったい何だったんだろう、という虚しさを感じなかった人はいないでしょう。

僕もその時にはすでに7年、8年AAを続けていたわけです。何事も改善のためには、過去の間違いは指摘されなければなりませんし、それに蓋をかぶせるわけにはいきません。けれど、過去は変えられないため、そこに虚しさをどうしても感じてしまいます。それは「もっと良いやり方をやっていたなら、もっと良くできたのに」という類の後悔です。

でも、変えられない過去は受け入れるほかなく、その心の痛みをこれからの行動を変えるエネルギーに変えていくしかありません。

けれど、時に他罰的な病んだ考えが浮かぶこともあります。知らなかったのは、教えてくれなかった連中が悪いのだと。「彼らが間違えたからいけなかったのだ」と過去の人たちを責める考え方です。この考え方には魅力があります。なにせ自分を無垢無実にできるのですから。自分が回復にてこずったのも、メンバーの定着率が悪くグループが成長しなかったのも、その間にたくさんのものを失ったのも、みんなみんな「先ゆく仲間」が悪いのだと。まるで悪いことはすべて先達の責任であるかのように。

おまけにこの考え方には、さらなるメリットもあります。「彼らは間違っていたが、私は正しい」という考えは、自分の正当性、優位性を証明してくれます。これから私が正しいことをして全体を変えていくというファンタジーは、まるで自分が救世主になったかような満足感を与えてくれます。

このような、「悪いことはすべて人のせい、自分は素晴らしい人」というのは依存症者が陥りやすい病的思考なのですが、それに自分で気づくのは難しいようです。

日本でビッグブックのステップが広まりだしたころ(つまり2004年ごろか)、こうした鼻につく考えが多かれ少なかれムーブメント全体を覆っていました。僕も例外ではありませんでした。「ビッグブックの集い」の集会で、過去の人たちを非難する話を堂々とする人もいました。これからは何もかも変えなければならないのだ!

当然そうした主張は、激しい非難の的となりました。先達の業績を否定し、自分の正当性、優位性を主張するばかりの話には、みんながうんざりしていました。「彼らは自分たちがビッグブックのステップで回復したと主張しているけれど、ちっとも回復してないじゃないか」というわけです。ビッグブックのやり方を日本で広めようと考えた人たちにとって、出鼻をくじかれる格好になりました。

いやそれどころか、完全に逆風が吹いていました。好意的に見てくれていた人たちの心も離れ始めました。その時になって初めて、自分たちの間違いに気づき、埋め合わせが始められました。謝罪を受け入れ、かえって好意的になってくれた人もいます。けれど、感情的にこじれてしまってどうしようもないケースも少なくありませんでした。ビッグブック・ムーブメントは、いまでのその影響を被っており、普及の足かせになっているように僕には感じられます。

ムーブメントの中には軌道修正できない人たちもいました。あくまで自分たちの正当性を主張する人たちは、次第に目立たなくなっていきました。回復していない見本を目立つところに置こうとは誰も思わないのですから。

アイザック・ニュートンの言葉に、

「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです」
If I have been able to see further, it was only because I stood on the shoulders of giants.

というものがあります。彼が万有引力の法則を発見できたのは、先人たちの偉大な業績の上にわずかなものを足したに過ぎないと謙遜し、自らの天才性、偉人性を否定しました。

このニュートンの言葉を引くのは、オープンソースソフトウェアLinuxの中心的存在、リーナス・トーバルズです。僕から見れば彼は十分天才ですが、彼はこの言葉を使って自らの天才性を否定し、人の業績の上に積み上げることの大切さを説いて多くの人たちをオープンソースの世界に巻き込みました。そして彼は巨大な潮流を起こすことに成功しました。

依存症である僕らが助かったのは、先人たちの業績あってのことです。P神父やM神父、R神父やダルクの近藤さん、あるいは彼らに続いた人たちの巨大な実績があってのことです。その実績の積み重ねこそが「巨人」です。それらがなかったら、僕らは今頃灰になって散らばっていて、生意気な言葉を吐く口すら持っていなかったはずです。自分がつながるべきグループも施設もなかったら、どうなっていたか考えてみればわかることです。確かに彼らの時代には情報が足りず、間違いもあったかもしれませんが、その恩恵を被って僕らの命があることは否定できるものではありません。

ビッグブックムーブメントの中で跳ねとんだ発言をしていた人たちは、自分が遠くを見渡せたのは、自分が巨人になったからだと勘違いしていました。彼らは巨人の肩に乗っていることに気づけませんでした。僕もその一人でした。自分が肩に乗るちっぽけな存在だと気づけたのは幸いでした。

さて、そのような自省が行われた後も、相変わらず巨人気取りの発言が後を絶たないのはなぜなのでしょう。それは単純なことです。ステップが次から次へと手渡されていく中で、いきなり遠くが見えるようになった人たちが、次々と巨人になった勘違いをするのでしょう。しかし彼らもやがては、自分がちっぽけな存在であることが分かるようになり、そうした発言が影を潜めていきます。つまりこれは、回復の過程で出る症状、通過儀礼みたいなものなのでしょう。どうやらステップを伝えられて1〜2年ぐらいに、この症状が出やすいようです。

リカバリー・パレードで歌われる歌、You Raise Me Up の一節に、僕は特別な感慨を持ちます。

I am strong, when I am on your shoulders.
You raise me up... to more than I can be.

感謝を忘れたところに回復はないもの。病気の症状だと分かっていても、うんざりさせられることもあります。

底つきではなく「底入れ」のために

福島のカオルさんが
イネーブリング理論の功罪、底つき
http://powerless.cocolog-nifty.com/alcoholic/2010/12/post-fce0.html
というエントリを書かれているので、ぜひ読んでください。

これに関連して「底つき」について書いてみます。
「底つき」という言葉はビッグブックにはなく、12&12のステップ1にあります。

「AAのメンバーは、なぜ底をつく必要があるのか」(12&12 p.5)

底つきは元の文章では hit bottom です。「どん底のケース」は low-bottom 。どん底とはたくさんのものを失って「もっともひどい状態」にたどり着いてしまった人たちのことです。他のAAに関する本には、high-bottom という言葉も出てきます。底の浅い人たちという意味です。

「底つき」というと、まるで沼にずぶずぶ沈むものが最後に底に到着するように、アルコホーリクが社会の底辺に沈むような印象を与える言葉です。「資金が底を突く」と言えば、財布の中身がすっからかんになることです。

しかし辞書を引いてみると「底つき」には別の意味もあります。株の取引の用語で、底値になるという意味です。株価が底値になったら、あとは上昇するばかりです。hit bottom は景気を表現する言葉にも使われます。The economy has hit bottom は「景気が底入れした」という意味です。hit bottomは「底を打つ」「底入れする」と訳されます。(精神科医が「AAの用語には株式用語が多い」と指摘されたことがありますが、それはビル・Wの元の職業を考えれば当たり前かも知れません)。以前見たヘイゼルデンの資料には hit bottom を示すイラストにまさに株のチャートの底値の図が描いてありました。

「回復には底つきが必要だ」と言われますが、それはつまり「悪くなる一方の状況が止まり、反転することが必要だ」と言っているにすぎないことになります。

底つきとはつまり、「悪化するだけの状況が反転して回復に向かうこと」です。

底には低い底(low-bottom)もありますが、高い底(high-bottom)もあります。何も社会の底辺に落ちる必要はありません。「まだ元気で、家族もいて、仕事も失わず、そのうえガレージには車が二台もある」(12&12 p.32)という恵まれた状況でも、余裕で底を突くことはできるのです。

では底つきには何が必要なのでしょうか?

カオルさんのブログにもありますが、放置することは良くないことです。適切な関わりが必要です。また景気の話を持ち出しますが、政府が無策なら景気はどこまでも悪化していきます。有能な政府が良い経済政策を実施すれば、景気の底は浅くてすみます。悪い政策を実施すればかえって悪化します。依存症も同じことです。

しかし依存症者に関わろうとしても、本人に否認がありやる気も不足している状況で、まわりがどう関わればいいのでしょうか? それに対して明確な解答を用意したのが、ジョー・マキューのステップであり、同じく彼が施設プログラムとして開発したリカバリー・ダイナミクス(RD)です。

彼は回復が始まるため(つまり底を突くため)には、適切な情報が提供される必要があると説きます。ビッグブックのステップのやり方をやっている人は、ステップ1と2が「情報を得るステップ」だということを思い出して下さい。この二つのステップは、スポンサーからスポンシーへと情報が手渡されるステップです。

ステップ1では、何に対して、なぜ無力なのか。いかに状況は絶望的か、ということが伝えられます。依存症者に対して「いかに状況が絶望的か」ということは医者ですら伝えたがりません。「医師は、アルコホーリクの患者に真実のすべてを告げることを嫌うものだ。良いことは伝えられないのだから(p.134)」。しかし、解決策を示せるのならば別です。絶望はどんなに深くてもかまわないのです。

(ちなみに、「何に対して、なぜ無力なのか」という大事な情報は、12&12のステップ1にも、ミーティング・ハンドブックにもありません。この二種類の本だけを使う難点の一つです)。

しかし、絶望が深くても、それだけで人にやる気を出させることはできません。人は絶望が深かろうとも、そこからの出口がなければ、(つまり希望を持てなければ)、絶望的状況に対して「否認で対抗する」だけです。絶望が深ければ深いほど、より頑固な否認と抵抗に出会うだけです。

だから希望や解決を示す必要があります。解決はステップ2で示されます。深い絶望とそこからの出口が示されたとき、人はほぼ自動的に回復に向かって歩き出します。「おぼれる者が救命具にすがりつこうとする真剣さ」(12&12 p.31)というやつです。そこにステップを経験して回復した先ゆく仲間の姿が「生き証人」として存在していれば、なおのこと良いのです。

つまり、底つきは、事態の全貌について正しい情報を提供され、深く絶望し、そこへ示された希望に向かって歩きだすことで成し遂げられます。

底つきは、仲間からの手が差しのべられた環境で可能になる。

スポンサーの最初の役割は、スポンシーを底つきへと導くことにあります。1960年代後半以降AAは様々な力を失った、とジョーは緑の本で書いています(アメリカでの話)。例えば、AAが介入に関する技能を失ったがために、AA以外のところで専門家が「介入」について語り出したのです。介入やMATRIXなどの専門家たちの技法を、AAメンバーが否定的に捉える必要はありません。そこには学べるものがたくさんあります。しかし、まずAAメンバーとして取り組むべきことは、AAが本来持っていた能力を取り戻すことです。

RDの話になってしまいますが、RDのマニュアルの序文にジョーがこう書いています。

「施設の中には、自分の意思に反して入所させられた人や、自分が依存症だと受け入れられない人たちもいます。そういう人たちにどうやってプログラムを応用すればよいのでしょうか。(略)AAの回復の方法を彼らに提示することが何よりも重要、それが答えでした」(http://rdp2010.exblog.jp/9811894/

ビッグブックのやり方という話をすると、棚卸しや埋め合わせのやり方など先のほうのステップばかりが注目されます。しかしジョーが重視したのはステップ1と2でした。否認が強くやる気がない人たちを放置せず、どうやったら底つきや回復へと導けるか。ジョーが心を砕いたのはそこでした。その姿勢こそ、僕がジョーに心酔する理由です。また、それはAAを始めた人たちにとっての最大の関心事であったはずです。

スポンサーは、ステップ1と2を伝える能力こそ磨くべきです。

家族もまた底をつく必要があります。しかし、家族は本人との関係性の中では底をつくことができません。家族もまた事態の全貌について正しい情報を提供され、深く絶望し無力感を味わい、そこへ示された希望に向かって歩きだすことで底をつく必要があります。そのためには、家族には家族の仲間が必要です。

AAや12ステップ以外に、いろいろなやり方が作られ始まっています。AAのメンバーの中には、そうした自分たち以外のやり方を嫌い、否定的な見方をする人もいるでしょうが、決してそんなことをする必要はありません。また、そこから何かをAAに付け加える必要もありません。それよりも、AAや12ステップが本来持っていた力を取り戻す必要があることに目を向けましょう。

発達障害とAC概念の混同

境界線の問題と発達障害について考えています。

境界線(バウンダリ)というのは、他者と自分の間の境界です。健全な境界線を保つことは、健全な人間関係に必要なことです。これがきちんとしていなければ、対人依存や共依存の問題を抱えることになります。また、他者が自分の心の中に土足に踏み込んできたり、不当な要求をされたときに、ちゃんと「ノー」と言えなければ、自分を犠牲者にすることになります。精神の健康のためにも、健全な境界線を保つことは必要です。

ビッグブックのステップ3のところ(p.89〜)に書かれている「何もかも仕切りたがる役者」の話も、基本的に境界線の問題なのでしょう。回復とは「常に自分の頭の上のハエを追う」作業なのですが、自分の問題から目を背けて、人の問題にクビをつっこみたがる傾向はなかなか拭えません。

境界線というと考えるのは「甘え」の問題です。ここで言う甘えとは「他者に対する不当な要求」です。

例えば僕はAAにつながったばかりの頃、人間関係が荒廃して寂しい状態でした。そんな僕のことを相手にしてくれるAAの「先ゆく仲間」の存在をとてもうれしく思い、毎晩のように電話してウザがられました。相手が迷惑している(自分が不当な要求をしている)ことに気づかなかったのです。健全な境界線を保つ方向に努力すれば、こうした形で人を傷つける(やがて自分も傷つく)ことは避けられます。

では境界線はどうやったら保つことができるのでしょうか?

(おそらく)健全な境界線を保っている人の多くは、「どうやったらそれができるか」なんて言語的に考えずに自動的に行っているのでしょう。つまり「場の空気を読む」というやつです。この場の空気を説明しみろと頼んでも、論理的にうまく説明してもらえるとは限りません。

前述の例で言えば、僕からの電話を相手が迷惑に感じていることが、相手の言葉やトーンから「それとなく」感じられれば、もうあんまり電話しない方が良いなと判断がつきます。

広汎性発達障害やADHDを抱えた人は、「空気を読む」「それとなく察する」ことが苦手です。人の気持ちを想像するという能力に障害を持っています。当人は自分がそれができない自覚を持っていません(空気は読めると思っている)。子どもの頃からの成長の過程で、周囲を観察し、ふさわしい行動を考えて導き出す訓練を積んでおり、それによってなんとか社会に適応しています。(彼らの「人と同じようにできる」の根拠はこれだ)。

しかし、それは「肌で感じる」ような自動的なものと違って気苦労も多いし、どんなに考えることに長けた人でも時に手痛い失敗をします。四輪駆動車が普通の車よりより困難な場所で立ち往生するのと同じで、能力の高い発達障害者ほど、より手痛いミスを犯します。結果として自己評価は下がり、自分はできない人だと落ち込むことになります(いやできないのは確かなのだが、だからとて人として劣っているわけではない)。

電話の例を続ければ、相手が迷惑がっていることに気づかずに電話を続けたとすると、やがて相手はやんわりと電話を断ってくるし、それにも気づかずに電話を続ければ、やがて怒り出します。その時になって初めて気がついたとすると、あんなに親切だった人がなぜ急に手のひらを返したように冷たくなったのか、と裏切られた気分になり、人間不信や自信喪失を味わうことになります。

発達障害の人は、自分の何が悪かったのかもわからないまま大変に傷つき、寂しい思いをし、自己評価を下げています。発達障害の問題を指摘し、納得してもらうことは、その人が子供の頃から持っていた「努力すれば人と同じようにできるはず」という偽りの完全性を突き崩すことになるので、一時的にはその人にマイナスです。しかし、やがてその人の自己評価を持ち上げ、自信を持つ結果へとつながるでしょう。

「場の空気をそれとなく読んで、ふさわしい行動を選択する」ことができないのは、何も発達障害の人に限りません。ふさわしい行動とは「見えないルール」のようなものです。人は育った家庭の中で、このルールを身につけていきます。しかし、原家族内のルールが世間一般と全く違っていたらどうでしょうか。育った家庭の中では通用したルールも、学校へ行き、やがて社会に出るようになると通用しなくなります。

アルコール依存症や薬物依存症の親がいる家庭では、世間とは違った「見えないルール」が適用されています。そこで育った子供たち(AC)が、社会に出たときに、いままでのルールが通用しないことでトラブルを起こ、人を傷つけ、自分も傷つきます。これは、

「ジャングルの中で育った人が、生活に必要なものだからとサバイバルナイフを片手に街角に立っているようなもの」

だと例えられます。ジャングル(原家族)で学んだルールではなく、街角(社会)でのルールを学びなおす必要があります。

こうして見直してみると、空気(見えないルール)が読めない人には二種類いることがわかります。ひとつは、発達障害に起因してもともとその能力を欠いている人。他方は、能力はあるのだけれど間違ったルールを覚え込んでしまったACです。適応障害という観点から見ているだけでは、この二つは区別がつきません。

こう考えてみると、AC概念に対して感じているモヤモヤ感が晴れます。つまり、自分をACだと言っている人の中には、実は原因が原家族(環境因)ではなく、発達障害(素因)による人がたくさん混じっていると考えられます。

クラウディア・ブラックの提唱したAC概念はスッキリしたものでした。ところが日本のAC論を読むとどうしても「霧が晴れない」印象をぬぐい去ることができません。この違いはどこから来たのでしょうか。おそらく、日本においてACの概念を、ACoA(アルコールや薬物依存の親を持つ人)から、ACoD(依存症でなくても機能不全の家庭で育った人)へと拡張された結果、症状が似ている発達障害の人たちがAC概念に飛びつき、問題をややこしくしてしまったのだと思います。

なにせACoAであるためには、親が依存症でなくてはなりません。そうでなければACoAにはなれません。ACoDの場合は、原家族が機能不全であればいいわけです。機能不全であるかどうかは(DVや虐待と同じく)外から観察することが難しく、性被害と同じで当事者の申告を重視せざるを得ません。「自分をACだと思えばACだ」との言葉の通り、発達障害の人がACを自認するにはなんの障害もありませんでした。

依存症の人の中に発達障害を抱えた人がかなりたくさんいます(実は依存症でなくて、発達障害の二次障害で乱用状態になっているだけの人も相当いるでしょう)。同じように、ACを自認する人の中に、実は別の問題=発達障害という人がたくさん混じっている、という印象を強く持っています。

境界線の問題は古くからあるものです(昔から人間は人間関係で悩んできたのですから)。それがACの概念を確立させる中で、ACの特徴の一つとして取り上げられました。境界線の問題についてのセミナーなども開かれています。しかし、本質が発達障害である人が、境界線のセミナーへ行ったり、本を読んでみても、得るものは少ないでしょう。それどころか、かえって傷ついてしまったり、トラブルを拡大する方向に行きかねません。本来のACである人は見えないルールを学び治すことができても、発達障害の人にとっては場所を変えて同じ間違いを繰り返すことになり、自己不全感を拡大するだけに終わるのですから。発達障害には発達障害に合わせた支援が必要です。

もちろん、ACoAの問題と発達障害の両方を抱えた人もいるし、さらに親ばかりでなく自分も依存症になってしまった人もいるので、話はややこしくなるばかりなのです(重ね着症候群という言葉を紹介しておきます)。

依存症、AC、発達障害の入り交じった問題を、きちんと整理しなおす必要があるのでしょう。ACの問題を取り扱おうという人は、ぜひ発達障害のことにも目を向けて欲しいのです。

一緒に食事を

数年前、AAのサービスのある役割を任されていました。同じ役割を任された者同士、東京にほぼ月に1回のペースで集まって会議をやっていました。会議は午前と午後とほぼ一日続くので、途中に昼食を挟みます。この昼食をメンバーで一緒に食べようと言うことになりました。

それは、限られた時間の中でお互いのことを理解するには、一緒にご飯を食べるのが一番良い、という意見があったからです。

「AAそのものは決して組織化されない」とはいうものの、AAのサービス活動に組織はつきものです。サービス組織の意志決定をするのに、各グループの代表が集まる地域集会というのが年に数回開かれます。関東の集会では毎回丸一日費やしています。当然昼食が挟まるのですが、みんなが会場外へ三々五々食べに出ています。

あるメンバーがアメリカの同じような地域集会に出たところ、昼休みにはみんなで一緒に食事をしていたそうです。たくさんの人が集まれる会議室を用意するだけでも面倒なのに、みんなが一緒に食事できる手配をするのはもっと大変です。なぜそんな面倒なことをするのか? 短期間で親しくなって、自由に意見交換できる環境を整えるためだそうです。つまりは会議の成功のため、サービス活動の成功のためです。

東京で僕らの昼食は、お互い意見が違っていて喧喧がくがくでしたが、時間が経った今でも昼食を一緒にしたメンバーには親しみの感覚が保たれています。「同じ釜の飯を食う」ではありませんが、衣食住の一部でもともにした人とは仲間意識や親しみが芽生えるのでしょう。

僕はそれまでAAの仲間と一緒に食事をするタイプではありませんでした。僕がAAにつながった頃は、メンバー同士ミーティング以外では親しくしないのが普通でしたし(これはたぶんAA以外のグループの影響が大きかったのでしょう。ACブームの真っ最中でした)。けれど、それからの僕は、機会さえあればメンバーと一緒に飯を食うことにしています。

特にスポンシーとは努めて一緒に食事をする機会を作ることにしています。なんと言ってもスポンサーシップは特別な間柄だし、個人的なことをたくさん話し合うのですから、信頼関係を築くためにも親しさはあった方がよいでしょう。ミーティングが終わった後にグループのメンバーとアフターに行くのも好きですし、施設の人たちと一緒に屋外でバーベキューをする企画もあって楽しみにしています。

僕の最初のスポンサーとも(これは偶然なのですが)病院メッセージの前に同じ食堂で昼食を食べたことが何度かありました。二人のスポンサーシップがうまくいったのは、その偶然も寄与していたと思っています。

一緒に食事をすることは、スポンサーシップをうまく成立させるための隠れた秘訣だと思っています。

抗酒剤

体内に吸収されたアルコールは、肝臓でアルコール→アセトアルデヒド→酢酸へと分解されていきます。アセトアルデヒドは人体には有毒です。住宅建材に使われたアセトアルデヒドが人体に入れば「シックハウス症候群」になります。また酒を飲む人が喉頭ガンや食道ガンになりやすいのは、アルコールが分解される過程で体内のアセトアルデヒド濃度が上がるからだとされています。

アセトアルデヒドを酢酸に分解するのが「アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)」というタンパク質です。日本人を含むアジア人種(モンゴロイド)には、このALDHの働きが鈍い人がいます。これはALDHを構成する517個のアミノ酸のうち一つが別のものに変わっているからで、遺伝による体質です。

アセトアルデヒドの代謝機能が通常の1/16の人がおよそ人口の半分ぐらい(酒が弱い人)、まったく代謝機能のない人が約5%います(完全なる下戸)。ところが、コーカソイド(白人)、ネグロイド(黒人)には、こういうタイプがまったくいません。おそらく人類がアフリカから全世界に広がっていく過程で、モンゴロイドの一部に生じた遺伝的欠損が伝搬したのでしょう。

下戸の人が酒を飲むと、体内にアセトアルデヒドが溜まります。顔が真っ赤になり、心臓がドキドキし、頭痛がし、血圧が降下します。場合によっては救急車を呼ぶ事態になります。

抗酒剤は、ALDHの働きを人為的に抑えることによって、下戸の状態を作り出すものです。酒を飲んでも気持ちよくならず、具合が悪くなるだけなら「酒を飲むことを思いとどまるだろう」と期待されます。つまり抗酒剤は体に効く薬というより、気持ちに効く薬だと言えます。

抗酒剤の一つシアナミド(商品名シアナマイド)は、日本で作られました。石灰窒素という肥料を作る工場で働いていた人たちに「酒が飲めなくなる」という症状が出ることがわかり、調べたところ石灰窒素に含まれるシアナミドにALDHの働きを抑える効果があることがわかったのです。そんなわけでシアナミドがアルコール依存症の治療補助薬として使われるようになりました。

ただし抗酒剤は使い方の難しい薬です。例えば断酒の意欲のない人に処方すると、平気で飲酒してしまい、救急車の世話になることがあります。これは救急医にとっては大変迷惑な話です。自業自得だし、だいたい反抗的で危険なアル中は救急の現場では嫌われ者です。そこで、抗酒剤を処方した精神科医に激しい苦情が行くことになります。精神科医としてもそれは避けたいので、断酒の意欲が薄そうな患者には処方を避けることになります。

それと、経験した人は分かるとおもうのですが、先に酒を飲んで酔っている状態で、後から抗酒剤を飲んでもあまり効果が出ません(つまり酒が飲める)。それがどういう機序なのかはわかりません。おそらく研究する人もいないのでしょう。

「私に抗酒剤は効かないので処方されていない」と言う人もいますが、その人が飲酒実験をしたときには、たいてい抗酒剤の前に酒を飲んでいます。その日は飲んでなくても、前の日に飲んだアルコールがまだ体内に残っている場合もあります。だから、いったんアルコールを完全に解毒して、肝臓もそこそこ機能を取り戻してから、抗酒剤を服用すれば今度はばっちり効いてくれます。しかし、しらふの状態で改めて抗酒剤を勧めても「私に抗酒剤は効かないから」と抵抗に遭います。こういう人に医者が抗酒剤を出さないのは、体質だからではなく、単に断酒の意欲が薄いのを見抜かれているだけです。

ではあるものの、抗酒剤が効きやすい人、効きにくい人というのがあるのは確かです。

抗酒剤が効きにくい人ってのはどんな体質なのでしょうか。ALDHが関与する前に、まずアルコールをアセトアルデヒドに分解する過程があります。これに関わるのがアルコール脱水素酵素(ADH)です。ADHにはいくつか型があり、ADH1B低活性型というタイプではアルコールの分解速度が遅く、酒を飲んだ翌日まで体内にアルコールが残って非常に息が酒臭くなります(こういう人っているよね)。長時間アルコールが残るために依存症になりやすく、アルコール依存症の3割がこのタイプとなっています(一般の日本人では7%程度しかいない)。

ADH1B低活性型の場合、アルコールの代謝速度が通常の1/40ととても低く、酒を飲んでも体内のアセトアルデヒドが増えてきません。だから抗酒剤も効きにくくなると考えられます。したがって、この場合には抗酒剤の分量を増やす必要があります。病院によっては退院前に「飲酒テスト」を行って、どれぐらいの服用量が適正なのか決めていますが、手間がかかるので通院治療ではほとんど行われていません。

上にも書きましたが、抗酒剤は体に効くというより、断酒意欲を支える心理的効果を狙ったものです。だから「私に抗酒剤は効かない」と言っている人を見ると、確かにそりゃそうだと思ってしまいます。体に効く効かないの問題ではなく、心に効いていないのは明らかですから。

抗酒剤を処方されるということは、医者にそこそこ信頼されているという証(あかし)です。
プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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