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知性は霊的なもの

知性は霊的(スピリチュアル)なものだそうです。
なぜならば、神さまが与えてくれたものだから。

多くの人は知性を自分で努力して獲得したもの、つまり自分で自分に与えたものだと思っています。もしそうなら、なぜ「アルコール依存になるのを避けるだけの知性」を自分に与えなかったのか。それは切実に必要なものであったにもかかわらず、あなたはそれを自分に与えることはできなかったからこそ、この雑記を読んでいるわけです。

つまり、自分にどれだけ知性を与えるかコントロールすることはできません。知性は神さまが人に与えたものだからです。たぶん、誰にどれだけの知性を与えるかは、神さまが決めているのでしょう。そして、神さまが与えてくれるものは霊的なものなのです。

霊的(スピリチュアル)な生活をしようとするならば、霊的なものに優位を与えねばなりません。

さて、僕らは感情を持っています。そして「気持ちを大事にする」ことが大切だと思っています。そこで、感情に知性を支配させます。何か「やりたい」と感じたことを実現するために知性を使い、また「したくない」と思ったことをせずにすますために知性を使っています。そして、そのやり方が正しいことだと信じています。

しかし(表形式の棚卸しを経験した人ならわかるでしょうが)僕らの感情はしばしば間違います。例えば僕らは時に「恨み」を持ちますが、恨みの感情は僕らから自由を奪い、楽しいはずの時間を台無しにしてくれます。であるのに、僕らはその「恨み」が正当であり、間違っているのはヤツだと主張します。それが熱を帯びると、こんな人生、こんな世の中は間違っていると結論します。何のことはない、間違っているのは自分の側なのにね。

だから僕らは自分の感情を疑ってみる、ということを憶えました。

感情を充足させる。つまり自分の思い通りに事が運んだとき、僕らはスッキリした感覚を味わいます。このスッキリ感が「幸せ」だと信じていた僕らは、充足を邪魔されれると、それが不幸だと感じるようになっていました。無闇に充足を求めた僕らは、自分自身や他者との衝突を繰り返し、そこから恨み、恐れ、自己憐憫などのネガティブな感情が湧いてさらに不幸になっていきました。

霊的な生き方とは、それとは逆に、知性に感情をコントロールさせることです。僕らは自分が感じていることが「正しい」と信じていますが、知性にそれを覆させねばなりません。そのためには、感情の上に知性を置く必要があります。

僕らはソーバーの若い人たちに「自分の考えを使うな」というアドバイスをします。なぜならその考えとは、感情に支配された小賢しい知恵に他ならないからです。考え方が間違っていると言うより、考えを方向付けている感情(感じ方)が間違っているのです。やりたいようにやる生き方は、必ずつまらないトラブルを産みます。(そして感情に支配されている人に理屈は通用しない)。

幸せになりたかったら、自分の感情を疑ってみることです。感情はあなたに語りかけます。不愉快な思いはしたくない。充足してスッキリしたい、と。しかし、限られた視野から得られた限られた情報によって形づくられた感情は、しばしば僕らを間違わせるのです。棚卸しとは感情の間違いに気付くプロセスです。

感情による支配から解き放たれたとき、知性は本来の働きを取り戻します。神さまがどれだけの知性を与えたかは人によって違うものの、その知性を使ってその人本来の人生を生きていけるようになります。

霊的な生き方を実現するのは、知性に優位を与えようとする僕らの意欲です。
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アスペルガーのイメージ

あなたは学級担任の先生です。そういう設定だと思って続きを読んで下さい。

今あなたは生徒の一人を伴って、学校の廊下を歩いています。その生徒を校長室まで連れて行くのが今のあなたの目的です。ただし、その生徒がアスペルガー症候群であることが、目的達成を難しくします。

さて、廊下の両側にはドアが並んでおり、ドアの奧には部屋があります。ドアが全部閉まっていてくれれば(アスペルガー君がそちらに注意を向けてしまうこともなく)問題はありません。

しかし、運悪くドアが少し開いていて隙間から明かりが漏れていたりすると、それに注意を引かれたアスペルガー君はこう感じてしまいます。「あのドアの向こうに何があるんだろう? ひょっとしてすごく大事なことが僕を待っているんじゃないだろうか」。一度その考えが浮かんでしまうと、もうそれを消すことはできません(ロックオン)。

ドアの隙間から中を覗こうとしているアスペルガー君に、あなたは「いやいや、君の行くところはそっちじゃない、こっちだよ」と校長室の方向を指し示します。しかし、アスペルガー君は相変わらずドアの向こうに興味津々で離れようとしません。そこであなたは、声を大きくして注意する、あるいは肩を掴むなどして、なんとか彼を廊下の先へと向かわせようとします。

「ふう〜やれやれ」と先を急ぎだしたあなたが、ふと振り返ると、後ろをついてきているはずのアスペ君がいません。見やると彼は先ほどのドアの前まで戻って、また中を覗き込んでいます。

イラっとしたあなたは、声を荒げて彼を非難してしまいますが、おそらくそれはさらなるトラブルを招くだけです。口論になるかも知れません。彼は耳をふさいでうずくまってしまうかも知れません。ドアを開けて突進してしまうかも。また外へ飛び出していってしまうかも。渋々あなたに従ったとしても、目標達成(校長室へたどり着く)の可能性はずいぶん低くなってしまうでしょう。

結局ここでも「受け入れることが正解」です。アスペ君がドアの隙間から漏れる光に興味関心を持ってしまったのなら、それを受け入れるしかありません。あなたがドアを開け、「ほらこの部屋は空っぽでなにもないよ」、「こっちの部屋は倉庫で君の興味を引くものは何もないよ」と示してあげれば、彼は納得して廊下の先へ向かうでしょう。

たまには、ドアの向こうが保健室で、保健の先生(♀)が「あら○○君どうしたの? どこか具合悪いの?」なんて優しく声をかけてくれるものだから、アスペ君はそこに長居したがるかも知れません。あなたは彼の手を引っ張って廊下に引き戻さなければならないかも。それでも、ドアを開けて、そこが目的地ではないことを納得してもうらうほうが、ずっと時間の節約になります。(周囲が合わせてあげる必要)。

もうおわかりでしょうか。担任の先生であるあなたとはAAスポンサーのこと。生徒のアスペ君は、やや積極奇異型気味のアスペルガー症候群を抱えたスポンシー。廊下を進むことが12ステップの行動で、校長室はその目標である霊的な目覚めです。

自閉的特性を持ったスポンシーは、時に12ステップの全体像を見失い、些末な、実に些末な細部に囚われてしまうでしょう(こだわり・固着)。仕事でも何でも彼はそうなのです。時にその特性が彼に仕事上の成功をもたらすかも知れません。しかし、12ステップに取り組むに当たっては、障害となってしまうことが多い。その特性は周囲の人々に苛立ちをもたらすことが多いのですが、少なくともスポンサーであるあなたは、一緒になって苛立っていてはいけません。

某ステップ勉強会で緑本を読み合わせていたところ、ヘリエッタ・サイバーリングの名前が出てきました。ビル・Wとドクター・ボブは1935年の母の日に、ヘンリエッタの家で初めて会いました。彼女が二人を引き合わせたのです。そして3人ともオックスフォード・グループのメンバーでした。さらに言えば、AAの12ステップの源流はオックスフォードグループのプログラムを受け継いだものです。

これを知ると、こんな考えが浮かんできます。「ヘリエッタ・サイバーリングとはどんな人だったのか?」「彼女とドクター・ボブとの関係は?」「AAの原理がオックスフォード・グループから受け継いだものなら、オックスフォード・グループの原理を知ればより霊的なことがわかるのじゃないか?」・・・などなど。

何かに興味関心を持つことは良いことです。しかし考えてみて欲しいのは、こういうことは回復のプログラムにとっては単なる周辺情報で、それを追いかけていくとどんどん本質から外れていってしまうことです。普通の人はそれを言えば分かりますが、自閉的特性を持った人には、ドアを開けて、中が目的地(校長室)ではないことを示した方が早いのです。ヘンリエッタやオックスフォード・グループについて、知っているだけの情報を提供すればいいでしょう(知らないなら知らないと言うしかないけど)。彼らにとって「知っていること」に意味があり、安心の材料なのです。

(Henrietta Seiberling については、例えばここに情報があります)
http://www.barefootsworld.net/aaorighenriettas.html

ビッグブックの読み合わせをしていても、そういうことは起こります。そんなときに「なんでコイツは、こんな細けぇことにこだわるかな」とイラだってみても得るものはありません。そのこだわりに付き合うことこそ我が使命、と思い直して前向きに取り組みましょう。

なにしろ彼ら(自閉的特性を持った人たち)は「スッキリしたい人たち」なのです。光の漏れているドアがあれば、開けてみたくてたまらないのです。それをせずに先を急げば、「あのドアの中はどうなっていたのか」というモヤモヤがずっと晴れずに残ります。そのモヤモヤが溜まりすぎれば、先へ進む障害にしかなりません。理路整然としたスッキリした世界が彼らの頭の中に構築される手伝いをしましょう。スポンサー自身の「スッキリしたい」という気持ちを優先させてはいけません。

あと、あらかじめ余計なドアは閉めておくことも必要でしょう(枠組みづくり)。

でもたぶんこんなことは、体得すべきたくさんの「コツ」のうちの一つに過ぎないのでしょうけど。ぶつぶつ。

ビッグブックを書いた人たちの頭の中に理路整然とした世界が構築されていたことは間違いありません。しかし、ビッグブックは視覚化も構造化もまったくされていません。だから、普通の人にもわかりにくいし、自閉的特性を持った人ならなおさらです。どうやったらそれを分かりやすく伝えられるか。そうしたノウハウ作りはこれからも続けねばなりません。

AAは万能薬ならず

「12ステップは何にでも使える、と言っている人ほど、12ステップの信憑性を損なっていると思っている」

とメールに書いたところ、ちょうどその日の「今日を新たに」にこんな文章があったと教えて頂きました(ありがとうございます。Tさん)。

「AAが万能薬であると主張することは、たとえアルコホリズムに関してであっても、それは誤ったプライドの産物に違いありません」(ビルはこう思う285)

以前に掲示板で、内田樹×春日武彦の対談「中腰で待つ援助論」というのを紹介しました。
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2004dir/n2613dir/n2613_01.htm

そこで、内田樹が、

『「ここには有効だけれども,ここから先には使えません」と言う,地域限定,期間限定,条件限定の,適用範囲が限定されている理論のほうが,僕は理論としてはずっと上等だと思うんです。「何にでも使えます」なんて怪しいですよ』

と語っています。「万能」なんていうものほど疑わしいものはありません。現実は複雑なものであり、様々な条件をつけてやっと成り立つ何かも、他の条件下では成り立つかどうかはワカランということになります。ところが、何でも白黒ハッキリしたものが好きで、世界を単純化して考えたい人たち(単純化しないと世界を捉えることができない人たち)は、「12ステップは何にでも使える」という言葉が大好きなのです。

ビルはこう思うの285には、別にこんな文章も載っています。

「うぬぼれで真実が見えなくなってしまう恐ろしさは、うぬぼれというものが正当化されやすいという点にある。自己正当化が愛と調和を破壊するのは、私たちのまわりを見ればすぐにわかる」

つまり、万能ツールを手にしたみたいなうぬぼれは危険だというわけです。

じゃあ、「12ステップは何にでも使える」とは言っちゃならないのか? まあ、そんなこともないでしょう。例えば右も左も分からないビギナー相手にハッタリでも何でも一発かまさなきゃならない場合には、「12ステップを使えば人生のどんな問題でも乗り越えられる」ぐらいの大ボラを吹いてもオッケーかもね。
つまりこれも期間限定、条件限定だったら、ということか。

そういえば、第5章の先頭とか、巻末の霊的体験とかには、12ステップはこういう人には効かないという条件がちゃんと書いてありましたね。

ふたつの帽子

AAなどの12ステップグループは、たいてい12の伝統というグループを律する仕組みを持っています(一部のグループでは「一致のためのプログラム」という名前になっていることもある)。

その8番目は職業化を禁じています。わかりにくいので「長文のもの」の8番目を引用します。

「アルコホーリクス・アノニマスはあくまでも職業化されずアマチュアでなければならない。ここでいう職業とは、料金を取って、あるいは給与をもらって、アルコホーリクをカウンセリングすることをいう。しかし私たちのサービスのために人を雇う必要のある場合、アルコホーリクを雇うことができる。これに対してはそれ相応の報酬が支払われてよい。しかし私たちが行う通常のAAの「十二番目のステップ活動」は常に無償でなければならない」

つまり、こういうことです。僕が「AAカウンセラー ひいらぎ 12ステップお手伝いします 1時間9,450円」という看板を掲げて商売をしてはいけない、という意味です。

なぜプロになってはいけないのか? それは単純に「うまくいかないから」です。AAのメッセージに値札を付けようとした試みは長続きせず、すべて失敗に終わったとビルは書き残しています。アルコホーリクたちは、金を要求されることが嫌いなのです。そんなわけで、グループの運営やスポンサーシップはすべて無償で提供されることになりました。

しかし、AAで金を稼いでいる人たちもいます。アメリカのAAでは多くのクラブハウスが作られましたが、クラブハウスの鍵の管理や掃除をしてくれる管理人を雇う必要がありました。それにはAAメンバーが雇われることが多く、彼らはさっそく「AAで金を稼いでいる」という非難を受けました。またセントラルオフィスなどが作られると、そこを維持するために専従の職員を雇う必要がありました。AAで金を稼ぐことは一切まかりならない、と考える人もいたのですが、結局は現実的な線が引かれました。

つまり、12番目のステップ(メッセージを運ぶこと)はあくまで無償で提供される。しかし、それ以外のAAの必要を満たすために、物品や役務を提供する人が正当な報酬を得ることはあっても構わない。というわけです。オフィスのスタッフはAAメッセージを運ぶことを職業にはしておらず、メッセージ活動に直接たずさわるメンバーをサポートするのが彼らの業務です。

しかし、アメリカでAAが始まって20年もすると、いよいよAAメンバーを正式スタッフとして雇用したいという病院も登場しました。彼らは施設内で患者に12ステップを伝えることを職業とする専門家になりました。伝統8に照らして考えると、それはどうも良くありません。しかし、それを禁じてしまうと、AAメンバーは回復しても一生、病院や回復施設のスタッフという職業には就けないことになってしまいます。それも良くありません。

そこで(AAのやることはたいていそうなのですが)現実的な方策が考えられました。それが「二つの帽子」という考え方です。

この帽子は野球帽のような cap ではなく、縁のある hat を想像して下さい。帽子は一つかぶれば十分です。頭の上に二つ帽子を載せる人はいません。そんなことをすれば、道ですれ違う人に笑われてしまうでしょう。

さて、片方の帽子には「AAメンバー」と書いてあります。もう一方には「施設職員」(あるいは専門家)とある。どちらか一方の帽子をかぶり、同時に二つの立場は取らないことにするのです。AAメンバーとして活動しているときには、施設職員であることは伏せておきます。施設職員あるいは専門家として活動しているときには、AAメンバーであることを伏せます。常にどちらか片方だけの立場を取るのです。

AAメンバーとしてミーティングで話をするときは、施設の話はしない。職場でのできごとを話したければ、どこでどんな仕事をしているか具体的な話は伏せる。これが、その人の専門家としての立場も、AAメンバーとしての立場も守る方策です。他の人たちは、その人が施設スタッフであることがわかっていても、それについては触れないことで、その人の立場を守る、という了解事項です。

では、この原則を無視してAAメンバーでありながら、職業的専門家としても話をしている人に出会ったらどうすればいいでしょう? それは帽子を二つかぶっている人に出会ったらどうすればいいか、という質問にも似ています。人間のやることです。どんな原則にも逸脱というものがありますから、いちいち細かいことに目くじら立てていたらこちらが恥ずかしい。

しかし「いくらなんでもこれはやりすぎ」と思える場面にも出会ってしまうかもしれません。見て見ぬふりをする? それもありでしょう。恥をかくのはその人ですからね。しかし、制止してあげるのが親切だと思います。ズボンのチャックを開けて歩いている知り合いがいたら、陰に読んでこっそり教えてあげるのが親切というもの。それと同じです。さらに、その人は同じような人の別の人たちの立場も危険にさらしているわけです。その人だけの問題ではないのですから。

伝統というのは「責める」ためにあるのではなく、その人を「守る」ためにあるのです。ぜひ、その人の立場を守ってあげて下さい。

さて、文末についでに取り上げる形で申し訳ないのですが、長くAAサービスの専従スタッフを務められた方が先日退職されたと聞きました。彼のバランス感覚に深い信頼を寄せていただけに、その退職を寂しく思います。

概念の9に「AAの真のリーダー」についてのくだりがあります。

「彼らが役立っているかどうかの判断の手がかりは、全般に尊敬を受けているかどうかである」

彼が日本のAA共同体に大きく貢献したことは間違いないと思います。感謝を込めて。

てんかんについて

栃木で小学生の集団登校にクレーン車が突っ込んで6人が亡くなった事故。事故直後に運転手が「人を轢いた記憶がない」と言っていたとニュースで伝えられていたので、「てんかんじゃないのかな?」と話し合っていました。今朝のニュースでは「発作の可能性あり」となっていたので、ますますそう思っています。(違うかもしんないけど)。

突然の意識喪失はてんかんを疑ってみなければなりません。てんかんにもレベルがあり、激しいものだと卒倒(突然倒れ、口の端に泡)します。軽いものだと少し意識がぼんやりする程度。「解離だと思っていたらてんかんだった」という話も多くあります。またご老人で、元気な認知症だなと思っていたらてんかんだった、という話もあります。

発作はいつ起きるかわからず、発作とともに運動機能が影響を受けることもあるので、運転免許の条件的欠格条項になっています。子供の頃にてんかんが出ていても、成長とともに収まることも多く、また抗てんかん薬によって発作は抑えられます。発達障害と同じ脳の器質の問題であり、発達障害に含めるべきだと考えているお医者さんもいます。いずれは一つの概念に統合されるかも知れません。

アルコール性てんかん(アルコール誘発性てんかん)は、アルコールの離脱症状としててんかんを起こしてしまうもの。当然アルコール以外の薬物の場合にも起こりえます。もともとてんかんの素質を抱えていた人が酒を飲むことにより、アルコールの刺激によっててんかんが誘発されてしまいます。中には「酒を飲むまで一度もてんかん発作は起こしたことがないのに」という人さえいます。

アルコール性てんかんを起こすのであれば酒を飲んではいけません。にもかかわらず、酒を飲むのをやめられないのなら、それは依存症ということになるのでしょう。

てんかんは光刺激によっても誘発されることがあります。以前ポケモンのアニメで光が激しく明滅するシーンを流したら、多くの子供が発作を起こしてテレビ局が謝罪した事件がありました。ギャンブル依存の人がパチンコやスロットをやっている最中に意識がぼんやりしたり、途中のことを憶えていないのなら、てんかんを疑ってみるべきです。(運動機能が障害を受けないてんかんもある)。

精神病院に入院すると一度は脳波検査を受けるわけですが、脳波を取っている最中にストロボによる光刺激を受けます。あれはてんかんの検査にもなっています。発達障害の専門医によれば、この光刺激に対する反応は(アスペルガーなどの)発達障害の判定にも有用だそうです。(当然それだけを頼りに診断しているわけではない)。

アルコール性てんかんの発作で危険なのは、発作で倒れるときに頭などを打って怪我をすることです。倒れないように支えて、寝かせてあげてください。また口が痙攣している場合には舌をかみ切ってしまうことがあるので、ハンカチなどを押し込んで防ぎます。ネクタイなどを緩めて息を楽にさせ、発作が収まるのを待ちます。長く発作が続いたり、熱が出たり、興奮が収まらない場合には救急車を呼びます。

運転免許の欠格条項も見直されており、服薬で病気がきちんとコントロールできていれば、専門医の診断を受けて運転免許を取得することも可能です。てんかん持ちであることがバレるのが怖いから、という理由で医者を避けていると、日常生活の思わぬところで事故につながります。

僕はスポンシーのてんかんについて無知であったために失敗したことがありました。てんかんの有病率は0.5〜1%だそうですから、数十万人は存在します。依存症の人には(アディクションの対象が何であれ、またおそらくACの人たちにも)てんかんの人が通常より多いように思われます。てんかんに対する最低限の知識だけでも広まって欲しいと思います。

特に派手な発作のないてんかんが要注意です。もしあなたが、突然ぼんやりしてしまう人(意思疎通が悪くなる)や、日常生活で突然どっか行っちゃうなど、なんか妙な行動をする人を相手にしているのなら、「ひょっとしたらてんかんかも」という視点を持つことが大事です。

何に対して無力?

ステップ1で何に対して無力を認めるか?

昨年の回復研で、「ステップ1では何に対して無力を認めるのか?」という質問が出ていました。
たまたまその時ステップ1・2のスピーカーを務めていた僕に回答が振られたので、「アルコールです」と答えておきました。

回復研の集会に参加された方でこの雑記を読んでいる人は少ないとは思いますが、ちょっとここで補足を書いておこうと思います。

AAのステップ1はこうなっています。
1. We admitted we were powerless over alcohol - that our lives had become unmanageable.
私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。

ステップ1に取り組む人に求められていることは、アルコールに対する無力を認めることで、他のことに対する無力ではありません。

そもそも人間とは様々なことに対して無力です。例えばこの一ヶ月、僕らは大量の水(津波)に対していかに人間が無力な存在であるか思い知らされました。また別の例を挙げれば、僕は目の前の赤信号を青に変える力すら持ちません。信号を青に変えてくれるのは時間の経過であり、僕自身は赤信号に対して無力です。僕の力では津波も赤信号もコントロールが及ばないのですから。

赤本のステップ1では、人は様々なことに対して無力であることが述べられています。しかしそれは「無力であるとはどういうことか」を説明するための文章であって、様々なことに対する無力をステップ1で認めろと言っているわけではありません。「他の様々なことと同様に、アルコール<にも>あなたの力が及んでいないのだから、ともかくアルコールに対する無力だけは認めなさい」というわけです。

他の12ステップグループのステップ1はどうなっているでしょうか? たいていどこでもステップ1は
We admitted we were powerless over ○○○
となっていて、○○○の部分が対象に合わせて変更されているだけです。

アラノンではAAと同じ
We admitted we were powerless over alcohol
です。家族は酒を飲んでアルコホーリクになっているわけではありませんが、同じように病んでおり、また同じようにアルコールに対して無力です。

その他のグループも並べてみましょう
NA - addiction (薬物使用)
ナラノン - the addict (アディクト本人)

GA - gambling (ギャンブル)
ギャマノン - the problem in our family (家族が抱える問題)
OA - food (食べ物)
ACA - the effects of alcoholism or other family dysfunction (アルコホリズムもしくは機能不全家族からの影響)

powerless, but not helpless という言葉があります。自分では無力なのだが、なにかの力によってその問題は解決できるというわけです。その力は自分を越えた大きな力(ハイヤーパワー)です。僕らはステップを経れば問題を克服できます。しかし、ステップを経ても自分そのものはなお無力なまま残ります。

家族(奥さん)の立場で言えば、夫のアルコール(ギャンブル)に対して無力です。コントロールが及ばないので解決できません。また夫のアルコール(ギャンブル)によって奥さん自身が被った影響に対しても、なすすべがありません。それらを解決できるのは、ハイヤーパワーです。

自分では解決できないからこそ「無力」です。自分の力の及ぶ問題に対して無力を認めてしまうと、問題が解決できなくなってしまいます。

ステップ1の文章には続きがあり、それは僕らの人生が手に負えなくなったことを認めろと言っています。その原因はアルコールです。その真の原因は僕らの霊的な病(性格上の欠点)です。だから、ステップ1で「性格上の欠点」に対しても無力であることを認めるべきだ、と言う人もいます。さすがにそれは違うでしょう。

性格上の欠点がつまびらからにされるのは、ステップ4・5の棚卸しを経てからです。そこまで進まなければ性格上の欠点が何かは分かりません。ステップ1ではまだそれが何か分かっていません。対象が分からないものに対して無力を認めることはできません。ステップ1で性格上の欠点に対しても無力を認めるべきだと要求するスポンサーは、スポンシーにできないこと要求しているわけです。

「ステップには順番があります。あなたにはアルコール(ギャンブル)以外にもいろいろ問題を抱えていることは分かっています。けれどそれについてはもっと先へ行ってから取り組むことにして、今はアルコール(ギャンブル)のことに集中しましょう」

というのがステップ1をガイドするときのスポンサーが取るべき態度だと思います。

ビッグブックのやり方分類

AAテキスト(ビッグブック)を使ったステップのやり方について、分かる限りで分類を試みてみました。

1) 「バック・ツー・ベーシックス」
Wally P. の "Back to Basics" や、第1回ビッグブックの集い研修会で使われた「バック・ツー・ベーシックス」(ワリーさんとは別著者)。このフォーマットが日本で一番流行ったのは2003年。これを使っている人たちは、その多くが後述のビッグフットに移行してしまいましたが、一部にはこのフォーマットを使い続けている人がいるそうです。

2) 「ビッグフット」
AA四谷ビッグブックグループのメンバーを中心に作られた「ビッグフット」フォーマット。2004年前半は会場に毎回100人近くを集めるほどの人気を博しました。AAミーティングでフォーマットを使うことの是非が議論を呼びましたが、常任理事会はフォーマットの利用には反対しないものの、一部のAAメンバーの解釈がAA全体の意見だと誤解されかねないので、AA外部での使用(病院メッセージなど)は謹んで欲しいという要請が出されました。その後このフォーマットの利用者は減ったものの、現在でも水曜日のメリノール宣教会での会場で地道に使われています。

3) 「ドゥー・ザ・ステップス」
アメリカから日本に戻ってきたメンバーSさんが広めたやり方。ドクター・ボブからの流れを汲むという。2泊3日程度で集中的にステップの受け渡しと実践が行われる。使われるテキストはビッグブックのみ。終わった後に棚卸し表を燃やしたり、伝承者以外に内容が知らされないなど秘儀的な要素がある。前述のビッグフットがビギナー向けのフォーマットだったのに対し、それを終えた人が本格的にステップに取り組むために、両者を組み合わせて使う人が多かった。現在でもこのやり方を愛する人々は一定数います。

4) 仙台方式
米軍三沢飛行場に勤めていたメンバーが受け取ったステップ。その後この人が仙台に移って広まったためにこの呼び名があります。東京のアラノンメンバーの一部にも広がっているとか。中身について知りたければスポンシーになるしかないという秘儀的な要素があり、内容についてはよくわかりません。

5) 大崎(東北)

東北のRさん、大崎在住の英国人Jさんが中心となり、毎年「ビッグブック・ラウンドアップ」という一泊二日の研修が行われていました。2003年の資料で第7回とあるので、ずいぶん前から開かれていたようです。その後スタッフ不足で第8回を最後に開かれていません。内容については僕は行ったことがないのでよくわかりませんが、資料の一部を入手して僕のスポンシーの一部に試したことがあります。どれほど広がったかわかりませんが、その後日本のBBムーブメントの屋台骨を支えた人の多くが、一度はこの大崎BBラウンドアップに参加した経験を持つことは特筆に値します。

6) Sさんのやり方
ステップがない日本のAAに絶望してアメリカに渡ったというAAメンバーSさんが、日本に持ち帰ったやり方(彼は東京タワーグループを設立している)。基本は後述のJ&Cですが、彼独自の視点が加えられ独特のものになっています。また琉球ガイヤから現在大阪に戻っているPさんの寄与も大きいとか。♭代々木や神奈川のつくし野グループを中心に、池袋のウェルカムグループあたりにこれを受け継ぐ人が多い。四谷BBから始まった流れと双璧をなす、大きな流れの一つです。

7) ジョー・アンド・チャーリー(J&C)
ジョー・マキューとチャーリー・Pの二人によって、ビッグブック・スタディという週末2日のセミナーが開かれており、これを録音したテープが広まったことがジョーの名前を皆に知らしめました。このセミナーによって影響を受けた人は30万人以上と伝えられています。ジョー・マキュー(オールド・ジョー)亡き後は、ジョー・マッコイ(ヤング・ジョー)がその代わりを務めて継続していましたが、ヤング・ジョーが病に倒れてからは開催されていないそうです。アメリカ人メンバーのDさんあたりが日本に持ち込んでいるようです。このやり方をしている人は「自分はジョー・アンド・チャーリーのやり方だ」と言わないところが特徴かも。

8) ジョーのステップ

前述J&Cの片方ジョーのステップのやり方。J&Cとは細かいところが違っています。依存症からの回復研究会(回復研)はこのやり方を広めることを目的としています。AA内部では意外と広まっておらず、AA以外の12ステップグループへの展開が目立っている気がします(それがジョーのステップそのものであるかはわかりませんが)。このやり方を依存症の施設のプログラムとして体系化したものが「リカバリー・ダイナミクス(RD)」なので、AAなどのグループの中で使う場合はRDとは呼びません。

ざっと見渡しただけでもこれだけのバリエーションがあります。しかし知らない人にとっては、みんな一つのやり方に見えるようで、「ビッグフット」も「バック・ツー・ベーシックス」も、♭代々木も回復研も、区別はつかないようです。しかし、中身はかなり違っています。共通点は、みんな12ステップのやり方をビッグブックに求めることであり、同じようにスピリチュアルな目覚めを体験することでしょう。

「うちでもビッグブックをやっている」という声を聞くことがありますが、その多くはミーティングでビッグブックを読み合わせて普通のテーマミーティングをやっているに過ぎません。バリエーション(違いが)あると言っても、ビッグブックに従う以上欠かせない共通要素はいくつかあり、それを欠いてはビッグブックのやり方とは呼べなくなってしまいます。また自分のやり方がどれか分からない人は、スポンサーからさらにスポンサーへとたどっていけば、上の八つのどれかにたどり着くと思います。もし僕の知らないやり方をやっている人があったら教えてください。訂正情報も歓迎です。

今、日本のAAでビッグブックのやり方が広がっているのは関東だけと言っても良い状況です。東北や僕のいる長野、京都や中四国で、回復した人が小集団を作っていますが、それだけです。全国展開はこれからでしょう。また、AA以外の団体の状況については詳しく知りません。当然AAでのバリエーションが、AA以外のところにも反映され、いろいろなやり方が伝わるでしょう。

バリエーションごとの細かな違いを気にする人もいますが、僕はやり方の違いについてはそれほど気にしていません。

科学的とは

疫学調査とはどういうものか。

1960年にアメリカのダールという研究者が、塩分摂取量と高血圧症の発症率に正の相関があるという疫学的調査の結果を発表しました。この相関はきれいな直線を描いていたために、強い説得力がありました。


成人病(現在の生活習慣病)という概念を確立させたのはアメリカの保険会社です。それまで高血圧は体には悪くないと考えられていたのですが、彼らは高血圧の人が早死にする(従って保険金もたくさん払わねばならない)ということを発見したのです。業績を上げるためには高血圧の人を減らす必要があり、高血圧の原因探しが行われていました。そんなところにダールの論文が登場したのです。

このため、高血圧や脳卒中を減らすために「減塩」が言われるようになりました。

さらにダールはラットを使った動物実験も行いました。ラットに塩分を大量に与えると、一部のラットは高血圧になります。そのラット同士を掛け合わせると、さらに重症の高血圧になる子孫が作り出されました。そんなラットでも減塩の食事療法をすると血圧が正常に戻りました。

この結果、高塩分→高血圧(→脳卒中による死)という図式がなりたつと見なされました。

しかし、現在ではダールの業績のかなりの部分は否定されています。ダールの用いた塩分摂取量のデータの信頼性が低かったこと。塩分摂取量が低い未開民族の平均寿命が40才にすぎない例もあること。ラットを使った研究は塩分感受性(塩分を摂取すると高血圧になりやすい体質)が遺伝することを示したのみと解釈されています。

塩分量と高血圧の関係を調べる疫学調査はダール以降も続けられました。そのうち最大のものがINTERSALT研究です。これは32カ国にまたがった大規模な調査でした。その結果、塩分摂取量と血圧には相関があるもののそれは弱く、高血圧症に対する塩分の重要性は低いことがわかりました。国が大規模な政策を行って国民全体に減塩を呼びかける効果は否定されました。

しかしながら、塩分を取ると高血圧になりやすい(塩分感受性の高い)体質の人がいるのも事実で、逆に高血圧症の人の90%はこの体質であることもわかっています。高血圧予防のためには、この体質を持つ人を発見し集中的に減塩指導した方が効果的であることから、この体質を発見するための検査方法へと関心が移っています。

現在では減塩政策推進派の人たちの主張は「高血圧予防」ではなく「動脈硬化予防」など他に力点を置いたものになっています。減塩政策そのものは現在も続いており、アメリカのFDAは食塩を「食品添加物」として扱って食品に塩分量の表示する政策の準備に入っていると伝えられました。塩分感受性の高い人は自ら塩分摂取量を気にしなければならないので、この政策は間違いでありません。

言いたいことは、疫学が「高塩分→高血圧」という図式を発見し、さらにそれを「高塩分+塩分感受性→高血圧」に修正するのに30年ほどの時間を要しているということです。その30年のあいだに「高塩分→高血圧」という図式が広がってしまい、簡単には修正が効かなくなってしまいました。

全国民に低塩分を求める政策は成功していません。薄味の料理が体によいことが分かっていても、やっぱり濃い味のほうがおいしく感じるものです。塩分を気にしながら料理するのは面倒です。こうしてベネフィットが少なくコストが大きい努力は嫌われ、それが減塩の価値を軽んじさせます。実際に減塩する人は少なくなり、結果として塩分感受性の人が早死にすることを防げていません。それよりは選択と集中を行った方がいい。

若い頃に「高塩分→高血圧」という教育を受けた人は今でもそれを信じています。それを「高塩分+塩分感受性→高血圧」に修正することは容易ではありません。

疫学というものはとても役立つ学問ですが、結果の解釈によっては大きな間違いにつながることもあります。例えば初期のAIDS患者にはたまたま同性愛者が多かったため、AIDSと同性愛の関係が想定されました。このため異性愛者に対する対策が遅れ、AIDSの蔓延が防げなかったという反省があります。また、エイズは同性愛者がかかる病気という偏見はなかなか取り除けませんでした。

疫学を扱う人は言うことが世間に大きな影響を与えると分かっているために、とても慎重な物言いをします。確定的なことを言うには膨大なデータの積み重ねと長い年月が必要とされることが分かっているからです。

「ただちに健康への影響はない」というのはデータから言えることがそれだけだからです。しかし学問というものは、それ自体がなかなか金を生み出さないだけに、食っていくために確度は低くても確定的な物言いをしなくちゃならない学者さんもいるのでしょう。そうしてテレビ向けに絞り出された「危険だ」「安全だ」という話が一人歩きしています。それにみんなして振り回されて楽しんでいるのが、この非常時の国民の娯楽なのかもしれません。

震災への反応と自閉性

大地震から一ヶ月経ちました。
今回の震災報道に対する反応と、自閉的特性との関係について、すこし気がついたことを書いてみたいと思います。

この一ヶ月、テレビでは被災地の悲惨な状況が繰り返し繰り返し放映されました。新聞や雑誌も同様です。それを見る側が二次的な精神的被害を受けるぐらい、たくさんの悲劇が伝えられました。

仕事を休んで、あるいは極端な話だと仕事をやめて、現地にボランティアに行くという話を聞くようになりました。そうしたい気持ちは僕にもよくわかります。けれど、いろいろな責任を引き受けている以上、日常生活を放り出して被災地に駆けつけるわけにも行きません。だから「俺はボランティアに行く。だから現地に持っていく救援物資を提供してくれ」と言われると、その行動力に拍手するとともに、多少の嫉妬も感じてしまいます。

阪神の時と違い、今回の震災は平日昼間に起きたため、学校にいたおかげで自分は助かったものの親を失った子供たちが多かったそうです。あるいは、捜索活動では幼い子供たちの遺体も次々見つかっています。そこから距離も遠く安穏とした生活を送りながら電力不足や不景気の心配をしている僕も、そうした報道に接すると、思わず胸がぎゅっと締め付けられ、なにもできない自分が無力で無意味な存在に感じてしまいます。(そしてその無力感は著しく自己評価を下げるものです)。

だから、いてもたってもいられずにボランティアに飛び出していく人たちの気持ちもよくわかります。それができない自分は、(金がないにもかかわらず)思わずコンビニの募金箱に札を突っ込んでしまったりするわけです。

おそらくそれは(人に対する思いやりの気持ち以上に)自分にたいしての自己治癒の試みなのだと思うのです。効力感を求めての行動なのではないかと。人を助けることが相手以上に自分自身を救うことは、改めて指摘するまでもないでしょう。

苦難を伝える報道に接する一方で、多くの人は日常生活を続けざるを得ません。被災した人たちのために大したことができない自分をみれば、決して明るい気分にはなりようがありません。さまざまな「自粛」は、決して強いられた結果ではなく、人の心の自然な反応だと言えます。

AS(自閉症スペクトラム)の人たちが多い施設では、入所者の人たちが震災の報道にあまり興味を持たず、淡々と変わらぬ生活を送っていると聞きました。また、ASという診断を受けるほどではないものの多少その傾向があると自覚している人たちからは、ボランティアに行く人の気持ちに共感しづらいことや、いくら募金したらいいのか悩んでしまう心情を吐露してくれた人もいました。ボランティアに行く人の気持ちはおそらく上述のとおりだし、募金というのは気持ちを金銭に換えたものなので「相場」なんてものはありません。人が募金するから自分もする・・というのは、ASの人が学習によって身につけた社会性のひとつでしょう。

震災(報道)への反応を見れば、その人の自閉性が見えてくると思います。ネットを見回してみれば、様々な例に出会います。

例えば、震災直後はテレビやラジオのCMも自粛されて公共広告機構のCMばかりが流されていました。「ぽぽぽぽぉ〜ん」ばかりでガマンならずテレビ局ばかりかACにまで抗議した人の姿は、普段と違う避難所の環境に慣れずに騒いでしまい自家用車で過ごさざるを得ない自閉児の姿に重なります。(おかげでCMの終わりの「えぃすぃ〜」が消えちゃったよ)。

「自粛」の影響で自分が営業的被害を受けたわけでもないのに、自粛に抗議している人たちもいます。自閉の人たちは日常の枠組みがしっかり保たれた生活が続くことに落ち着きを見いだすのですが、人々が急に普段と違った行動を取りだしたことで混乱している姿が見えてきます。

もちろん、自閉的であることがいけないことだ、と言っているわけではありません。共感性が強い多数派とは違った苦労があると言っているだけです。

繰り返して言いますが、募金はしたくてするものであって、したくなければしなくてかまわないものです。けれど、ASの人たちにとって、他の人がすることにあわせて自分も同じことをするという社会性を身につけるのは大切なことです。学習と思考によって、共感と同じ効果を狙えばいいのだと思います。

原発と霊性

日本の交通事故死者数は長らく1万人/年を越えていましたが、09年は5千人を割るまでに減りました。これには安全技術の進歩や飲酒運転の厳罰化が寄与しているのでしょう。交通事故死というのは事故後24時間以内に死亡した人をカウントしています。だから救急医療の進歩によってこの24時間を生き延びる人が増えたことも死者数減少に寄与しているに違いありません。現に事故後1年以内に亡くなる人をカウントすると1万人を越えたままです。実のところ事故死はあまり減っていないのかも知れません。

自動車というのは危険なシステムです。

自動車事故は運転技術が未熟な人が起こす、と思っている人がいます。初心者に事故が多いのは事実ですが、経験走行距離と事故発生率の関係を示したグラフは懸垂線を描いています。つまり走行距離が伸びるほど事故は減っていきますが、どんなに経験を積んでもある程度以上は減りません。これは人の技量ではなく、自動車というシステム自体が危険を抱えていることを示しています。

危険と分かっていても、経済や生活のために自動車は欠かすことができません。これが自動車社会の抱えるジレンマです。そのことは社会的なコンセンサスが得られています。だからこそ、年1万人という死者を(社会的には)許容しつつ、メーカーにはより安全な車を作るように圧力がかかり、運転者には事故を減らすように(例えば飲酒運転をしないように)圧力がかかります。

これらはすべて「危険と分かっていても、欠かすことができない」というコンセンサスの上に成り立っています。これは極めて現実的な解決策です。

話が少し逸れますが、ビル・Wは「霊的(スピリチュアル)であることは、現実的であることだ」と述べており、その方針をAAの運営にも適用したことがAAの成功要因の一つとなりました。僕も「霊的であることは現実的であること」という考えには深く共感しています。この自動車に関する社会のコンセンサスも霊的なものです。

さて、今回の原発事故の背景には、原子力産業や行政が「原発ムラ」とでも言うべき閉鎖的な社会を作ってきたことが挙げられています。閉鎖的社会は外からの批判を受け付けないもので、それが必要な安全策が講じられない原因となったという指摘です。

原発ムラの人たちは、原発は絶対安全だと言い続けてきました。しかし装置産業に関わる身として、絶対安全な機械なんて人間には作れないことは断言できます。トヨタのような日本最高の企業にすら絶対安全な自動車は作れていません。「絶対安全」というほど白々しいウソはなく、そのウソは想定外の事態によってあっさり暴かれてしまいました。

元東大総長の小宮山宏という人(原発ムラ住民)が新聞のインタビューに答え、そうした原発ムラの閉鎖性が形成された原因に、原発反対派の存在を指摘しています。原発反対派の人たちもまた意固地であり、彼らは原発をゼロにするという回答以外を受け付けません。公開した情報が原発叩きのネタにしかならないのなら、どうして原発ムラの人たちが情報を公開したいと思うでしょうか。そうして情報が隠蔽され、外部からのチェックを欠いた状態で危険は温存されてきました。原発ムラの人たちが責められるべきだとするなら、原発反対派の人たちも同様に今回の事故に対する責任を感じるべきです。

原発ムラの人たちも、原発絶対反対の人たちも、等しく非現実的です。つまりどちらも霊的でないということです。原発も自動車同様に「危険だけれど受け入れざるを得ないもの」です。他の様々な技術同様に、そうした社会的コンセンサスが形成される必要があります。その上で、どうやったらこの危険なものを少しでも安全に使えるかという議論がようやく成り立ちます。

福島第一原発では、非常用のディーゼル発電機が二系統とも原子炉の海側に設置されていて、両方とも津波で破壊されました(燃料タンクも津波でさらわれた)。信じられない設計です。片方を山の上に設置するぐらい誰でも思いつきます。外部電源も二系統用意されていたのに、直近の鉄塔が倒壊したために両方失われました。どちらも原子力の問題とは言えません。原子力の専門家ばっかり集まってやっているから、こういうマヌケなことが起こるのです。しかし、そういうオープンな議論ができる下地ができていないことが背景にあります。

原発は危険なものです。そのことは現在多くの人たちが生で感じ取っています(その生々しさは交通事故で親しい人を亡くした人の感じ方と同様です)。一方で、自動車同様に原発も現在の僕らの生活に必要なものです。東京電力の原発依存度はたかだか2割ほどですが、その2/3が止まっただけでこの騒ぎです。関西電力は5割(その原発は大阪京都奈良神戸から100Km以内にあったりする)、九州や北海道でも4割です。関東では電力不足で夏のエアコン使用を遠慮しなければならず、経済活動の停滞で今年のGDPはマイナス成長になるという予測もあります。就職戦線はいままで以上の氷河期となるでしょう。僕らは原発がない生活を次第に生で感じ取りつつあります。

ビル・Wは「アルコホリズムで死ぬ人をゼロにする」という目標を掲げませんでした。なぜならそれは現実的ではないからです。そのかわり、一人でも多くのアルコホーリクを助けるという理念を掲げました。霊性とはそういうものでありましょう。

「私たちの頭が神と共に雲の上にあったとしても、両足はしっかりと大地に着いていることを、神は望んでいるのだと、私たちは信じるようになった。それこそが私たちと仲間のいるところ、私たちの活動が行われるべき場所である。それが私たちにとっての現実なのだ」(AA p.189)
プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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