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ダイエット文化と摂食障害

この雑記の下に掲載しているニュース検索に引っかかった記事に、こんな記述がありました。

「若い女性がマスメディアの影響で痩せた体型を過剰に理想視するようになることが,拒食症などの摂食障害につながると言われる」

拒食や食べ吐きが起こる背景には、痩せた体型を理想とする文化があることは間違いがありません。しかし、摂食障害の原因をダイエット文化に求めてしまうと、解決策が見えなくなってしまいます。

先日の大河原先生の講演でも、「摂食障害はダイエットから始まるわけじゃない。今の自分が嫌いだからなる」と強調されていました。ダイエットには目標があるが、今の自分が嫌いなのには底がない、とも。

体重のコントロールは、今の自分が嫌いという状況を解消するための手段にすぎないのでしょう。人間のやることはしばしば「手段の目的化」を呼びますが、それはアルコールも拒食も似ています。

時にアル中は嫌いな状況から逃げようと遁走を試みます。しかし、世界中どこに逃げようと、自分だけは連れて行かねばなりません。その自分自身が世界で一番嫌いな相手だったりします。

解決には自分を好きになるしかないのでしょうが、「好きになれ」と言われてなれるものでもありません。そのための行動、努力が必要なのでしょう。回復という点では、アルコールだ摂食障害だと区別する必要はないように思います。

「自分がかわいい」「自分大好き人間」というのは、今の日本語としてあまり好まれない言葉かも知れませんが、それも大事な価値観でありましょう。
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尊敬する人

日本AAのA類常任理事をしてくださっていた大河原先生の講演を聴く機会に恵まれました。
講演のテーマは摂食障害についてでしたが、先生はアルコール依存症の治療歴が長いので、話はしばしばアルコールとの対比となっていました。

摂食障害が「依存症」なのかどうか? (食べ吐きは食べ物依存症なのか?)

摂食障害は依存症と同じだという先生もいれば、違うという先生もいます。両方の主張に接する人は、違う患者層に接しているので違う結論に達しているだけだ、と言います。

大河原先生は「摂食障害は依存症とは違う」という意見の先生です。違う病気なのだが、その回復の過程はよく似ているとおっしゃっていました。つまりアルコール依存に有効なノウハウは、摂食障害に対しても有効であると。

一時間以上の講演内容をこの雑記に記すことはできませんが、一つここで書いておこうと思うことは

「回復には尊敬する人を持つことが大切だ」

とおっしゃっていたことです。人間誰しも愛されたいという欲求を持っています。しかし「愛される」ことは相手次第なので、自分でコントロールできません。しかし、尊敬すること、愛することは、自分次第です。自分が主体となることが大切です。

僕の知る限り、AAプログラムがうまく機能している人は、AAの中に「尊敬できる誰か」を持っている人です。誰かを尊敬するということは、相手の持っている何かが自分より優れていると認めることでもあります。自分が一番でないと気が済まない人は、誰も尊敬することができません。なぜなら相手の優位性を認めることができないからです。こういう人たちは「なぜオレを尊敬しないのだ」と怒っているのです。

僕もAAの中に尊敬する人たちがいます。(だからといって相手に恭しく接しているわけでもありませんが)。その中には僕よりソーバーの短い相手もいます。年数に関係なく、その人がAA的価値観を僕より優れて実現していると思うからこそリスペクトの対象としているのです。

ふたたび心の理論

発達障害の話。

「注意欠陥・多動性障害」とうのはその頭文字の「ADHD」という略語が使われる場合がほとんどです。ただ、「えーでぃーえっちでぃー」というのは略語として音節があまり減っていませんね(TNP27と同じ)。

発達障害の話題を取り扱ったブログなどを読むと、アスペルガーに「AS」という略語をあてている場合があります。これは Asperger の先頭二文字だとずっと信じていたのですが、実は「自閉症スペクトラム(autism spectrum)」の頭文字のようです。

ASについて気がついたことがあります。
これは本に書いてあったとか、だれぞ先生の講演で聞いた話と違って、僕が観察と帰納的推理によって導き出したものなので、ほとんど自分用メモのレベルです。

ASの人は

・人の気持ちが分からない
・空気が読めない
・話の流れが分からない

という特徴があります。これはAS関係の本を読めば書いてあることです。

けれど、ご当人は、自分にそんな特徴があるとはまったく思っていないものです。つまり、ご当人は「自分は人の気持ちが分かる」「空気も読める」「話の流れも分かる」と思っているということです。できないことの自覚がありません。

「心の理論」については以前書きました。
(参考リンク:http://www005.upp.so-net.ne.jp/ma2ma3/kokoro.html

前回の雑記で、最も基礎的な Perspective Taking の能力を身につけるのは3〜6才となっていました。
Perspective Taking というのは「他の人が何を考え、感じているかを想像する能力」です。

心の理論の課題を再掲します。
子供(A君)にチョコレートの箱を見せます。「何が入っていると思う?」と質問すると、答えは当然チョコレートです。箱を開けて見せ、中身が実は鉛筆であることを示します。箱を閉じたところへ、B君が部屋に入ってきます。そこでA君に再度尋ねます。「B君にこの箱を見せて、中に何が入っているか聞いたら、なんて答えると思う?」

正解はチョコレートです。B君は中身が鉛筆であることを知りません。箱だけ見て「チョコレート」と答えるでしょう。

3才の子供にこれを試すと、ほとんどが「鉛筆」と答えます。Perspective Taking の能力がまだ発達していないので、B君の気持ちが想像できないのです。4才、5才になるとほとんどが正解します。ダウン症の知的に遅れのある子供でも、この課題の通過はあまり遅れません。しかし自閉症児の場合には10才ほどにならないと、この課題が通過できません。

アスペルガー症候群の場合には、心の理論の課題通過はこれほどの遅れがないようですが、質的な違いが指摘されています。それはつまり、心の理論の課題通過は、心の理論の獲得を意味しないということです。以前掲示板でブログを紹介した狸穴猫さんは、彼女が定型発達者とのコミュニケーション手法を、外国語講座のシチュエーション場面を丸暗記するように憶えていったのだそうです。

ASの人はパターン学習のような丸暗記が得意だということを踏まえると、「答えはチョコレート」と記憶することで先ほどの課題を通過できます。

つまり自閉症に限らず(アスペルガー、PDDNOSの別を問わず)AS全般に「人の気持ちが分かる」能力がそれほど発達することはなく、その代わりにパターン学習・観察・記憶しているパターンへ当てはめという戦略によって「人の気持ちを推理している」のではないと思うのです。

アスペルガーの人が心の理論の課題に取り組むとき、定型発達者とは脳の別の部位が活発になっていることが確かめられています。

だとするならば、ASの人の「人の気持ちを分かろうとする」努力は、知的作業である(のかもしれません)。

定型発達者にとって見れば、「人の気持ちを読む」ことは必ずしも知的作業ではありません。「空気が読める・読めない」ということが挙げられていますが、この場合の空気(雰囲気)とは圧力のようなものです。例えば、会議で延々一つのテーマについて話し合って、もうみんながウンザリしてきている時。そろそろ結論を出したい(それが最善の結論でなくても)。もはや新しい視点や意見など歓迎しない。そこで「もう何を言っても無駄だし、言わない方が良い」と感じるためには、何も知的な作業は要りません。相手の顔の表情や声のトーンが雄弁に物語っているからです。この時、雰囲気とはまさに「圧力」です。

これをASの人は知的作業、つまり考えることによって推理しているのではないか。それは幼い頃から獲得された能力なので、半ば無意識に行われており、推理しているとは本人も自覚していないのかもしれません。そしてその能力を「これが人の心の読み方だ」と思っているのではないか、というのが僕の考えです。

それが知的作業であるならば、知能の高低と関係あるはずです。
社会性の障害が重くないアスペルガーやPDDNOSの人で、知的に高く、社会適応に意欲的な人であれば、この代替能力を磨いて自覚なく社会にとけ込んでいることは十分考えられます。しかし、それは本当の Perspective Taking とは違う作業なので、より濃い人付き合いを求めるほどに「疲れ」を招きます。また、なまじ能力が高いだけに、より深刻なシチュエーションで過ちを犯します。

(四輪駆動車は普通の車より困難な場所で立ち往生する)。

その結果、人間不信に陥ったり、意欲を失いうつになったり、激しく傷ついたりしているのではないか。

ASの人たちは寂しさを抱えた人たちです。寂しいからこそ人との触れあいを求めるものの、人付き合いは(知的作業を伴うので)疲れるし、時に理解できない人間関係のトラブルに巻き込まれてうんざりし、やっぱり一人がいいと思うものの、一人は寂しい(最初に戻る)。

ASの人たちは自分に能力がないことにまるで自覚がない・・それが悲劇の原因の一つではないかと思うようになりました。

類似例を挙げます。アルコール依存症の人は、酒を正常に飲む能力を失った人たちです。しかし、教えられるまでは、もう正常に飲めないという自覚がありません(僕もそうでした)。能力がないのに、正常に飲もうと要らぬ努力を重ねているうちは、悲劇が増えるばかりです。「君にはその能力はないよ」と教えられたとき、酒をやめる方への努力が始められ、解決へと向かいます。

ASの人が「あなたのその能力は普通の人とは違うし、限界もある」と指摘されればショックかも知れません。しかし、それによって悲劇を防ぐこともできるし、代替能力をさらに育てる方向へと向かえる。そう考えます。

セルマンの関係把握の5段階

ロバート・セルマン(Robert Selman)の Five Stages of Perspective Taking というのを取り上げます。

Perspective Taking というのは「他の人が何を考え、感じているかを想像する能力」であり、自己発達、他者の理解や社会スキルを促すものだそうです。

まずはこれの翻訳を
http://everything2.com/title/Selman%2527s+Five+Stages+of+Perspective+Taking

とても小さい子供は、自分以外の人が自分とは違った経験や感情を持つことを理解していません。けれど Perspective Taking (関係把握)の能力は成長とともに発達し、成人になると洗練されたものとなります。精神分析医のロバート・セルマンは、この関係把握の能力の獲得を5段階に分けて記述しました。

こんな状況を考えてみてください。

ホリー(Holly)は木登りが大好きな8歳の女の子です。彼女は近所では一番木登りが上手です。ある日彼女が木に登っていると、一番下の枝から落ちてしまいましたが、ケガはしませんでした。しかし彼女が落ちるところを見ていた父親はびっくりしてしまい、彼女に「もう二度と木に登らないように約束しなさい」と言い、ホリーは約束しました。

別の日、ホリーは友だちのシーン(Sean)と遊んでいると、シーンの子猫が木に登って降りられなくなってしまいました。いますぐ何とかしないと子猫が木から落ちてしまいます。子猫のいる高さまで登れて、子猫を降ろせるのはホリーだけです。でもホリーは父親との約束も憶えています。

子供たちにこの状況を提示して、「ホリーが木に登ったら叱られると思うか?」「お父さんはホリーが木に登ったことを許してくれると思うか?」「ホリーがなぜ迷っているかシーンにわかるか?」と質問してみると、子供たちの年齢によって答えが違ってきます。

0) Undifferentiated perspective-taking (3〜6才)
自分と他人が異なる考え、感情を持っているということを理解するがしばしば混同する。

この年齢の子供たちは、ホリーは子猫にケガをしてほしくないので、彼女は子猫を助けると予測します。そして父親も木登りについて、ホリーと同じように感じてくれると信じます。「だって、お父さんも子猫が大好きだもの」

1) Social-informational perspective-taking (5〜9才)
人々は異なった情報を得ているために、異なった視点が生じるということに気づく。

この年齢の子供たちに「ホリーのお父さんは、ホリーが木登りしているところを見たらどうするでしょう?」と尋ねると、こう答えます。「もし子猫のことを知らなかったら、お父さんは怒るでしょう。でも、ホリーが子猫をお父さんに見せたら、気を変えてくれるわ」

2) Self-reflective perspective-taking (7〜12才)
他の人の立場に立ってみたり、自分の考えや感情や行動を他人の視点から見ることができるようになる。また他の人も同じことができることを理解する。

この年齢の子供たちに「ホリーは自分がお父さんに叱られると思っているか?」と尋ねると、「いいえ(ホリーは自分が叱られるとは思わない)。だって、木に登った理由をお父さんは分かってくれるもの」と答えるでしょう。お父さんにはホリーの立場に立って考える能力があるので、なぜ子猫を助けようとしたか分かり、そのことがホリーの視点に影響を与えるだろう、という前提がこの答えに含まれています。

3) Third-party perspective-taking (10〜15才)
2者の状況から離れ自分の考えや感情が公平な第三者の視点からどう見られているかを想像できるようになる。

この年齢の子供たちに「ホリーは叱られるか?」と尋ねると、こう答えます。「叱られない。ホリーにとっては子猫を助けることが大事。でも、お父さんが木に登ってはいけないと言ったことも憶えている。だから、お父さんに木に登った理由を説明できれば叱られないだろう、って考えるはず」 この答えは、眼前の状況から離れ、ホリーと父親両方の視点を同時に捉えています。

4) Societal perspective-taking (14才〜成人)
Third-party perspective-taking を理解している人は、より大きな社会の価値感に影響されるということに気づく

ホリーが叱られるか尋ねると、「叱られない。動物愛護の精神からすればホリーの行動は正当だ。父親がその価値観を認めていれば、叱るという考えは捨てるだろう」という答えになるでしょう。

(翻訳お終い)

0) 自分と他の人が違う感情を持っていることが分かる(3〜6才)
 ↓
1) 違う視点を持つ人は違う感情を持つことが分かる(5〜9才)
 ↓

2) 他の人の立場に立って見ることや、人から自分がどう見られるか想像できる(7〜12才)
 ↓
3) 自分と相手の立場を離れ、第三者からどう見えるか想像できる(10〜15才)
 ↓
4) より大きな社会の価値観に影響を受けることが理解できる(14才〜成人)

ASの人はこの Perspective Taking の能力が弱いわけです。

(話はもちろん続きます)

ブログを読む

「誰それのブログを読んでますか?」というお尋ねをいただくことがあります。それに関して雑記を書いておこうと思います。

僕は人のブログをそこそこたくさん読んでいる方だと思います。

ただ、たくさんのブログをいちいち訪問するのは手間がかかります。なので、RSSリーダーというのを使っています。ブログという仕組みでは、新しく記事を書くとRSSが発行されるようになっています。ブログのアドレスをRSSリーダーに登録しておくと、それぞれのブログをチェックして更新情報を集めてきてくれます。これを使うと、いちいち各ブログを訪問しなくても、追加された記事だけを読むことができて手間が省けます。

僕のRSSリーダーには130ぐらいブログが登録されています(それでも多い方ではない)。当然このすべてが毎日更新されるわけではありません。せいぜい30か40ぐらいです。新着記事をざっと斜め読みして、面白そうな話だけ読むことにすれば、それほど時間は要しません。

ブログの設定によっては、記事の先頭100文字ぐらいしか配信されてこないブログもあります。その場合には記事のタイトルとその100文字だけで、わざわざそのブログを訪問するかどうか決めなくてはなりません。(なので、なるべく全文を配信する設定してもらえるとありがたいのです)。たいていは面倒なのでスルーですけど。

RSSリーダーを使うと相手のブログを訪問しないので、ブログにアクセスカウンターが設置してあっても増えません。これはブログを書いている人にとっては嬉しくないかも知れません。

もうひとつ、ブログの記事についたコメントはRSSには配信されてきません。ブログの記事に着いたコメントはまったく読めないことになります。コメント欄でどんなに盛り上がっていても、僕にはまったく伝わらないままなのですが、それについては諦めざるを得ません。これが僕が人のブログにほとんどコメントを書かない理由でもあります(たまには書くけど)。

例外は昨年亡くなったかんたさんのブログです。あれはコメント欄を読まないと全然面白くありませんでした。

アクセスカウンターも増やさず、コメントも読まず・・これはずいぶん失礼ではないかと憤る人もいるかもしれませんが、ブログとはそういう仕組みのものなのです。

RSSを配信しない掲示板や日記などは「はてなアンテナ」を使っています。こちらも登録は100件ほどか。

ちなみに、この「日々雑記」はRSSの配信をしていません。ブログが流行る前からの古いシステムを使っているからです。そのうち何とかすると言いながら、いまだに何ともなっていません。

僕が誰かとオフライン(リアル)でお会いしたときに「ブログいつも拝見しています」というのは、お世辞ではなく、実際にブログを更新があるたびに拝見しているのです(本文だけだけど)。

たまにはITネタ(?)を書いてみました。RSSリーダーは使いこなすと便利なので、忙しい方にはお勧めです。

暗記の大切さ

ラジオ番組で老いた教育学者が「暗記の大切さ」を説いていました。

最近の教育では暗記が軽視される傾向があります。
昔は論語を暗記するなどという教育が普通に行われていました。
僕の世代でさえ、漢文の暗唱という宿題が出ました。授業でちゃんと暗唱できなければ、放課後に国語教師の部屋の前に生徒たちが列を作って、「さいじょうがちかきのひとに・・・」とやったものです。

僕はスポンシーに「毎日ビッグブックを毎日一章読むように」と言います。
どの章でもひとつ読むには20分ぐらいの時間は必要でしょう。面倒がってやらない人もいますが、まあそこはそれ。なぜそんなことをするかと言えば、中身を覚えてもらうためです。さすがに漢文と違って、丸暗記して暗唱しろとは言いません。けれど、毎日読んでいれば、部分部分、断片的にでも記憶していきます。それが大事です。

なぜ教育で暗記の重要度が下がったのか。それは覚える力ことよりも「考える力」が重視されたからです。しかし、考える力とは何でしょうか。老教育学者の話に戻ります。

私たちは自分の知識や経験の断片を組み合わせて思考します。頭の中に、理解やアイデアやコンセプトが生まれるのは、断片の新しい組み合わせ方を発見するからです。断片を増やさなければ、考えても考えてもいままでと同じ組み合わせしか出てきません。つまり今までの自分以上の良い考えは身に付きません(古い考えの支配を受け続けるしかない)。

ビッグブックを読んでもらうのは、考えるために必要な新しい断片を加えるためです。

もちろんミーティングにも通うように言います。ミーティングからもたくさんの断片がもらえます。けれど、生活しながら通えるミーティング、そこで話を聞ける人の数には制限があります。おまけにその断片は役に立つものとは限りません。

ビッグブックを読むこととミーティング通いを続けると、そのうちビッグブックから得た断片と、ミーティングから得た断片がつながるようになります。「ああ、この人のこの話は、ビッグブックのこの段落が言っていることにあてはまるな」と気づけるようになります。そうした気づきが積み重なると、断片と断片のつながりがネットワークを形成し「理解」を形成します。つまり、これによってようやく「考える力」がつくのです。

その頃にはステップの実践も進んでいくので、ステップについて「本に書いてあること」「自分の実体験」「他者の体験談」が重なりあうようになっています。こうして健康な判断力が戻ってきた人に対して、もうあれこれ言う必要はありません。

1月16日の雑記で、
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20110116
日本のAAでは12ステップのやり方として大きく分けて二つのやり方が存在している、と書きました。
先日紹介した「つくし野&♭代々木」のステップセミナーは、もっぱらビッグブックのやり方の話でした(よね)。

今月末の東京ステップセミナーでは、両方のやり方の話し手が用意されている、と教えて頂きましたのでご案内しておきます。
東京ステップセミナーについては「AA関東甲信越かわらばん」をご覧下さい。
http://www.h2.dion.ne.jp/~aa-kkse/kawaraban.htm

発達障害は増えたのか?

近年なぜ発達障害の問題が目立つようになってきたのか。
発達障害そのものが増えているという説もあります。その原因には、環境汚染や食品添加物、タバコ、女性の社会進出による乳幼児期の母子のふれあいの減少などなど、様々な理由が挙げられていますが、本当のところは確かめようがないのでしょう。

僕としては、社会構造の変化によって、障害の存在が目立つようになってきたという考え方を支持します。

僕の親の世代、田舎では農業や林業に従事する人が多数でした。自然相手では瞬時の判断を求められることはあまりなく、季節のゆっくりとした変化についていけば十分です。また一年の中で変化を持ちながらも、毎年ひたすら同じことの繰り返しでもあります。ということは、発達障害を抱えた人にも馴染みやすい仕事ということです。また、人付き合いが苦手でもやっていける仕事でもあります。

こうした農林水産業の包容力?によって、発達障害の要素を抱えた人でも、単に「気むずかしい人」とか「変わった人」と言われるだけで、地域共同体の中に普通に存在できたのでしょう。しかし、20世紀後半は、一次産業が衰退し、従事者が減っていった時代でした。

変わって隆盛したのが二次産業つまり工業です。日本は様々な工業製品を作って世界に売りまくり、GDPを一時期世界二位までに押し上げました。自動化が進む前の製造現場は、ひたすら同じ作業を繰り返す作業工の人たちの存在で成り立っていました。日本の製品の質の高さは、単純な仕事を真面目にこなす人たちの仕事で裏付けられていたのです。こうした仕事も、発達障害を抱えた人にもそれなりに馴染みやすく、臨機応変な対応や人付き合いが苦手でもかまわない分野でした。

1985年のプラザ合意によって急激に円高が進みました(1ドル260円→120円)。これによって日本の経済はさらに発展したものの、相対的に日本の工業製品が高価なものとなり、国際競争力を失いました。製造コストを下げるために人件費の抑制が目指され、ロボットなどによる作業工程の自動化が進みました。自動化されなかった仕事は工賃が安価な海外の工場に流失していきました。こうして単純作業工の人たちは仕事を失うか、派遣労働者として経済的に不安定な立場を強いられることになったのです。

この60年ほどの間に、第三次産業(サービス業)の従事者は3割強→7割弱と倍以上に増えました。第一次産業(農林水産業)、第二次産業(鉱工業)で仕事を失った人たちが、第三次産業に流れ込んで行かざるを得なかった結果です。

三次産業は人に接することが多い職業が多く、相手の気持ちを機敏に察したり、良い雰囲気を作ったり、臨機応変な対応を求められる機会が多くなっています。ファーストフード店やコンビニのアルバイトにさえ、極めて高い作業基準が求められているわりには、時給は最低賃金プラスα程度なのです。

さらにバブル景気崩壊以降、企業が生き残りのために効率化を求めた結果、職場からゆとりが失われていきました。(30年前、40年前であれば、職場で私語を楽しむ余裕が十分にあり、それが職場結婚を後押ししていた面もあったわけです)。

いまの日本である程度の生活水準を守ろうと思えば、いまの仕事を失わないために会社の要求する水準を満たそうと苦闘して「うつ」になってしまったり、いったん仕事を失ってしまえば再就職が困難な立場に追い込まれてしまいます。もちろん、定型発達の人にもそうしたことは起こりうるわけですが、発達障害という隠れたハンディキャップを抱えた人たちは、なおいっそうなのです。

以前の日本には、そうした人たちが無事に暮らしていける「ゆとり」がありました。そのゆとりが失われた結果、社会からはじき出された(あるいははじき出されそうになっている)人たちが増え、その人たちの抱える問題が何かと考えていった結果、発達障害が顕在化してきたのだと思います。

思い出して頂きたいのは、発達障害とは障害そのものを示す概念ではなく、それが社会適応の妨げとなったときに初めて「障害」と呼べるものです。元来この人たちは社会的弱者ではありませんでした。それが、社会構造の変化によって立場を変えられてしまった人たちです。

だから、発達障害というのは個人の問題ではなく、社会の問題です。障害が障害として目立たないようなゆとりある社会に変えていくのか、それともあくまで効率化を目指して行くにしても、そこからはみ出してしまった人たちを支援するコストを社会全体で負担していくように変えていかなければならないでしょう。

アディクションの世界も社会構造の変化と無縁ではいられません。依存症に発達障害を抱えた人が多い現状には、そうした背景があるものと思われます。

第三ステップの祈りについての質問の答え

メールで質問を頂きました。通常はメールでの質問にはメールでお答えしているのですが、返信を出した後も、何度か同じ内容のメールを頂いているところを見ると、こちらからのメールが届いていないのかもしれません。
なので、雑記で返事を書かせて頂くことにします。
そうすると、頂いたメールの一部を公開せざるを得ません。
本来、私信の中身を相手の同意なく公開してはいけない、というのが社会常識でしょうが、メールが届かないという事情だけにお許し頂きたい。

質問の中身は、ビッグブックの91ページに「私の困難をどうか取り除いてください」と書かれているが、「私の願いを叶えてください」と祈ってはいけないとも教えられてきた。これはどういうことか、というものです。

91ページの第三ステップの祈りには、確かに「私の困難をどうか取り除いてください」という言葉があります。これは自分の利益をお願いしていることにならないか、というわけですね。

そこだけ取り出すと自分の利益を願っているように読めてしまいます。しかし元の英語の文章は、
「私の困難をどうか取り除いてください。その結果として、私の勝利が、あなたの力、あなたの愛、あなたにもらった生き方の証しとなりますように」
がひとつの文になっています。

私の困難が取り除かれるのは、困難に対する「私の勝利」です。
神さまの力、神さまの愛、神さまにもらった生き方があるからこそ、「私の勝利」があるわけで、つまりその勝利は神さまの力の証明となります。

祈る目的が、自分の勝利ではなく、神さまの愛が証明されるように・・・。
だから、これは自分のために祈っているわけではないのだと思います。

ステップのやり方

> ビッグブックのステップと12&12のステップは どこが違うんでしょうか?

僕は12ステップはビッグブックに書かれたやり方に従うのが良いと考えています。同じように考えている人は少しずつ増えています。ただし、間違えないでいただきたいのは、その人たちが全員まったく同じやり方をしているわけではありません。ビッグブックに基盤を置きながらも、その解釈にはある程度バリエーションがあります。

例えば僕はジョー・マキューという人の解釈を重視しているのですが、別の考え方をしている人もいます。そうしたバリエーションを一括して「ビッグブックのやり方」とか「ビッグブックのステップ」と呼ぶことも可能です。

一方、「12&12のステップ」については、それが何を指し示すのが、僕にはハッキリとわかっていません。人に聞いたところでは、「12&12のステップ」とはビッグブックのやり方が日本に登場する前に、日本国内のAAで大勢を占めていたステップのやり方を示すようです。現在でもそのやり方でステップをやっている人は沢山いると思います。

そのやり方は「ステップ1・2・3の繰り返し」という言葉だとか、今までの人生を振り返ってノートなどにそれを書き記す棚卸しのやり方に特徴づけられると思います。ステップ4は「表を作る」となっていますが、このやり方では表を作らず、自由記述式なのも特徴でしょう。

ステップ5では、スポンシーは書いたことを見ながら、過去を振り返る話をします。スポンサーは主に聞き役です。ただ聞くだけというスポンサーから、積極的にいろいろアドバイスをする人までいろいろです。(これはスポンサーとスポンシーが一緒に表の中身を検討するビッグブックのやり方と対照的です)。

ただし、こうしたやり方を「12&12のステップ」と呼ぶのは不適切だと思います。なぜなら、12&12つまり『12のステップと12の伝統』に、具体的にこのやり方をしなさいと書かれているわけではないからです。それを「12&12のステップ」と呼ぶのは誤解の元でしょう。

だから僕はとりあえずそれを「古くからのやり方」などと呼んでいます。ではこのやり方はどこから来たのか? それについては、アメリカ帰りのAAメンバーに、あちらでも人生をストーリー形式で振り返る棚卸しのやり方が存在すると聞きました。

AAはアメリカから日本に伝搬したものですから、AAと一緒にストーリー形式の棚卸しのやり方も伝わって、それが日本で広がったのだと考えられます。

こんなふうに、日本のAAの12ステップのやり方には、AAと一緒に伝わってきて日本で独自の発展を遂げたやり方と、遅れて日本に伝わったビッグブックのやり方、大きく分けてこの2種類があると考えて良いでしょう。

どちらのやり方であれ、すでに回復を得た人にとっては自分のやったやり方をもっとも好ましく思うものなのでしょう。

こだわりんぐ

月刊「実践障害児教育」の1月号の特集が発達障害による不登校の特集で、その先頭の齋藤万比古の記事から抜粋です。

>>>>
「PDDと不登校」
 PDDの子どもにとって、興味の中心は自己のこだわりの対象にあるという共通点があり、むしろ他者によりそれを妨害されることのほうが、孤立よりもつらいという面がある。思春期に至って他者の独白の心を認知できるようになり、仲間を求めるようになっても、一方でPDDの子どもは前述のような心性を色濃く維持している。
 加えて、思春期の仲間関係の盛り上がりは、PDDの子どもに対するからかいや攻撃をエスカレートさせる。そしてその仲間の攻撃に刺激されて幼い時代からの被虐待的体験やいじめられ体験の記憶が生々しくフラッシュバックし、恐れ、怒り、困惑といった感情が渦巻く混乱状態をPDDの子どもは生じやすいという事情がある。
 これらはPDDの子どもから学校にとどまる動機を奪い、他者に妨害されないひきこもり的な生活へと傾斜させる。
 以上の二点から、PDDはひきこもり状態に親和性が高く、そこから抜け出すことに動機をもちにくい傾向があると言えよう。
<<<<

PDDとは広汎性発達障害のことですが、この文章ではアスペルガーとか自閉症スペクトラムと読み替えても大丈夫です。また、これは子供についての文章ですが、「学校」を職場とかAAやGAと読み替えれば、そのまま大人に適用できます。

このこだわり(固着)の強さが障害の重さでもあります。どんなこだわりを持つかは人それぞれで、例えばネットの掲示板に書くことにこだわりがあったり、ブログのエントリの結びの言葉がいつも完全同一であったり・・・。

AAのバースディ・ミーティングだと、歌を唄ったりろうそくを吹き消したりするので、いつもと違ったミーティングの進行になるのですが、この「いつもと違う」ことに対して憤りを持つ人の姿を見ると、「ああ、なるほど」と思うわけです。(これはミーティングのやり方に対するこだわり)。

もちろん誰にだって多少のこだわりはあるわけで、こだわりそのものが悪というわけではありません。そのこだわりが本人の生き辛さとか、社会適応の障害になっているかどうか、という視点から見ないとならないのでしょう。
プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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