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薬物療法への偏りの原因

掲示板に「日本の精神医療が薬物療法に偏っているのは、薬物療法が安価だから」と書いたところ、精神科医の方からメールをいただきました。以下その内容をご紹介します(許可をいただいています)。

・・・

薬物療法に偏るのは、二つの原因があり、一つは「診療報酬上の問題」、もう一つ「薬物療法に偏った精神科医の教育の問題」です。このうち前者の影響が最も大きい。

保険証を持って医療機関を受診すれば、本人の窓口での負担が(たいてい)3割。残りの7割は保険者に請求され、審査の上で翌月か翌々月に支払われます。医療機関は収入のほぼすべてをこの診療報酬によっています。ただし、保険診療である限り、診療報酬は細目ごとにすべて価格が決まっており、日本全国どこでも同じになります。この診療報酬が、医療費削減の名のもとにどんどん削られ、かつてない低額になっています。

再来の場合、再診料が70点。通院精神療法が330点。処方料(処方をしたことに対する診療報酬)が42点。保険点数1点が10円で、合計4,420円。

院内処方の場合、これに薬価が入り、その額は人によって違います。
現在、薬代は仕入れ値と売値(請求額)が、ほぼ同額になっており、薬を出しても医療機関の利益にはつながりません。昔は仕入れ値が売値の6割だか7割だったことがあり、薬を出せば出しただけ、医療機関が儲かった時代がありました。薬漬けとか言われていたころです。(しかし、この方が医師になられた頃には、すでにそうした時代は過ぎ去っていたそうです)。

そういう訳で、薬は儲けにならず、患者さんひとりの外来での再診で、再診料+通院精神療法+処方料のざっくり4,400円の収入が医療機関に入ります。(検査などはまた別。また、初診の場合はもっと診療報酬単価は高い)。

・・・

ここまでがメール前半の要約です。
調べてみると、現在の薬の納入価格(医療機関にとっての仕入れ値)は、新薬で薬価基準の88%〜90%、ジェネリックで80%〜85%とあります(ソースはWikipedia)。これに消費税5%が上乗せされ(診療報酬側には消費税総額はなし)、在庫管理の費用が加われば、「薬価差益」で儲けるどころか、薬を出せば出すほど赤字になりかねません。

メールの後半では、よく言われる「3分診療」ではなく、一人30分を費やすクリニックを想定して、どんな収支になるか見積もっています。

これはクリニックを寿司屋に例え、客の好みも聞かずに大量の寿司を並べて押しつけるのではなく、「おれは客とじっくり対話して、本当に美味しいものを出す。客と寿司屋のコミュニケーションに最大限の時間を割く。精神分析療法と動機付け面接法と認知行動療法を取り入れた寿司屋にする」という情熱に燃えた若き寿司職人(医師)の行く末を書いた力作なのですが、申し訳ないけれどざっくり省略させて頂きます。

一人30分を費やすと、平日9時〜5時土曜は半ドンで営業したとしても、一月の診療報酬がざっと140万円にしかなりません。これで医師・看護師・医療事務・心理療法士の給料を払い、家賃や光熱費その他の経費が払える・・・わけがありません。

僕はIT技術者として働いていますが、自分の給料の3倍の粗利を上げてくれと言われています。自分の給料の他に、家賃や光熱費、営業費用、会社の借金の金利、非生産部門や管理部門の給与などなどをまかなうにはそれぐらい必要です。スタッフ4人のクリニックの収入が月140万円でやっていけるわけがありません。

では、カウンセリングの費用はどうなっているのか?
これはメールをそのまま引かせてもらいます。

・・・・

このように診療報酬が激安なため、医療機関は利幅が非常に薄いです。
臨床心理士のカウンセリングは、診療報酬が算定できません。「ただ」です。
心理検査には診療報酬が制定されているので、カウンセリングと同時に心理検査をちょこっとやって、何とか検査代だけは収入を得る、なんてことをやっている施設もあります。
また、家族面談、電話相談なども、もちろん診療報酬を請求できません。
ただです。
「本人とは別に会社の上司や家族がばらばらに来て、それぞれに病状説明」なんてのも、一円も収入になりません。

トイレのトラブル8千円、水道トラブル5千円。
心のトラブルは4,400円です。
クリニック経営で大もうけどころか、下手すると従業員のボーナスも払えない。まともに利益が出ないと雇用が維持できない。(一部略)

そういうわけで、日本の医療は診療報酬単価が安過ぎて、ひとりひとりに長時間の診療を行う余裕がない、というのが実情です。

・・・・

診療報酬が安すぎて、医療機関を成り立たせるために、一人当たりの診療時間を短くするしかない現状が見えてきます。また薬物療法以外を選択をしようにも、それに対する支払いの裏付けがありません。唯一利益につながる薬物療法以外に選択肢がなくなっているわけです。

掲示板で紹介した厚生労働省の「過量服薬への取り組み」には、「診療時間を十分に確保するために必要な支援を検討」するとありますが、現実の施策には結びついていません。

メールを送って頂いた方にお礼申し上げます。
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自助グループとは?

竹内達夫先生のお名前は存じていたものの、直接知己を得る機会はいままでありませんでした。
ところが昨年11月にIさんの結婚記念のパーティでお目にかかって以来、書簡のやりとりなどあって先生の考えに触れる機会が増えました。先日の秋本病院での研修会でもお話しをうかがうことができました。

竹内先生は医師にして依存症の当事者でもあります。全断連の顧問をされているので、断酒会の応援団の先生だとばっかり思っていたのですが、十年ほど前に保健所所長を定年退職されて以来、様々な領域で活動されているそうです。断酒会に限らず自助グループ文化全般に造詣の深い先生です。

先生のお話によれば、自助グループについては、国際的な定義は定まっていないものの、コンセンサスは得られつつあるそうです。

自助グループの4要件

・直接対面
・直接交流
・相互支援
・小規模

これからすると、直接対面することのないネット上の活動は自助グループとは呼べなくなります。(それから、メンバー同士の直接交流をいましめる某グループもだめなのかな)。
小規模という定義からすると、回復研では、何百人と人を集めて体験発表を聞く集会をやってますが、この集会だけしかやってなかったら自助グループとは呼べないわけだ(メンバーがやっている小規模な勉強会は当てはまるかな)。先生はこの「小規模性」というのを強調されていました。

ところで、自助グループという言葉は self-help group の日本語訳なのですが、最近「自助」という言葉を回避して相互援助グループ(mutual aid group)という言葉が推奨されています。

ミューチャル・エイド(相互支援・相互援助)という言葉は、2007年のホワイト先生の講演でアメリカでの新しい考え方の紹介として初めて聞きましたが、その後いろんな人の口に上るようになっています。今回も先生からその話が出ていました。

なぜ「自助」という言葉がふさわしくないのか?

「自助自立の精神」とか「自助努力」という言葉があります。自助努力を求めるという言葉は「自分で何とかしなさい」という意味です。自力・独力ということです。

しかし自助グループに来る人というのは「自分では何とかならなかった」人たちです。自助努力で問題解決できなかったからこそ来たわけです。そういう人たちの集まりに対して「自助」という言葉はふさわしくありません。支援・援助が必要な人たちがそうした支援・援助を授かる場所です(また同じ人が他者に対して支援・援助を与える場所にもなります)。

ただし「自助グループ」という言葉すらまだ世間に定着していない段階で、それを新しい言葉に置き換えることには戸惑いもあります。当面は自助グループという言葉が主に使われることでしょうが、「自助(相互援助)グループ」のような括弧書きも始まっています。

長い目で見れば、アディクションの分野でセルフ・ヘルプ(自助)という言葉は廃れていくのではないかと思います。

精神医療の対象図



この図は12月の京都での発達障害とアディクションに関するシンポジウムで、京都大学の十一元三先生が使われたパワーポイント資料から抜き出したものです。ただ、今回の雑記は十一先生の話とは関係ありません。

精神医療が取り扱う病気を「心」「脳」「体」の三要素に分類しています。

このうち「体」の領域は内科などが診ることなります。

「心」と「体」が重なっている領域にある「心身症」は、ストレス性の胃潰瘍や過敏性大腸炎のように、心理的な問題が原因で体に不調が現れるものです。(心療内科とは本来この領域を担当するもの診療科だったはずなのですが、精神科と同化しているところもあります)。

「体」と「脳」が重なっている領域にある「症候性精神病」は、内臓疾患が原因で起こるものです。例えば肝臓病で代謝機能が落ちると、脳が影響を受けて幻聴が聞こえたり、見えるはずのないものが見えたりします。

「心」の病気として捉えられる範囲は意外と狭いことに気づきます。虐待による愛着障害や適応障害が含まれます。やんごとなき女人の病気は適応障害だと発表されていましたが、どうみてもうつ病ですよね。後述の「脳」の病気よりも、まだ「心」の病気の方が「まだまし」という価値観があるのでしょうか。

残るは「脳」の病気の領域です。ここに含まれる病気の多さを考えると、精神病とは脳という臓器の疾患であることがよく分かります。

統合失調症やうつ病は「内因性」の病気だとされます。内因というのは、素因(遺伝的な体質)と環境(ストレスなど)の組み合わせで発症すると説明され、心因性とも器質性とも区別されています。内因性という概念が考えられたのは、統合失調やうつの人の脳に器質的な変化(マクロな変化)が見あたらなかったからです。

しかし近年の検査技術の進歩によって、内因性の病気でも器質的な問題が大きいことが分かってきています。統合失調症の人の脳に萎縮が見られ、うつ病の人は前頭葉(前頭前野)の血流が低下していることが分かりました。この図で「脳」の病気に含まれているのは、そうした背景があってのことでしょう。

ちなみに、うつ病の人の前頭葉の血流が低下するのは安静時のことだそうです。なにかの作業に集中させると、血流は増加します。前頭葉は長期的記憶や予測、注意力、我慢強さ、創造性や意欲、実行能力を担っています。うつになるとこれらの機能が低下しますが、集中すれば(することができれば)機能が回復します。一方ADHD(注意欠陥多動症)の人の場合、集中しようとするとかえって前頭葉の血流が低下してしまうことが観察されています。とすれば、「がんばろうとすると能力が落ちてしまう」のがADHDの人のジレンマでありましょうか。

話を元に戻すと、発達障害もこの「脳」の領域に含まれます。

また、認知症、アルコールや薬物の依存症、脳梅毒なども、この「脳」の病気(器質性)に含まれます。

このように精神科の扱う病気は多岐にわたります。この図の中で、自分の抱える問題がどこにあたるか、という情報は本人にも周囲にもあまり役立つ情報ではないかもしれません。しかし、一口にメンタルな問題といっても多様であることは知っておく必要があると思い、雑記にまとめてみました。

処方薬乱用とレセプト請求のオンライン化

おおっと、水曜日だというのに少年サンデーを買い忘れたまま帰宅してしまうなんて。忙しすぎるのか、それとも老化現象か。上着を脱がずにそのままコンビニまででかけ、サンデー片手に帰ってきたら、テレビのニュース番組で生活保護受給者が向精神薬を転売している問題を取り上げていました。

生活保護受給者の医療費は全額が公費で負担され、本人負担はありません。それは処方される薬の代金についても同じです。

このサイトをご覧の方なら、精神科の診療がどんなふうに行われているかご存じだと思います。問診が中心なので、患者の側が病気のふりをすれば(眠れないとか、気分が沈むとか訴えれば)それを詐病だと見抜くのは難しい・・と、テレビに登場したお医者さんが言っていました。(いや、実は難しくないのかもしれないが)

こうして手に入った無用な薬は、路上やネットを通じて販売されます。向精神薬の譲渡は法律で禁止されているので(医者が処方するぶんには合法的な薬物でも)、資格のない者が流通させた段階でそれは「違法な薬物」へと変わります。

この場合の目的は金銭ですが、複数の医療機関から同じ種類の薬を処方してもらって、自分で使用する人もいます(乱用)。立派な薬物依存症者(ヤク中)なのですが、当人に言わせれば「(シャブやアヘンのような)違法薬物とは違う」というのが言い訳になります。

ニュースでは、4月からレセプト請求のオンライン化が行われ、誰にどんな薬が処方されているか電子データとして蓄積することが可能になると報じられていました。「だから、誰にどんな薬が処方されているか検索することが可能になり、複数の医療機関から向精神薬を処方されている人をチェックできるようになる」と厚生労働省の担当者が言い訳めいたことを言っていました。

考えてみるとちょっと怖いことかも知れません。誰がどんな精神病を患っているか、一瞬で検索することができる、ということでもあるからです。

とまれ、日本のほとんどすべての医療機関でレセプトのオンライン化が行われるようです(例外的に免除される医療機関もある)。それだけでなく、同時に多少の厳格化も行われるようです。

先日行った内科の診療所では、4月から診察を行わずに処方箋を発行することが原則的にできなくなるので必ず診察を受けて下さい、と掲示されていました。

今までのように窓口で

「今日は薬だけください」

と言って、診察なしで処方箋を書いてもらうことができなくなるわけです。

転売目的であれ、自分で乱用するためであれ、複数の医療機関から向精神薬を手に入れることは次第に難しくなっていくことが予想されます。

金銭目的の人は諦めるでしょうが、乱用(依存)の人はそう簡単にはいきません。アル中がなんとかして酒を手に入れようとするように、何とかして薬を手に入れようとするでしょう。おそらく路上か、あるいはネットの売人を通じて。今まで医者から手に入れていたのと同じ物質であっても、売人から手に入れた薬は「違法薬物」です。(覚醒剤などと違って単純所持や使用で罰せられるわけではないけどね)。

いつの間にか違法薬物に手を出している。その時その人は、自分の乱用している薬物が違法か合法かという違いなど意味がないことを知るでしょう。

借金の総額規制がギャンブル依存の顕在化を産んだように、レセプト請求のオンライン化が処方薬依存(乱用)を顕在化させるのかもしれません。

関東滞在三日間

金曜日は朝5時の高速バスで横浜のアディクションセミナーへ。
太平洋岸にも雪が降るというあいにくの天気にもかかわらず、会場は熱気で包まれていました。僕が数えた限りでは、参加者の数は400人を超えていたようです(500人という声もあり)。

誰か有名な先生が話すわけではなく、話し手は全員素人(自助グループなどの人)で、しかも有料のイベントです。それでこの人数を集めてしまうところが、このイベントのすごいところです。

久しぶりに顔を合わせる人、新しく知り合った人あり、挨拶をしたり打ち合わせをしたり忙しく、午前中はゆっくり大ホールで話を聞いている余裕はありませんでした。

午後は回復研の分科会の司会を努めました。スピーカーは女性のみ4人。みなさん回復のプログラムに対する真摯な姿勢をお持ちで、安心して聞いていることができました。質疑応答を20分でさばく。赤本・緑本の使い方について問題提起もありました。分科会の参加者は90人ほどだったそうです。

それが終わると大ホールに移動して、回復研メンバーとしてスピーカーを努めました(人材不足なのか?回復研)。順番は最後から二番目。いや、大トリのいっこ前という順番に重みはありません。大ホールでのスピーカーは午前中が主で、午後は分科会が始まるので皆さんそちらへ流れてしまいます。大ホールに残っていられたのは数十人ほどでした。

話を聞いてくださった方から「回復されてるんですね」と言われました。僕が回復しているかどうかよりも、他者の話の中に回復を感じ取れるようになったその人自身の中に回復があるのです。(逆を考えてみよう。「くだらねえ話ばっかりだぜ」と感じている人の中に回復はあるでしょうか)。

「AAメンバーはこういうところに来るとおとなしくなっちゃう人が多いですね」と言っていた人がいました。アル中には環境の変化に対応していくことが苦手な人が多いように感じています。だから、馴染んだAAという文化の中ならのびのびできても、いろんなグループの人が集まる異文化交流の場所に来ると、ちょっと縮こまっちゃうのかもしれません。でも、こうした場所に出てくるメンバーは、変化する環境(つまり社会)の中に出ていこうという前向きな気持ちを持っている人なのだと思います。

翌日は千葉の秋元病院に移動し、アディクション看護学会の研修会に自助グループのメンバーとして招かれて話をしました。「医療の治療構造と、自助グループの治療構造の間に存在する齟齬」について問題提起になる話をしてくれと言われていたので、与えられた10分で僕なり話をしたのですが、実はこの時間はAAの紹介をせねばならなかったのかも。でも、今さらアディクション看護の人たち相手にAAの紹介でもないか。断酒会の会長さんも、断酒会とは何かという話はされてなかったし。
ここでも、最近出来たHA(ひきこもり・アノニマス)がちょっと注目を集めていました。

後半のパネルでは「正直」がトピックになりました。回復には正直さが必要、それはそうなのですが、ここで断酒会の会長さんから

「断酒会員はうそつきばっかりですよ。例会でも正直な話をする人は一人もいません」

とトンデモ発言が飛び出しました。でもこれは慧眼です。断酒会に限らず、AAであれ他のグループであれ、正直な話ができている人などいません。みんな自分に都合の良い話をしているばかりです。

それは昔のことは酔っていたから憶えていない、というわけではなく、アディクションの強迫性によって嫌でも飲み続けざるを得なかったときに、自分を守るために築き上げた自己防衛の仕組みなのです(それがなければ人間は死んでしまうよ)。

けれどこの自己防衛は回復には邪魔です。だから、完全に正直にはなれないけれど、少しでもより正直になりたいという気持ちが、回復に向かうベクトルなのでしょう。そのためには、今の自分は正直ではない、という自覚が必要です。

断酒会の人がこのような意識が持てるのは、なんと言っても家族と一緒に参加する会で、(巻き込まれていても)本人とは違う家族からの視点があるからでしょう。

さらに翌日日曜日は、横浜に移動してワンデーポートの10周年イベントへ。施設長の中村さんの話によれば、最初はギャンブル乱用をもっぱらアディクションと捉えてアプローチしていたのだそうです。だから「退所後にGAに通わない回復があるとは夢にも思わなかった」そうです。すべてのギャンブル乱用を「ギャンブル依存症」としか捉えれば、当然そのようになります。

乱用の原因が依存症である人もいるのですが、発達障害が原因である人も、精神障害や知的障害が原因である人もいます。その人たち全員に、ミーティングだステップだという画一的なアディクションとしての対応をするのではなく、アセスメントの上で個別の対応を取るように変わっていけたのがワンデーポート成功の要因でしょう。

退所者の経験談でも、アディクションタイプの人と、発達障害タイプの人の両方の話がありました。

こうして考えると、ギャンブル乱用をすべて「ギャンブル依存症」と呼んでしまうのははばかられます。「ギャンブル乱用」あるいは「ギャンブル問題」という呼称のほうが好ましいのでしょう。

同じ構図は(ギャンブル依存だけでなく)アルコールや薬物にも当てはまります。おそらくはACや感情や摂食障害の問題にも当てはまるのだと思われます。

会場で最近知り合いになった人にに、「昨日おとといとアルコールや薬物の人の多いイベントにいたのですが、この会場のギャンブルの人たちは顔つきが違いますね」という話をしました。僕は、薬物(アルコールも含む)で内臓や脳がやられていないぶんだけ、ギャンブルの人の方が顔色が健康だ、という話をしたのですが、相手の答えは、

「だからこそ、発達障害の問題に気づけたのかも知れない」

というものでした。アルコールを含む薬物の脳や内臓へのダメージは大きく、断酒・断薬後も長年影響が残ります(僕もその例外ではない)。だから、発達障害的な言動が現れていたとしても「酒の影響」で片づけられてしまって、背後に存在する問題に気づけなかったのではないか、というものです。

ところで、なぜ施設の周年記念イベントに、音楽演奏や落語のプログラムが混じっているんだろう? と疑問に思っていたのですが、それは回復には趣味や生きがい、笑いが大事であるという施設長のコンセプトの反映だそうです。

おかげで20年ぶりに生の落語を聞きました(井戸の茶碗)。素人の話を金を払って聞き、玄人の話をタダで聞いた3日間でした。

ネットにおける流行

「最近、アルコール(依存症)の人の新しいブログが少なくなりましたね」

という話をしていました。

ブログというものが流行りだしたのが2003年ごろでしたか。
アル中の人のブログが増えてきたのが2005年頃。あの頃は「ブログ始めましたよ」という話をしょっちゅう聞いていたように思いますし、家路のリンクリストにもそうしたブログを追加していました。

「最近の家路もギャンブルの人のブログ追加が目立つ」

そう言われて更新履歴を見てみると、確かにそうです。いまギャンブル関係が一番ホットなのは間違いありません。

じゃあ、アル中さんたちはブログをやらなくなって何をやっているのでしょう?

先日岡山でAAミーティングに出た際に、始まる前の雑談で Twitter や Facebook をやっているという話が出ていました。そうか、みんなそっちへ行ってしまったか。

エジプトで起きている出来事もTwitterやFacebookが大きな役割を果たしたと聞きます。

掲示板が流行った時期があり、ブログの時期があり、そして今度はTwitterやFacebookか。そしてアディクションの人もその変遷と無縁でいられるわけがありません。昨年の回復研の集会では、Twitterで質問を受け付けていました。

そんななかで、「ブログ始めました」というお知らせが流れているのを見たりすると、新しいことに対するフットワークが重くなっているおじさんとしてはちょっとホッとしたりするのです。

とまれ、ネット(オンライン)というのはリアル(オフライン)を充実させるための道具に過ぎません。掲示板・メーリングリスト・ブログ・mixi・Twitter・Facebook・・なんであれ、それ自体が目的ではなく、そこで知り合った人たちとリアルでつながりができていくことに楽しみがあります。

この週末も2泊3日で横浜・千葉へ行きます。そこでまたいろいろな方にお会いできるかと思うと今から楽しみです。

幸せへの道

より多くを持っている方が幸せになれる、という考え方は間違いではありません。
財布の中身が空っぽより万札がたくさん入っていた方が良い。テストの点数だって0点より100点の方が良い。そうしたいろいろを獲得するために「能力」が役に立ちますから、「能力もたくさん持っていた方が良い」ということになります。

おそらくだからこそ、「あなたには〜の能力がない」と言われれば、人は幸せになる道を断たれたかのように感じてしまうのでしょう。

アルコール依存症は「酒を正常に飲む能力を失う」病気です。
「あなたにはもう酒を正常に飲む能力がない」と言われれば、それを素直に受け取れずに抵抗する人もいます。なんとかうまく酒を飲もうと実験を繰り返す人もいます。

ない能力があるかのようにふるまい続けていると、酒によるトラブルは避けられず、やがていろいろなものを失っていきます。仕事、家族、財産、社会的地位・・・。

能力がないことを受け入れられれば、酒をやめる努力ができるし、酒で得ていたメリットを別の手段で得るように訓練することもできます(その手段が山登りでもいいじゃないのさ)。酒のトラブルは避けられ、本来のその人の人生を生きるという幸せが実現されます。

その能力を持っていないことを認めることが、幸せへの道です。

発達障害についても同じことが言えます。発達障害というのは、何らかの能力を弱める形で発現します。だから、「あなたには〜の能力がない(あるいは弱い)」という形で告げることになります。それが可哀想だという人もいますが、ない能力があるかのように扱うことは、かえってその人を傷つけることにしかなりません。

能力がないことを受け入れられれば、対策が打てるようになります。訓練で苦手な能力を伸ばすこともできるし、代替の手段を使うこともできます。服薬で改善されることもあります。得意なこともあるのですから、そちらの能力を開花させて職業につなげていくことも可能になります。

こうしてみてみると、能力を失うことは残念なことですが、その人から幸せを奪っているのは「能力の喪失」そのものではありません。ない能力があるかのように、本人や周囲が信じてしまうことが、その人から幸せを奪ってしまうのです。

手に入れることではなく、手放すことが幸せへにつながる。性格上の欠点を手放すというステップ6・7がテーマのミーティング中にそんなことを考えました。

岡山へ

先週、仕事で岡山に行ったついでに、市内のAAミーティングに寄ってみました。

生まれて初めて路面電車に乗りました。電車というよりバスみたいという感想。ICOCAが使えるとありましたが、suicaはダメでした。

ミーティングは午後6時半からの2時間で、途中タバコ休憩つき。ミーティング・ハンドブックを使ったものでしたが、最初に序文を読まず、10ページの12のステップだけ読んでわかちあいに入りました(このパターンは初めての経験でした)。

AAには標準のミーティング・フォーマットというのがありません。だから、場所によってグループによってミーティングのやり方は違うし、手順を決めていないグループもたくさんあります(その日の司会者によって違うパターン)。僕のホームグループではきちっとしたフォーマットを決めていますが、他のグループが別のやり方をすることになんの異論もありません。

今年は岡山でラウンドアップが開催されるそうで、実行委員会の議事録が回し読みされていました。みんなで集まる機会が多いので「岡山地区委員会」が立ち上げられるかもしれない、という話題も出ていました。

ラウンドアップだ委員会だということになると、「AAの用事」が増えてしまうわけで、メンバー一人ひとりがどうやってそれに必要な時間やお金を工面していくかという悩みが生じます。それを支えるのは「ソブラエティのこの喜びをより多くの人に伝えたい」という気持ちでしょう。回復の喜びを持たない人に役割を任せてしまうと、どうしても「貧乏くじを引かされた」という話になってしまいます(だって他の人は楽してるんだもの)。やはり回復あってのAAなのだと思います。

ゆったりとした雰囲気のミーティングの締めくくりは平安の祈りでした。どこに行ってもAAがある、それが良いことなのだと思います。

帰り際「AAにつながる前に、ひいらぎさんのホームページを見たんです」と言ってくれた人がいました。少しでも役に立てたのならば嬉しいのですが、更新が滞って古くなってしまったコンテンツのことを思うと少々心が痛みます。

路面電車は道の真ん中を走っているので、それを待つ人も道の真ん中に立つことになるのか? 不安だったので、ミーティングの後で外の喫煙所でタバコを吸っている人たちに尋ねてみたら、そのとおりだと教えてもらいました。ただ、実際行ってみると、路面電車が赤信号待ちで停まっており、道の真ん中に立って待たなくて済みました。

出張のリクエストが増えてきたのは、景気が良くなってきた証拠かも知れません。今年の夏あたりには本格的に良くなりそうな気がしています。

危機ではなく、幻想の終わり

ジェラルド・M・ワインバーグの本、『コンサルタントの秘密』を買いました。
(読んでいるヒマはありませんが)

1980年代にコンピューター科学の雑誌「bit」を読まれていた方なら、懐かしく思い出すかも知れません。その本には、人生に役に立つ様々な「法則」が書かれています。その一つ、ロンダの悟り第2番は、

「それは危機のように見えるかもしれないが、実は幻想の終わりにすぎない」

というもの。

人は生きていれば、時に危機的な状態に陥り、追いつめられた気分になることもあります。
危機は突然やってきたかのように思えますが、たいていは気がつく前から存在していたものです。安全な状況が続いていたという勘違いは、自分の抱く「幻想」にすぎなかったというわけです。

アル中が精神病院に入院するはめになり、酒をやめろと言われる。ご本人にとっては、もう一生酒が飲めなくなる大変な危機的状況かもしれませんが、単に「自分の酒はそれほど問題ではない」という幻想が終わっただけの話です。問題は入院するずっと前から存在し続けていたのです。
プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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