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県の薬物依存の調査

長野県精神保健福祉センターで、「薬物依存の相談機関における薬物依存症の相談・支援の実態」という調査報告を出しています。
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/medicine/chair/pmph/shinshu-kouei/zassi2011_5_1/23.pdf


この調査はダルクに集中している薬物依存の相談の現状を把握するのが目的です。これを見ると、薬物依存症者の姿もすこし見えてきます。

当事者(本人)の年齢は20代〜30代が多く、40代からはぐっと減ります。これは以前県外のダルクスタッフの方にうかがったのですが、薬物(特に覚醒剤)の人は早くに亡くなってしまうケースが多く、なかなか40才まで生き残れないのだそうです。だからダルクの入所者で40代以降の人は少なくなるわけです。

薬物の人は若い人が多いのですが、それにはこうした事情があるわけです。

また、薬物というと覚醒剤を思い起こしますが、実際に問題となっている対象薬物を見ると、(たしかに覚醒剤も多いものの)、次に目立つのは「向精神薬」です。つまり処方薬の乱用・依存です。町中の薬局で睡眠薬や安定剤が比較的簡単に変えた時代があり、その頃は売薬の乱用が多かったわけですが、規制が厳しくなった昨今は医者が出した薬の乱用が多くなっています。

薬局で買いにくくなったのはブロンなどの鎮咳剤も同様。有機溶剤(シンナー)の規制も厳しくなったと聞いています。

医者が出した睡眠薬や安定剤は危険なのか? いや、決してそんなことはありません。今の向精神薬の安全性は高いものです。・・・ただしそれは、「普通の人にとっては」という限定条件付きです。

一つの化学物質(例えばアルコール)の依存症になった人が、別の化学物質の乱用や依存症にもなりやすいことはもう50年も前から言われていることです。アル中になって酒はやめたけれど、医者の出した処方薬の乱用でダルクに入所することになる・・という話もふつうにあります。

この調査で一つ不満なのが、「初めて使用した薬物」の選択肢に「アルコール」が入っていないことです。この質問の選択肢に「アルコール」を入れればそれがナンバーワンになるはずです。最近大麻をゲートウェイドラッグと呼んで大麻取り締まりを重要視する風潮が生まれてきていますが、実際には未成年の飲酒こそがまさにナンバーワンのゲートウェイドラッグなのです。

県では薬物のパンフレットも作っています。

「薬物の問題でお困りのあなたへ」
http://www.pref.nagano.jp/xeisei/withyou/inform/yakubutupannf_cl.pdf
「ご家族の薬物依存症でお困りの方へ」
http://www.pref.nagano.jp/xeisei/withyou/inform/yakubutupannf_fa.pdf
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テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

ビッグブックの分かりにくさ

前回、ビッグブックこそがAAの12のステップを説明した本である、という話をしました。だから、AAの12のステップについて知りたければ、ビッグブックを読むのが一番です。

ビル・Wもドクター・ボブも、オックスフォード・グループの一員で、初期のAAはオックスフォード・グループの一部として活動していました。そこには6つのステップからなる「教義」がありました。それがアルコホーリクを回復させるのに十分な効果を持っていたなら、彼らはオックスフォード・グループに留まったままで、AAは誕生しなかったでしょう。

彼らは新しいものを作る必要がありました。当然痛ましい失敗もありました。ビルとロイスの家の居間で自殺したアリコホーリクもいました(AA p.24)。彼らは失敗したやり方を捨て、うまくいった方法を残しました。そうやって試行錯誤と取捨選択を経た結果、完成したのが「12のステップ」であり、それを記録したのがビッグブックです。だからビッグブックには彼らの失敗についても書かれています。僕らはそれによって、「何をすべきか」だけでなく「何をしてはいけないか」も学ぶことができます。(だから僕らは車輪を再発明する必要はありません)。

ではなぜこの本がこんなに小難しいのか。それは当時はテレビがなかったからだ、とジョー&チャーリーは言っています。テレビがない時代に人々は楽しみを活字から得ていました。だから今よりずっと本が読まれていた時代であり、人々の教養もずっと高かったわけです。ウィリアム・ジェイムスの『宗教的経験の諸相』がベストセラーになる時代です。だからまっとうな本の文章は格調高く(つまり小難しく)なくてはならなかったわけでしょう。

僕らが手にするビッグブックは現代の日本語を使っています。つまり僕らは翻訳というフィルターを通してビッグブックに接しているので、その古めかしさはダイレクトには伝わってきません。しかし、現代のアメリカのAAメンバーにとってはその古さは当惑の対象だそうです。彼らがどう感じているか、日本人の僕は想像するしかありません。当時の日本の文章はどうだったでしょうか。坂口安吾が1935年に書いた文章です。
青空文庫:文章の一形式 坂口安吾
(旧仮名がよけい古さを感じさせますが)。

ビッグブックを現代的にもっと分かりやすく書き直すべきだという意見もありますが、それが実現することはないでしょう(理由はビッグブックの前書き p.xv に書かれています)。AAやビッグブックが誕生した歴史を調べてみると、それはいくつかの奇跡と言っても良い偶然が積み重なった結果であることがわかります。そして、奇跡は狙って起こせることではありませんから、現代英語で新しくビッグブックを書き直しても、それがオリジナルと同じ効力を持つという保証は誰にもできません。

であるにしても、ビッグブックの分かりにくさは現実的な問題です。そこでビッグブックとは別に12ステップの解説書が出版されています。AA本体はそうした解説書を出すことを拒否しているので、そうした本はすべてAA以外から出版されています。日本語に翻訳されたものだけ挙げても、回復研から出されている『「回復」のステップ』(赤本)、『ビッグブックのスポンサーシップ』(緑本)。ジャパンマックから『スツールと酒ビン』、秋には "A Program For You" も訳出されるとか。

こうした本はビッグブックの代わりになることを狙っていません。だからまずビッグブックを読むように、と巻頭あたりに必ず書いてあります。

そうしたビッグブックの使いにくさは、一対一のスポンサーシップによって補われています。人間対人間が基本であり、本は「AAメッセージの一貫性を保つ(AA p.xxx)」ための脇役に過ぎないとも言えます。

ではAA以外の12ステップグループの基本テキストについてはどうか。それについてはまだ僕にもよく分かりません。NAのホワイトブックについては、いつか薬物のスポンシーと読み合わせて分かち合ってみたいと思っています。先日7千円ほど使ってGAの日本語になっている本を一通り買ってみました。しかし、そういったものに手をつけている時間がないのが僕の問題です。ただ、薬物のスポンシーも、ギャンブルのスポンシーも、AAのビッグブックで何とかなっています。

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12のステップ

AAの12のステップはここに掲載されています。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/fsteps.htm

この短い12個の文章を読んだだけで、12のステップを理解できる人がいたとすれば、その人は超能力者か何かでしょう。というのも、この短い文章は言ってみれば「本の目次」みたいなものだからです。

目次を読んだだけで、本の内容もなんとなく理解できてしまう、ということもあります。だがそれで知ったかぶりをして本の中身について語ったりすれば、いずれどこかで大恥をかく羽目になります。

12のステップについても、人々がこの短い12個の文章から様々な想像を巡らせています。こうした想像が12ステップを巡る混乱が作り出された第一の原因でしょう。

内容を理解するためには、目次だけでなく中身も読む必要があります。でも、いったいどんな本を読んだらいいのか。実はAAには『12のステップと12の伝統』(通称12&12)という本があり、前半の12章が12のステップに、後半の12章が12の伝統にあてられています。そのせいで、

「この本が12ステップの解説書である」という誤解

が生まれてしまいます。実はこの本は12ステップの解説本ではありません。

12&12はAAの共同創始者のひとりビル・Wの著作です。12のステップはAAとほぼ同時に誕生し、アルコホーリクが酒を飲まずに生き残る指針を提供しました。それから10年以上が経過し、様々な経験が積み重ねられる中で、どうやら「AAグループ」が生き残るためには12のステップとは別の指針が必要だと分かってきました。そのためにまとめられたのが「12の伝統」です。

ビルは12の伝統をAA全体に広めようと努力し、そのために本の出版が企画されました。しかしその本は人気が出ないだろうと予測されました。というのも12の伝統そのものに人気がなかったからだと伝えられています。アル中は例え酒を飲んでいなくても、自分のやっていることにヨソから口出しされることを嫌います。だから新しい指針を押しつけと感じたようです。

そこで当時の理事たちは知恵を絞り、12ステップに関する文章も追加すれば、本を手にとってもらえるだろうと考えました。そうしてステップと伝統がカップリングされた本ができあがったのです。

しかし、ビルは新たに12ステップの文章を書くに当たってビッグブックとの重複を避けました。したがってこの12個のエッセイ(12&12にはこれがessayであると書かれています)には、ステップに関する重要な情報が欠落しています。例えば問題の本質として表現される「アレルギー」については、12&12にはほんのわずかしか触れられていません。12ステップのハイライトであるステップ4の棚卸しの書き方や、ステップ9の埋め合わせのやり方も書いてありません。

12&12におけるビルの文章は優れたものだと思います。それには彼の十数年にわたる進歩が反映されています(例えばその間にビルはカール・ユングと書簡を往復しており、その内容の反映があるといいます)。しかし、どうしても12&12は「ビッグブックの注釈集」みたいな様相を帯びてしまいます。ステップの基本を押さえた上で、より深く学ぶ人には適しているでしょうが、最初から12&12に取り組むのは迷路に迷い込むことになります。注釈ばかり読んで本文を読まないようなものです。

このように『12のステップと12の伝統』がステップの本だと思われ、皆がそれを手にしたことが、ステップに関する混乱が生じた第二の原因でしょう。

結局のところ、AAの12のステップを理解するためには、そのために書かれた本であるビッグブックを読むしかありません。ビッグブックがAAで basic text (基本的な教科書)とされるゆえんです。しかし、このビッグブックが決して分かりやすい本とは言えないことも困ったことなのですが、それについては次回。

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スポンシーの数

僕にはアクティブな(=ステップに取り組んでいる最中の)スポンシーが現在4人います。一人は現在ステップ9の埋め合わせ中、もう一人はステップ4・5のところ、もう一人は最近始まったばかりでまだステップ1が続きそうです。残る一人はステップワークは別のスポンサーとやっており、僕はソーシャル・スキル担当です。

正直これでも忙しく、一人ひとりのスポンシーに十分な時間を割けているとは言えません。もっとじっくり相手をすべきだと思いながらも、そうできずにいることを申し訳なく思っています。週末は土日どちらか(あるいは両方)スポンシーと時間を過ごし、平日の晩を使うこともあります。4人のうち2人は毎晩電話で定期報告をしてきます(しなくてもいいんだけど)。

要するに引き受け過ぎなのです。普通に働きながら、空いている時間を使ってスポンサーシップをやるのなら、同時進行で2~3人が限度でしょう。あるアメリカのAAメンバーは生涯で八十数人のスポンシーを持ったそうです。その人がどれぐらいAAで活動したか知りませんが、仮に30年だとすれば、1年平均で2~3人。まあそんなものでしょう。

人の時間は有限であり、仕事を増やしすぎれば質が落ちることになる。それはスポンサーシップでも同様です。

何十人とスポンシーを抱えている人もいるのだそうです。スポンシーの数については、ジョー・マキューはこう書き残しています。

「一人しかスポンシーを持たない人もいるが、10人、20人のスポンシーを持つ人もいる。しかし、スポンサーシップを成功させるには時間が必要である。果たして、それほど多くのスポンシーを抱えて、真の助けができるだろうか。私には、それがスポンサーのエゴのように見えることが多い。それに、多くのスポンシーを持つことは、他のアルコホーリクがスポンサーになる機会を奪うことにもなってしまう」(ビッグブックノスポンサーシップ、p.36)

同時にたくさんのスポンシーを持てば、ひとりに割ける時間はわずかなものになり、相手の助けになれなくなってしまいます。それはつまり「誰の助けにもなれなくなる」ということでもあります。「たくさんのスポンシーを持つ」ということが、その人のエゴ、思い上がりではないかという指摘は当たっているでしょう。

もう一つ、他の人がスポンサーをする機会を奪ってしまう、こちらのほうが問題のように思います。誰しもスポンサーとして最初は初心者で、次第に経験を積んで慣れていきます。どうせスポンサーを依頼するなら経験豊富な人に頼みたいと思うでしょうし、頼まれた方も自分がやるのが一番良いと思ってしまうものでしょう。しかし、それは単なる善であって最善ではありません。伝統一を引き合いに出すまでもなく、ひとりが突出しても全体の利益にはなりません。全体のレベルが底上げされてこそ、つまりスポンサーを引き受けられる人材が豊富に存在するほうが、全体の益になるのです。その点でも、スポンシーを引き受けすぎるのは個人のエゴです。

「どうやってステップをやったらよいか」を伝えるのがスポンサーです。しかし、そればっかりやっていると、他の人のチャンスを奪ってしまいます。次は「どうやってスポンサーをやったらよいか」を伝えて、他の人たちの活躍を応援できるようにならねばなりません。その点については僕もまだまだこれからです。

依存症になった原因は重要ではない

統合失調症は「破瓜の病」とも呼ばれました。破瓜(はか)とは思春期を示す言葉で、そのころに発病する人が多いからこう呼ばれます。

息子や娘が精神病になると、親は悩みうろたえ、病気になった原因を探そうとします。そして受験や就職の失敗、失恋などが原因だったに違いないという考えになることがあります。その原因を取り除けば子供の病気が治るのではないかと期待します。そこでもっと易しい別の大学に入学させたり、別れた恋人によりを戻してくれるように(親が)頼むケースもあるのだそうです。

もちろんそれで病気は治りません(そもそも因果関係が逆で、病気の発症が先に起こり、症状が原因で受験失敗や失恋が起きていているわけです)。

なぜこのような話を取り上げるかというと、どんな病気であれ、病気になったときに人はその原因を考え、見つけた原因を取り除くことで病気を治そうとするものらしいのです。それは不条理に対抗しようとする人の心の動きなのでしょう。

東北の大震災がなぜこうも辛いかと言えば、それが不条理だからです。なぜ東北の人たちが大切なものを失って苦しまなければならないか、その合理的な理由がないからです。もし東北の人が悪人で、悪事を働いた結果罰が当たったのなら、それは因果応報と諦めることも可能かもしれません。しかし、そこにいるのは無辜の人々です。

病気も同じように不条理なものです(もし悪人だけが病気になるのなら、病院と刑務所の区別がつかなくなります)。だから人は病気の原因を探そうとするのでしょう。原因つまり因果がわかれば、不条理を条理にすることができるからです。

だから当然、依存症の人は「私はなぜ依存症になってしまったのか」という問いを発することになります。

アルコール依存症ならば、酒を飲んだのが原因でしょう。しかし、同じように飲んでも依存症になる人もならない人もいます。その違いはおそらく(遺伝的な)体質でしょう。ではなぜ自分がその体質に生まれてきたか(遺伝だというのならなぜ別の親から生まれなかったか)、それに対する答えは得られません。

酒を飲んだ理由も人それぞれです。親がアル中でアルコールに親和性があったという人もあれば、仕事の疲れを癒すために、うつの自己治療で酒を飲み過ぎたという人もいるでしょう。

実のところ原因探しは役に立ちません。

確かに、依存症になる人・ならない人がいる以上、なった人には特異的な原因があるに違いありません。しかし、その原因は依存症の本質でもなければ、回復に役立つものでもありません。たとえば、ビッグブックでは原因論には立ち入っていません。12ステップという回復の道具は、依存症になった原因を扱わないのです。

アルコール依存症ならぬ「アルコール以前症」という言葉を使う人がいます。アルコールを飲み出す前から自分はどこか変だったと感じている人が、「だから自分はアル中になった」という理由を説明するための俗語です。でもそれは回復が難しい理由にはなりません。依存症は原疾患であって合併症ではありません。依存症の元になった病(あるいは原因)を探しても無駄なことです。

アル中の中には親もアル中という人もいます。ご自身はAC(アダルト・チルドレン)かつアル中という立場です。この場合、AAのプログラムとACのプログラムとどっちを先に取り組んだら良いか、と言えば「当然AA」です。ACのケアもする必要があるでしょうが、酒を飲みながら、あるいはいつ酒を飲み出すか分からない不安定な状態でACのことをやっても効果が上がるはずがありません。だから、しっかりと酒をやめることが重要であり、AAの12のステップを先にやるのは当然です。(ギャンブルの場合も同様ね)。

ACの人は傷ついているから、AAの12のステップに取り組めないのではないか、という心配をする人もいますが、まったく心配は要りません。いままでのスポンシーのなかには親がアル中という人もいましたが、彼らの

AC性がAAの12のステップに取り組む障害になることはまったくなかった

と断言できます。(むしろ問題になるのは発達障害のほうですがそれはまた別の話)。

もちろん身体的にひどい虐待を受けたケースでは話が別で、そんな場合には自助グループでなんとかしようとせず専門家のケア(カウンセリングなど)を受けてください。そういった重篤なケースを除けば、AAで十分回復してからACのことに取り組むという方針でオッケーでしょう。AC性を12ステップに取り組まない言い訳に使っている人は少なくありません。それによって一番不利益を被っているのはその人なんですけどね。

僕はACや共依存や○○ノンのミーティングにはほとんど行ったことがありませんが、そちらには(回復していない)依存症の本人が混じってしまっていて、物事を余計にややこしくしていると話に聞きます。むべなるかな、です。

ゲームプレイヤーの自閉的特性

Aileはなぜプレイ動画に「激怒」したのか? 「徹底交戦」ににじむゲームメーカーの怒り
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1106/10/news014_3.html魚拓

ニワンゴが運営するユーザー参加型動画共有サービス「ニコニコ動画」には、プレイ動画と呼ばれるジャンルの動画が多数アップロードされています。

プレイ動画とは、PCゲームをプレイ中の画面をキャプチャしたもの。他人がゲームして遊んでいる画面を眺めて何が楽しいのかは知りませんが、明らかな権利侵害であるにも関わらず次から次へとアップロードされています。アクションゲームならいざしらず、ストーリーが一本調子に進むゲームでは、プレイ動画の存在はゲームをするものの楽しみを大きく奪っています。

それでも多くのメーカーがトラブルを恐れてプレイ動画を黙認、あるいは削除依頼のみで済ましている中、ギャルゲーの新参メーカーAile(エール)代表のみやび氏は、あえて「徹底交戦」の道を選び、アップロード者を相手に民事訴訟を起こす、というのが記事の内容です。

で、プレイ動画の是非は脇へ置くとして、みやび氏が最近のユーザー層について語っているところがなかなかに興味深いので引用しておきます。

> 例えば伏線ってあるじゃないですか。今のユーザーの傾向として、伏線を伏線として読み取れないケースが多いんです。あからさま過ぎるくらいでないとダメ。

> あと物語に隙間があってもいけない。イベントとイベントの間に何があったのか、ちゃんと全部書いてあげないと「話が分からん」って言う人が出てくるんですよ。

> ―― 行間を読めない?

> 一を聞いて十を知るということがあまりないんです。僕はよく「想像の翼をはためかす」って言うんですが、それが出来ない。自分で考えようとしないで、何でも「公式」でないとだめなんです。

なかなかに自閉性を感じさせる話です。

ゲームに限ったことではなく、最近のテレビドラマにも似た傾向があり、伏線はあからさますぎるほどハッキリと呈示され、俳優の演技はオーバーアクションでわかりやすすぎ、ナレーションはくどすぎ・・。見ているこちらがバカにされているのじゃないかと感じるほどです。でも、そうでないとドラマが楽しめない人が増えているからこその表現なのでしょう。(韓流ドラマが流行ったのも同じ文脈でしょう)。

「自閉的特性を持った人が増えてきたのではなく、時代とともに社会が変わったために、そうした人が社会から押し出され目立つようになってきた」

というのが僕の持論だったのですが・・・。必ずしもそればかりではないのかもしれない、と思い直すようになってきました。

つまり、自閉的特性を持った人が、昔(数十年前)より増えてきている、ということもあるのかもしれません。(この1行はそうした特性を持った人のためにわざわざ追加している)。

映画「光のほうへ」

「アヒルの子」に触れたのであれば、「光のほうへ」にも触れておかねばなりません。

「アヒルの子」の主人公さやかの親はアル中ではありません。幼い頃の1年間に不幸なことがあり、その影響を後々まで引きずったにしても・・・客観的に見れば彼女の境遇は恵まれています。親も愛情あふれる親です。しかし親が差し出した愛情と、子供が欲しいと望んだ愛情の間にズレがあったわけです。いわば供給と需要のミスマッチです。

自分をアダルト・チルドレン(AC)だと自覚している人には、こうしたミスマッチ・タイプの人が実に多いように感じます。例えば親の金で大学まで出してもらっておいて、それで今ひきこもり同然なのは親が原因ですって言われてもどうよって気はするわけですが、あくまで「ACの問題は、親がどうしたかの問題ではなく、子供がそれをどう感じたかの問題」なのです。

「アヒルの子」の主人公さやかの物語は、ACの人がひたすら「行動」することで、主観の限界を突き破り、他者の視点を導入することで、自分がウソを信じていたことを知っていく物語でもあります。

ちょっと話が逸れるのですが、依存症本人も、その配偶者など家族も、あるいはACの子供の世代も、何らかのウソを信じています。どんなウソを信じているかはそれぞれに違いますが、何らかのウソを信じている点では共通です。そのウソはその人がそのままに(つまり回復しないままに)生きていくことを可能にしています。そのウソは、時にその人の信念ともなり、その人の一部ともなっています。回復とはそれを否定し捨てることでもあるので、当然に痛みを伴います。

痛みを伴おうが何だろうが、ともかく回復という出口があるのは良いことです。

映画「光のほうへ」は、そうした出口を持たないアダルト・チルドレンの映画です。

映画の冒頭、ティーンエイジャーの兄弟が登場します。二人は母親と同居しているのですが、この母は酒浸りでまるで頼りになりません。飲んだくれて帰ってきては、散らかりきったキッチンを引っかき回し、「私の酒がない! お前らが盗ったんだろう」と子供たちを責めます。挙げ句にキッチンの床に座り込んで寝てしまい失禁します。兄弟にとっては慣れた光景であるらしいのですが。

生まれたばかりの小さな末っ子の世話は、母親ではなく二人の役目です。お金がないので彼らは粉ミルクを万引きしながら懸命に幼い弟の世話をし可愛がります。そんな彼らが憶えたばかりの酒で酔いつぶれている間に、赤ん坊が死んでしまいます。その喪失感。映画はこの兄弟のその後を追います。

原題SUBMARINOの意味は、頭を水中に何度も沈める拷問の意味です。死にそうになると頭を引き上げられ、助かったと思うとまた苦しみの中に沈められる・・その繰り返し。

大人になった兄ニックは、母親と同じ飲んだくれになっています。刑務所から出所した彼は、ホームレス用のシェルターの世話になりながら、体を鍛えることと酒に溺れる生活を続けています。一方弟は結婚したものの妻を事故で失い、幼い息子と暮らしていますが、立派なシャブ中になっています。母親が彼にしたように、彼もまた息子に満足に食事すら与えられない生活になっています。

兄は弟を案じていますが、でも会いに行くことはありません。二人が再会するのは母の葬式。この映画ではバラバラになった家族を結びつける絆は人の死だけなのです。「ビールは安いからな」と言って兄は弟に遺産をすべて譲ってしまいます(そりゃ覚醒剤は高いよ)。でも、アクティブなアル中・シャブ中に金を持たせるとロクなことは起きないのはご存じの通り。

映画の結末にそこはかとない希望を感じる人もいるようですが、劇中の悲惨がその先も繰り返されないという保証はありません。水に頭を漬けられた人のように、もがき苦しみながらもなんとか生きようとする人々。希望のない状況の中でも人に思いやりを示そうと努め、しかしそれがさらなる悲劇を生み出していく連鎖。

日本映画のように、誰かが泣いたり叫んだり、説教するシーンはなく、淡々とストーリーが進行していきます。「物事の善悪を決めるのは人間ではない」というテーマで貫かれているかのように(たぶんそのとおり)。もちろんそうでなければ最後まで見られない映画になっちゃうでしょうけど。

これが実は福祉国家デンマークの映画なのです。いかに医療・教育・福祉が充実しようとも、恵まれない家庭で育った子供たちが、大人になって同じような家庭を作る。貧困が、低教育が、不健康が、暴力が再生産される。これがいわゆる「負の社会遺産」というもので、アディクションはそれに深く関わっています。

アダルト・チルドレンについて何か語ろうとする人には、ぜひ見ておいて欲しい映画です。
今月前半のシネスイッチ銀座をふりだしに全国を巡ります。
6/10(金)の最終上映後には、東ちづるさん×信田さよ子のトークイベントもあるそうです。

映画『光のほうへ』
http://www.bitters.co.jp/hikari/

映画『光のほうへ』予告篇
http://www.youtube.com/watch?v=FoUG7zg9srk
SUBMARINO (2010) - Trailer [HD]
http://www.youtube.com/watch?v=t2o-LFchkNQ

映画「アヒルの子」

映画「アヒルの子」については、以前の雑記ですこし触れただけです。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100517

映画の話をする前に、アダルト・チルドレンの話を少ししておきます。

アル中のいる家は他の家とルールが違うといいます。(ここで言うルールとは法律のような規則ではなく、人間社会を成り立たせている暗黙の決まり事を示します)。例えばアル中お父さんの酒に多くの金が費やされ、家計の他の部分を圧迫しています。大事にされるべきことが大事にされず、酒のほうが大事にされています。酒のせいで脳がやられて気難しくなったお父さんの機嫌を損ねないように、他の家族が気を使いながら生活しています。その他いろいろ違いを挙げていけばきりがありません。

子供はまず家の中で社会のルールを学びますから、アル中の親を持つ子供たちは一般社会とは違うルールを学びながら成長します。そんな彼らもいつかは大人になり社会に出てきます。多くの人たちは幼い頃から家庭で学んだルールと、一般社会のルールが一致しています。しかし、アル中の家のルールは他とは違っているので、その家で育った子供たちは、社会に出てみると自分の学んできたルールが通用しないことに気づきます。(いや、通用してないことに気づけば大したものだけど)。そこに彼らの悩み苦しみがあります。自分が子供の頃から身につけてきた「正しさ」と、社会の「正しさ」に齟齬があるわけです。

こんなたとえ話があります。ジャングルの中で生活する人は、大変過酷な環境を生き延びるために、様々なスキルを身につけます。例えばサバイバルナイフ一丁で狩猟も調理もしなくちゃならないし、服や家もそれで造らないとなりません。生き残るためにはその能力が必要なのです。そんな人が、都会に出てきたらどうなるでしょう。むき出しのサバイバルナイフを手にして交差点に立っていたら、たちまち警察につかまってしまうでしょう。環境が変われば、新しい環境に応じたルールを身につけねばなりません。

ここで、ジャングルとはアル中の親のいる家庭であり、そこで育った子供たちが出ていく社会を都会に例えています。サバイバルナイフで何でも加工できる能力は素晴らしいものですが、残念ながら都会ではそんな能力は必要とされていません。生き残るために別の能力が必要なのです。

アダルト・チルドレンの問題とは、彼らが不条理な家庭の中で生き残るために身につけた能力が、その家庭から社会に出て行くときに適合の足かせとなってしまうことです。そこには、自分の「正しさ」が通用しない社会への恨みと恐れがあります。いままで自分が信じてきた「正しさ」を否定する辛さと恐れがあります。間違った「正しさ」を教え込ませた親への恨みがあります。

さて、「アヒルの子」は日本映画学校(現在は日本映画大学)の卒業制作として撮られた映画です。

監督にして主役の小野さやかは、5才の時に親から離され、幸福会ヤマギシ会の幼年部に1年間預けられた経験を持ちます。ヤマギシ会は農業をベースとしたコミューン団体です。隆盛を極めたのは1980年代だったでしょうか。コミューン内に子供たちに理想の教育を施すための初等部・中等部・高等部を備え、小学校入学前の子供たちを親から預かって団体生活をさせる幼年部が存在した時期がありました。

1980年代と言えば、学校が荒れ既存の教育に疑問が持たれだした時期でもあります。ヤマギシ会の掲げる教育の理想に感化され、幼年部に子供を預けた親は全国にいました。しかし、数十人の子供たちを数人の「お母さん役」が面倒を見る仕組みは元々無理がありました。自由にのびのびというより、理不尽なことも多い環境だったでしょう。

しかし、これはヤマギシ会を指弾する映画にはなりません。親から1年間切り離された幼い彼女は、それによって「親に捨てられた」と強く感じ、家に戻って以降は二度と捨てられないために、自分を押し殺し周囲の期待に応える「いい子」を演じ続けます。そんな彼女が東京の学校に進み、家族から切り離されたことで、どうやって社会の中で生きていったらよいかすべを知らない自分に気づき絶望します。

「自殺する前に、自分をこんなにした家族をぶっ壊す映画を撮る」・・そうしてできあがった映画が「アヒルの子」です。

彼女は映画スタッフを引き連れ、家族の一人一人と対決していきます。次兄、長兄、姉、そして父と母。これはドキュメンタリー映画です。彼女の親はいずれもアル中ではないものの、現象面から見ればこれはアダルト・チルドレンの回復の物語と言って差し支えないでしょう。

内容については多くを触れません。ただ、彼女の回復はスクリーンの中より外で起こっていると言えます。(その意味では、映画を見るだけでなく彼女の話が聞けた僕は幸運です)。例えば上映後の舞台の話でこんなエピソードが紹介されていました。

映画は一人で撮れるものではありません。カメラも録音も編集も必要です。だからチームで作るのですが、彼女は他のスタッフをまるで信用していませんでした。「この映画が完成しなかったら、死ぬ前にお前ら全員殺してやる」と人を脅すことしか知らない危ない女だったわけです。さて、映画の最初のほうに彼女が次兄に肉体関係を迫るシーンがあります。ここはプライベートな部分なので他のスタッフは部屋に入らないのですが、人を信用しない彼女はカメラを全部自分でセッティングしました。・・・そのせいで、カメラの録音スイッチを入れ忘れてしまいます。一生に一度しか撮れないシーンが音声なし。その結果「人を信用しなければこの映画は完成しない」ということを知るのです。

完成した映画は、「甘えている」「人としてやっていけないことがある」などなど人々の非難に晒されることになりました。しかし一方で「もっと家族を壊して欲しかった」という感想も寄せられたのでした。それは、彼女と同じように家族の中で傷ついた人たちで、彼女の経験が多くの人たちの中で共有されました。結果、彼女はこの映画を公開し、より多くの人たちに見てもらうという目標を持ちます。

公開するには登場する家族の承諾を得なければなりません。内容が内容だけにこれは簡単な話ではありません。実際、完成から公開まで年単位の時間がかかっています。しかし彼女にはすでに目標があり、その目標のためには、自分が信じてきた「正しさ」を捨て、自分が「間違っている」と思っていた相手の気持ちにより添っていくすべを身につけていきます。その過程に回復があったのでしょう。

実は最初この映画を見る積極的な気持ちはまるでありませんでした。「今さらACの映画とか被虐待の映画とか見たってしょうがねえよ」とネガティブなことを言いながらスクリーンの前に連れて行かれたのですが、映画は強い印象を僕の中に残しました。おまけに翌日まるで関係ない場所で彼女にお会いする機会を与えられ、さらには今年の二月に僕の地元で上映会があり、スポンシー一人を伴って見に行き、さらに話を伺うことができました。いまではこの若き才能を応援する気になっています。神さまはまったく意外なことをされるものです。

スクリーンの中の彼女の顔は憎しみに歪んでいます。しかし、上映後の舞台に登場した彼女は輝きに包まれていました。人間には表面的な造形の美醜があるにはあるものの、結局人の好感度というものは内面の表れであるわけです。

全国あちこちで上映が行われているので、アダルト・チルドレンの回復に興味がある方はご覧になって下さい。
最新情報は
ドキュメンタリー映画「アヒルの子」
http://ahiru-no-ko.com/

直近では、6月18日〜24日
「川崎市アートセンター」
http://kac-cinema.jp/theater/detail.php?id=000408

ああ、なんか長い雑記になりました。もう一つアダルト・チルドレンの映画を紹介する雑記を書こうと思います。それは次回。
プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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