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AC=アル中

ACのステップについて以前に書いたときに、トニー・Aの「14の特徴」を引きました。

洗濯物リスト アダルトチャイルドの14の特徴
http://www4.hp-ez.com/hp/acafukuoka/page4/bid-83311

そこから、アダルトチルドレン(AC)は疑似アルコホーリックであるという話をしました。

たまにAAで、こんな話を聞くことがあります。

父親が嫌いでたまらなかった。酒を飲んでばかりで、家族に横暴に振る舞う父親を嫌いになるのは当然だろう。だから、大人になっても、絶対に親父みたいにはなるまいと、固く心に誓っていた・・・そのはずなのに、気がついてみると、自分も親父と同じアル中になっていたんだ。

アディクションは、人にやりたくないことをやらせ、なりたくないものにならせる、と言いますが、「自分にあんなことをした親父と、今の自分は同じことをしている」わけです。基本的にACのストーリーはこういう構造をしています。

ACというのは、酒を飲んでアル中にはならなかったが、親のアル中と同じ行動をする人になってしまっているわけです。飲まずにアル中になれるんだから、それはすごい才能です。もちろんそれは、アル中でない機能不全の家族のACにもあてはまります。

だから、アル中とACは違う(だから違うステップが必要だ)、と考えるのは、ACの何が問題なのか理解していないわけです。

このように違い探しをしてしまうのは普通のことです。依存症の本人だって、たとえばアルコールの人は、「俺は違法薬物を使うヤク中とは違う」とか「酔ってないのに狂えるギャンブラーとは違う」などという違い探しに熱心になります。これは否認の一種であり、いろんな依存症の共通性に気がつくのは、多少なりとも回復が進んでからです。

ACの場合にも、アル中との表面的な違いに気を取られて、否認が起きてしまうのは無理からぬことです。アル中の場合だって、親が覚醒剤の場合には、子供は「俺が飲んでいるのは合法的なアルコールだから親父とは違う」という言い訳が出てきます。人の問題ではなく自分の問題に目を向けなければ、解決の糸口が見つかりませんし、違いを探すのではなく同じところを探さなければならないのです。

物事を支配しコントロールするために、権勢的になるか、それとも従順な態度で結果を引き出そうと取引するかは、戦略の違い(つまり表面上の違い)であって、本質ではありません。

というわけで、アル中とACの違いを探してみるのは、単なる否認の態度だと断言してかまわないわけです。
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医者は治してくれない(その3)

AAの始まりは、二人のアルコホーリクが出会い、お互いの飲酒体験を分かち合い、支え合うことで断酒継続を可能にした・・と説明されることがよくあります。

何十年も前ならいざしらず、現在の日本ではアルコホーリクどうしの出会いは頻繁に起きています。アルコールの専門病院には多くのアル中が入院しており、ネット上には断酒の掲示板がありオフ会をやっているところもあります。もし、二人のアルコール依存症者が出会って、体験を分かち合うだけでAAが誕生するのなら、今頃日本はそこらじゅうAAだらけになっているはずです。でも、現実にはそうなっていません。ということは、それだけでは足りないということです。

ジョー・アンド・チャーリーのビッグブック・スタディに接した人は、まず最初にAAがどのようにして始まったか説明が続くことをご存じでしょう。ルター派の牧師ブックマンが作ったオックスフォードグループのプログラム。スイスの精神科医ユングがローランド・ハザードに伝えた霊的体験の必要性。これらを受け継いだエビー・サッチャーのメッセージ。ビル・Wに伝えられたシルクワース博士の病気の概念。こうした様々な要素が積み上げられ、最後に同じオックスフォード・グループのメンバーだったドクター・ボブとの出会いによって、AAはようやく形をなし始めました。

AAが始まるためには、これらがすべて必要で、何が欠けても成り立ちませんでした。つまり、

同じ問題を抱えた人たちが集まって体験を話し合うだけで自助グループができあがるわけではない

それだけでは足りないのです。これは、実は「不都合な真実」でした。

前回までの雑記で書いてきたように、依存症は医者には治せない病気です。
シルクワース博士はビッグブックで「アルコール薬物依存の治療では、全米でも最も由緒ある病院の医長を務めている」とその実績を誇りつつ、同時に「精神医学の成果によって得られた回復の合計は相当な数にのぼってはいるが、問題全体からみれば小さいシミをつけた程度にすぎないことを認めざるをえない」と述懐しています。
彼はアルコールの専門医として生涯で5万人ものアルコホーリクを診ましたが、AAが始まるまでは治療の成功率は約2%に過ぎなかったと言い残しています。

医者がダメなら、ではどこへ行けばいいのか。そう聞かれて困ってしまうのは、医療職だけでなく、保健所などの援助職の人たちも同じです。まだアルコールの問題は断酒会が古くから活動していたから良かったものの、薬物やギャンブルや、ましてその配偶者や子供の世代の問題となると、紹介する先のない援助職の人たちは困ってしまったわけです。特に地方ではグループもないし。

そこへ「同じ問題を抱えた人たちが集まって体験を話し合う自助グループというものがあり、それが解決策だ」という理屈が忍び込んでいったのでしょう。人々を同じ部屋に入れて話し合わせておくだけで問題が解決するのなら、医療職・援助職はそれ以上コミットする必要がありません(楽ができる)。

1980年代、90年代に自助グループやピア・サポート・グループが礼賛され推奨されるようになった背景には、こうした援助職側の都合があったとみて間違いありません。当事者の集まりにも方法論(たとえば12ステップ)が必要であり、ただ話し合っているだけでは、一時的に気が紛れても、問題の解決には至りません。

そんなわけで、全国各地で当事者が、医療職・援助職に促されて自助グループを作ってみたものの、グループを熱心に維持する人が去ると同時にグループが消える、ということが繰り返されてきました(方法論が確立していなければ、リーダーシップに頼るしかないため)。グループが継続的に発展することはなく、有効性を持つこともなく、深刻な問題を解決する社会資源たり得たことはありませんでした。

方法論の必要性は、自助グループを立ち上げる際にはハードルとなります。そんなハードルは取っ払ってしまえ、という考えから方法論など不要という意見が生まれてきます。やがては断酒会やAAという先行グループにもそうした意見が浸透していくことになりました。

つまり、医療職・援助職の人たちは、問題の解決を自助グループに丸投げしてしまったのです。それは専門性の放棄でした。とりわけACの問題は「それは病気ではないから」という理由で完全に自助グループに丸投げされました。

問題の解決は当事者の自己責任に任されました。「自助=セルフヘルプ」という言葉が、如実にその理念を物語っています。最近の、自助グループという呼び名を相互援助グループに変えていこうという動きには、押しつけられた責任に対する反発も含まれているのでしょう。

ではどうすればいいのか?

ひとつには「当事者グループには方法論が必要である」という認識を広めていく必要があります。そうしなければ、当事者の苦労はちっとも減りません。

もう一つ、すでにあるグループや、これからグループを始めようとする人たちに方法論を供給する仕組みが必要です。医療職・援助職の人たちがある種の専門性を放棄するのなら、かわりに当事者側に専門性が確立されなければなりません。専門性というのは必ずしも職業と結びついたものではなく、素人(lay)による専門性があっても構わないのです。

これは自助グループがフラットな仕組みではなく、専門性を持った人とビギナーに構造化されることを意味しますから、それに対する反発もあるでしょう。元々自助グループは、方法論を携えたスポンサーと、それを受け取ろうとするビギナーの関係から成り立っており、それがグループを継続、発展させる原動力にもなるのですから、それを否定したら話が進みません。

「依存症からの回復研究会」はジョー・マキューの12ステップを自助グループの人向けに紹介する活動を続けていますが、これも方法論を供給する仕組みの一つに数えて良いでしょう。回復研の集会が何百人という聴衆を集めるのは、方法論の需要がそれだけ高いことを示しています。

もう何年も前になりますが、AAの四谷ビッグブックグループが Back to Basics をベースにしたビギナーズミーティングを始めたところ、毎週百人以上が詰めかける騒ぎになりました。特別なミーティングではなく、普通のAAミーティングにすぎないのにです。それは、人々が「そこに行けば12ステップが分かる」、つまり方法論が得られる、という話を聞きつけたからでした。

当事者の側は自分の問題を解決する手段(方法論)を強く求めています。であるのに、当事者でない人たちが「当事者グループには必ずしも方法論が必要ない」と言ってしまうのが困った話です。

お願いしたいことは、ひとつは「当事者グループには方法論が必要である」という認識を広めて欲しいということです。また、方法論が既存・新設のグループに浸透していくように、当事者たちを励まし背中を押してくれるのなら、実にありがたいことであります。

(この項おわり)

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医者は治してくれない(その2)

アルコール依存症の薬としては、ベルギーの会社が作ったナルトレキソンや、フランスの会社が作ったアカンプロセートという薬もあります。調べてみると、ナルトレキソンはオピオイド(モルヒネやヘロイン)のアンタゴニスト(阻害薬)をアルコール依存症に転用したもの。アカンプロセートについて詳しい情報は見ていませんが、wikipediaによればこれもアンタゴニスト(阻害薬)のようです。チャンピックスと同じように受容体に先にくっついてしまい、アルコールが受容体にくっつくことを妨げ、酒を飲んでも心地よいと感じさせなくなる効果を狙っています。

ナルトレキソンやアカンプロセートが、チャンピックスのような鮮やかな効果を出せるかどうか・・それははなはだ疑問だと思います。

チャンピックスの成功は、タバコをやめる気がない人(動機付けがされていない人)を対象から外すことで成り立っています。アルコールはそうではありません。ニコチンよりはるかに害が大きいため、本人がやめたくなくても、やめてもらわなくては困る病気とされています。動機付けの薄い人たちに薬を飲ませても、効果はあまり期待できないでしょう。

もう一つはアンタゴニスト(阻害薬)としての限界です。ナルトレキソンやアカンプロセートは日本では治験すら行われていませんが、僕らは別の種類のアンタゴニストをすでに使っています。シアナミド(商品名シアナマイド)やジスルフィラム(商品名ノックビン)は、脳の報酬系に働くわけではなく、肝臓のアセトアルデヒド分解酵素の働きを阻害して、飲酒すると気分が悪く苦しくなる効果を狙っています。

抗酒剤は断酒の三本柱の一つと言われていますが、それは抗酒剤だけでは断酒維持の効果が薄いことを示しています。人間には知能がありますから、飲んで気分が悪くなる原因がシアナマイドだと知っていれば、酒を飲みたければシアナマイドを飲むのをやめてしまうだけの話です。

ナルトレキソンやアカンプロセートでも同じ事が起こると予想されます。こちらは気分が悪くなるわけではありませんが、代わりに酒に酔う陶酔感を奪います。酒を飲んでも気持ちよくなれないのなら、酒は飲まない・・とはアル中は考えません。気持ちよくなれない原因であるところのナルトレキソンの服薬を勝手に中止してしまうだけでしょう。今現在シアナマイドで起きているのと同じ事が起きるだけです。

科学が「それ」をやり遂げるのは、まだまだ先になりそうです。

では、薬物療法が無理なら、他の療法を医者が使えば良いではないか? と思われるかも知れません。しかし、保険診療では医者が薬物療法以外の選択をするのは難しいのです。その理由についてはこちらの雑記に書いておきました。

薬物療法への偏りの原因
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20110223

日本ではカウンセラーの資格として、専門学校レベルの「心理療法士」と、大学院レベルが要求される「臨床心理士」の二つの資格があります。このうち病院で働く場合やスクールカウンセラーになるには臨床心理士を求められます。その臨床心理士によるカウンセリングであっても、保険診療として認められず、やるだけ病院の持ち出しとなってしまいます(あるいは患者10割負担の自由診療)。医師が治療手段としてカウンセリングを選びにくくなっているわけです。日本の行政が医療をそのようにデザインしているわけです。

日本の精神医療が薬物療法ばっかりになってしまうのは、行政や医療機関側の問題ばかりでなく、患者側の選択によるものでもあると僕は思っています。

僕は社会不安障害や強迫神経症、つまりいわゆる「神経症」の人たちから治療機関を紹介してくれと言われることがあります。日本には森田療法という優れた治療法があり、数は少ないけれどそれを行っている医療機関もあります。今まで薬で治療して治っていないんだったら、森田療法はどうですか? と言うのですが、今まで一人として森田療法をやってみようと出かけていった人はいませんでした。誰もが(今まで薬で治っていないにもかかわらず)「できれば薬で治したい」という希望を持っているのです。

医者が薬で治せないのなら、他の治療法は一切拒否・・というのは、アルコール依存症も同じで、医者が治せないのなら誰にも治せない、と決め込んでしまって、断酒会にもAAにも行かずに再飲酒を繰り返している人はたくさんいるのです。

「医者には治せない」だけでなく、「自分も病気を治したくない」のです。

(一応さらに続くつもり)

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医者は治してくれない(その1)

さすがに忙しすぎて他の人のブログや日記など目を通せていません。雑記も毎日書くのではなく、まとめて書いておいたものを分割して投稿するようにしています。

さて、久しぶりに「医者は治してくれない」という言葉を聞きました。

依存症は治癒する病気ではないので、この場合の「治る」は、アルコールの場合で言えば、再飲酒して病気がぶり返す可能性が心配しなくて良いほど小さい状態が維持されること、いわゆる回復ということを言うのでしょう。

依存症を治療できる薬はまだ作られていません。ビッグブックのp.45に「科学はいつかそれをやり遂げるかもしれないが、まだ実現していない」という文章が書かれたのは、おそらく1937年頃でしょう。それから70年以上経った今も、相変わらず実現していません。

最近「チャンピックス」という禁煙補助薬が人気だそうです。ニコチン依存症には薬が効く時代になった・・と言って良い時代なのかも知れません。チャンピックス(成分名バニレクリン)は脳内のニコチン受容体に作用してニコチンのパーシャルアゴニストとして働きます。

人が喫煙して体内に取り入れたニコチンは、脳内のニコチン受容体に結合します。するとドパミンやノルアドレナリンの過剰放出を引き起こします。こうした物質は快感や覚醒を扱っているため、タバコを吸うと人は気分が落ち着き、頭が少しスッキリする感覚を「実際に」味わいます。気のせいではないわけです。こうしたメリットがあるからこそ、人はタバコを吸います。

タバコを日常的に吸っていると、血中のニコチン濃度が高いのが常態となります。血中ニコチン濃度が下がってくる→受容体に結合するニコチンが減る→ドパミンやノルアドレナリンの放出量が減る→イライラして落ち着かなくなるという仕組みができあがります。だから血中濃度を上げるために「次の一本」を吸う薬物摂取行動に移ります。アルコールであれ、覚醒剤であれ、処方薬であれ、物質系の依存にはこの仕組みが共通していると考えられています。脳内の報酬回路に人の行動が支配されているわけです。

バニレクリンは、ニコチンの代わりに受容体にくっついてしまい、しかもニコチンほどドパミンを放出させません。チャンピックスを服用している状態でタバコを吸っても、ニコチンはバニレクリンに邪魔されて受容体にくっつけず、タバコを吸った効果を味わえません。(その意味では阻害薬=アンタゴニストとして作用している)。タバコを吸っても効果がなければ、吸おうという動機は薄らぎます。

さらに、ニコチンほどではないものの、バニレクリンは受容体を軽く刺激して少量のドパミンを放出させることで、少しだけニコチンの代わりを務めます(部分的な作動薬=アゴニスト)。これによってニコチンを断ったときの離脱症状を和らげてくれます。吸わなくてもイライラ感が少なければ、止めるのは楽になりますから。そして次にチャンピックスを減量していきます。

「チャンピックス」の成功は、服薬を禁煙の動機を持った人に限っているからでしょう。これは厚生労働省が定めたニコチン依存症に対する保険適用の基準に「禁煙を希望していること」が含まれているからです。これだと、やめたいのにやめられないのが依存症であって、吸いたいから吸っている人は依存症ではないことになります。同じ基準をアルコールに使うと、「俺は飲みたいから飲んでいるんだ」という人は依存症ではないということだ。まったく、やれやれです。

チャンピックスによって禁煙の成功率は上がったものの、弊害も言われています。簡単にやめられるぶんだけ、禁煙を維持するモチベーションが下がり、再喫煙が多いのだそうです。「吸っちゃったら、またチャンピックスでやめればいいや」というわけでしょう。僕の目の前に座る同僚も、そのとおりの発言をしています。以前のニコチン置換療法に比べてチャンピックスの禁煙維持率が低いという疫学的なデータがあるのか知りませんが、さもありなんという話です。

人は簡単に手に入るものには価値がないと見なしがちです。捨ててもまた簡単に手に入ると思うからです。友人から無料でもらったアドバイスはすぐに忘れますが、何万円も払ったカウンセラーから得た指示は一生忘れないものです(例え中身が同じでも)。だから相手のためを思うなら、無料でカウンセリングをするな、無料でものを教えるな、千円でもいいから金を取れ、と言われるわけです。同じことはあらゆる分野のコンサルタントにも言われています。

(AAのスポンサーはスポンシーから金を取るわけにはいきませんが、なるべくスポンシー側に手間をかけてもらって、伝えたステップをスポンシーが一生大事にするようにし向けるのが、良いスポンサーだという理屈になります)

こうした問題を避けるために、1年以内の再治療は保険適用としない、という仕組みでチャンピックスの販売が始まったはずが、いつのまにかその制限は取り払われています。これもチャンピックスの再喫煙の多さを間接的に示す事実です。

ニコチン以外にも依存症の薬物療法は行われています。ヘロイン依存症にはメタドン(メサドン)という鎮痛剤が使われます。これはオピオイドの受容体に働くアゴニストで、ヘロインへの渇望を減らす効果があり、ヘロインより害の少ないメタドンへ置き換える「メタドン置換療法」として使われます。もちろん、今度はメタドンの依存症になってしまうわけで、ヘロインよりメタドンの依存症のほうがやめるのが難しいとも言われます。

(次回はアルコール依存症の治療薬の話)

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ACのステップについて(その3)

ACについて最後は、では被害者性の治療はどうするのか、ということについて。

こんな例を考えてみます。アディクションを例に取ると混乱しやすいので、すこし距離を取って内臓の病気としましょう。

ある人が内臓の病気になったとします。しかもかなり重病です。そのおかげで働けなくなり、休職しているうちに会社の業績が悪化して、彼はリストラの対象となってしまいました。経済的にも精神的にも負担をかけている家族は、最初こそ気丈に振る舞っていたものの、やがてむっつりと不機嫌な表情をするようになり、家庭から安らぎが失われました。健康だったら実現できたはずの夢や楽しみを、その人も家族も諦めねばなりません。

その人はそうした運命を呪い、しだいにヒガミっぽい恨みがましい人になっていきました。世話をしてくれる家族に当たり散らし、不運な自分に何もしてくれない社会に不平ばかり持つようになりました。なるべく接したくない嫌われ者になっていきました。

時には寂しさのあまり、人の歓心を得ようと妙にへりくだった態度を取り、ご機嫌を取り、褒めそやすのですが、相手が自分の思い通りになってくれないと知るや、手のひらを翻したような悪口三昧になるのでした。

幸い薬石効あって、その人の病気は完治します。しかし元の職場には戻れず、前より条件の悪い会社で働かざるを得ません。周囲の人はそれでも幸運だ良かったと言いますが、その人にはそれが気に入らない。「本当であれば」もっと恵まれていたはずだという気持ちが晴れません。離れていった家族の心は戻らず、一緒に過ごそうともしてくれません。

病気は治ったものの、ヒガミっぽさ、恨みが増しさは取れませんでした。それが原因で周りの人々との軋轢が絶えず、時にはそのせいで退職しなければならなくなります。「どの職場に行っても嫌なヤツが一人はいる」というのがその人の信条です。その人は、自分は何も悪くない、自分がこうなってしまったのはすべて病気のせい、つまり運が悪かったからだと考えています。もし、こんな自分の何かを元に戻す必要があるとするなら、それをするのは自分ではなく、誰かがやってくれなくちゃならない。そうでないと割が合わない、というのがその人の考えです。

この人は病気の被害者です。しかし、すでに病気は治っているのです。なのにこの人の性格は元通りにはなっていません。この人を現在恨みがましくあらしめているのは、すでに治ってしまった病気ではなく、恨みがましくあり続けようとする本人の選択です。つまり自己責任です。この人は、恨みがましくあり続ける選択をすることによって、周囲の人を傷つけ続けているわけで、「被害者が加害者になっている」構図です。

この人の場合、内臓の病気は癒される必要がありました。ACの場合も同じです。親の養育によって心に傷を負い、それがトラウマとして残っているのなら、それは専門の治療を必要とします。12ステップで内臓の病気が治らないように、(軽いものなら知らず)重度のトラウマは12ステップの専門外です。カウンセリングやEMDRとかそういうものが必要でしょう。ACのケアとては「子供としてのプログラム」と呼ばれるものです。

さらに、この人の場合、内臓の病気が癒されても問題は残っています。そして、この残った問題には12ステップが有効であることはまず間違いないでしょう。同じように、ACの場合にトラウマの治療を行うことが、現在抱えている社会性の問題を解決することにつながっていかないのです。やはりその部分は12ステップを使って解決して行かなくてはなりません。これは「大人としてのプログラム」です。

内臓の病気と、それによって生じた性格の問題を混同しないように、ACの場合も虐待的な養育によるトラウマと、それによって生じた性格上の問題を混同しないようにしなければなりません。

そうした混同、被害者性を強調することによって回復の責任を他者に押しつけること、さらには一時的な免責を引き延ばしたい・・・そこらへんが「AAの12ステップとACの12ステップは違う」という誤解が生まれてくる元になったのではないかと考えています。

三回の雑記をまとめれば、ACはパラ・アルコホリック(疑似アルコホーリク)であって、その回復の過程も同じです。個人的に見てもACとアル中本人は基本的に同じです。例えば、なんとかステップ9で謝罪することを避けようと、いろいろ理屈をこね回すあたりは、まさにそっくりなのであります。誰かが言っていましたが、人に頭が下げられない人が、神さまに頭を下げられるわけがないのですから。

(この項おしまい)

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ACのステップについて(その2)

ところで、あるギャンブルの人が、GAを加害者の集まり、ギャマノンを被害者の集まりと呼びました。あまりそういう概念にとらわれて欲しくはありませんが、確かにそういう側面もあります。

アルコールについて言えば「酒害者」という言葉があります。酒の害を受けた人という意味です。その意味では、アルコホーリク本人も家族も被害者です。「あなたがこうなってしまった原因は何ですか?」と聞けば、酒のせいですと答える人は少なくないでしょう。もちろんそれは表面的な問題に過ぎないのですが、それでも、それをしっかりと正面から捉えることが必要です。

あるACの人に、「あなたがこうなってしまった原因は何ですか?」と尋ねたところ、親も悪いが自分にも原因がある・・・と口を濁していました。自分にも責任があるとか、ごにょごにょ言わなくていいのです。アル中にとって、酒が加害者であり悪であるように、ACにとっては親が加害者であり悪である、と明確に規定したって構わないのです。

しかし、被害者であることは「だから私は何もしなくて良い」という免責の理由にはなりません。回復というのは被害者の側が自分で行動しなくては得られないものなのです。

ところで、アルコホーリク本人は、酒の被害者であるとともに、家族にとっては加害者である点に注目して下さい。「被害者が加害者になる」という構図が成立しています。被害者だからと言って、他の人に害を与えることは正当化されません。本人は酒を飲んで周囲に迷惑をかけてきたことに対し、いつかは責任を取らねばなりません。しかし、AAでは(ということは似たような他のグループでも)、その事実に対してすぐに向き合えと言うのではなく、いったんそれは棚上げして、ともかく断酒を継続させ回復の下地を作ることに集中させる仕組みになっています。(そこが自己啓発セミナーなどと違うところです)。やがて、ステップ8・9で、自分が他者に与えた傷と直面することになります。(ここらへんは葛西賢太先生の『断酒か作り出す共同性』という本を参照)。

(話は逸れるけれど、最近の自助グループで12ステップの力が弱まっているのは、この一時的な免責をずっと保っていたいという意識の表れでしょうか。そういえば竹内先生は、断酒会が酒害者という言葉を使うことにクギをさしていらした。これも過度の免責を戒めるゆえでしょうか)。

アル中本人は、棚卸しをするまで、自分の生きづらさの本質が「自分が他者を傷つける傾向があるため」つまり言葉を変えれば加害者性にあるとは気づいていません。それどころか「自分は被害者だ」と主張するのに熱心である場合が多いのです。(仕事がうまくいかないのは上司が悪いし、子供がなつかないのは奥さんが子供に悪口を吹き込んだからである・・と言った具合)。

12ステップに加害者性という言葉は似合いませんが、説明のためにあえて書けば、回復とは自分の加害者性に aware であろうとする姿勢です。

アル中の周りの人はこう言いたいわけです。「君が被害者であることは分かったよ。大変だったね。でも、その話を続ける前に、君はいま僕の足を踏んでいるから、まずその足をどけてくれたまえ」

話をACに戻します。ACがACたる発端は、親のそうした振る舞いに被曝したからです。そういう意味では被害者です(アル中が酒の被害者であるのと同じ意味で)。しかしながら、大人となった現在の「生きづらさ」の本質は「自分が他者を傷つける傾向があるため」つまり加害者性にあります。「被害者が加害者になる」という構図がACの場合にも成立しています。被害者としての癒しを求めていたら回復はないし、12ステップは回復のためのものなのですから。

こうしてみると、ステップによってどんな成果が得られるか、ひと言で表すと、それは「社会性」という言葉に突き詰められるのかも知れません。ステップを11まで経験すると、スピリチュアルな目覚めを経験するとされています。あるアメリカの精神科医は、スピリチャリティを周囲の人々や社会、自然との一体感と呼びました。スピリチャリティと社会性には通じるところがありそうです。

次回は被害者性のケアについて

(続く)

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ACのステップについて(その1)

福岡の「12ステップを学ぶ集い」でファシリテーターをやらせてもらいました。
ACの人たちの関心が高く、ひょっとすると参加者の半分以上はACのグループの人たちだったかもしれません。ACODAの本を持ってきている人も、水色の表紙の12ステップ本を使う日本のACAの方もいらしてました。また、ビッグ・レッド・ブックを使っているACAのグループの人もいましたし、はたまた回復研(つまりジョーのステップ)のプログラムをやっている人もいました。

少々意外に感じたのは、「同じ12ステップであっても、アルコホーリク本人とACのやるステップは違うのではないか?」という前提で考えている人が多かったことです。同じ12ステップなのに「違うこと」をやらねばならない・・というのは誤解です(もちろん)。

ただもちろん、違いもあります。AAのステップ1はアルコールに対する無力を認めるステップです。そのために、シルクワース博士による「身体のアレルギー(渇望)」と「精神的とらわれ(強迫観念)」の概念を長々説明せねばなりません。この身体と精神のふたつの病気の概念は、アルコール以外にも薬物やギャンブルなどのアディクションにはうまく当てはまります。しかし、家族(ACを含む)の人の問題を説明するためにはあまり役に立ちません。

ステップ1は「問題」を知るステップだと言います。自分が何かの問題を抱えていることを知った人は、できればその問題を解決したいと願うものであり、それがステップに取り組む意欲を生みます。アルコホーリクの場合には、「このままではまた酒を飲んでしまうし、飲み出したらやがて自分は破滅だ」ということが問題です。

しかしステップを先に進むと、この「問題」は実は表面的なことに過ぎないことが分かってきます。

「私たちにとって飲むことは問題の一つの症候にすぎなかった」(p.92)

正常で正気の人間が、破滅へ向かう酒をまた飲み始めるわけがありません。アルコホーリクは飲んでいないときも問題を抱えており、それが「最初の一杯」を飲む狂気を呼び起こします。つまり飲酒は表面的な問題に過ぎず、内部には本質的な問題を抱えているのです。それは酒を飲んでいるときだけでなく、やめているときも存在しています。「では本質的な問題とは何か?」をつまびらかにするのがステップ3です。そこで私たちは、自分が「何もかも取り仕切りたがる役者」であることを知ります。

そして、この本質的な問題はアディクト本人・家族、もちろんACにも共通している問題です。

ACにとっても表面的な問題というのは存在します。もともとアダルト・チルドレンという概念は1970年代にアメリカのアルコホーリクの子供たちの観察によって生まれました。ACA(Adult Children of Alcoholics)の創始者となった Tonny A. は、ACの特徴を14の項目にまとめています。

洗濯物リスト アダルトチャイルドの14の特徴
http://www4.hp-ez.com/hp/acafukuoka/page4/bid-83311

洗濯物リストってのはチェックリストという意味ね。この13番目と14番目にパラ・アルコホリックという言葉が出てきます。日本語に訳すなら疑似アルコホリックでしょうか。AC自身が酒を飲む人でなくても、アルコホーリクの家庭で育った影響を受けて、アルコホーリクと同じ性質を抱えることになってしまった・・・というのがACの問題です。

酒をやめただけで回復していないアルコホーリクは「困ったちゃん」であり、周囲の人間にとっては頭痛のタネです。同じようにACも(いったんアル中になって酒をやめるという過程は経ていないものの)酒をやめただけで回復していないアル中と同じで、困ったちゃんであり、周囲にとって頭痛のタネなのです。

ACの概念が広がって行くにつれ、アルコホーリックの成人した子供(ACoA)に限らず、親が依存症でない人の中にも同じ傾向を抱えている人が少なからずいることが分かってきました。そんな彼らは「機能不全家族で育って成人した子供たち(ACoD)」と呼ばれ、ACoAと同じくACと呼ばれるようになりました。

ところで、日本のACAやACODAでも、同じくACの特徴を説明するリストを使っており、明らかにトニーのものをベースにしています。

ACA:問題
http://aca-japan.org/docs/problem.html

ACODA:機能不全家庭で育ったことにより共通して持つようになったと思われる特徴
http://www.acoda.org/problem.htm

ところが日本のACのリストは13個、ACODAのリストは12個しかありません。数が少ないのは、最後の一つか二つ、パラ・アルコホーリックであるという説明を抜いているからです。なぜその説明を欠落させたのか意図は知りません。おそらくは疑似アルコホーリクという説明が、親がアル中でない人にはかえって分かりにくくなったからではないかと思います。

しかしながら、この「AC=疑似アル中」という説明の欠落が、アルコホーリク本人とACの抱える問題が違っているという誤解を生み、さらにはステップの中身も違ってくる、つまり回復の道筋まで違ってくるという誤解まで生んでいったのではないかと思います。

その点では、アメリカのACAがビッグ・レッド・ブック(BRB)というリファレンスとともに輸入されてきたのは歓迎すべき事です。

書き足しておくと、ビッグブックには「私たちが抱えている人生の問題」として、
・私たちはいつも人間関係の問題をかかえていた。
・感情を思うようにできなかった。
・みじめさと落ち込みの餌食になっていた。
・生計を立てられなくなっていた。
・自分は役に立たない人間だと感じていた。
・恐れと不安でいっぱいだった。
・不幸だった。
・他の人が助けを必要とする時に助けになれなかった。
と書かれています(p.76)。これもアルコールではありませんが表面に表れた「症候」であり、多くがACの洗濯物リストと共通します。

(続くよ)

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自尊感情・自己評価について(その3)

近藤卓先生は、基本的自尊感情(basic self-esteem)を育てるのは、

「五感を通じた他者との体験の共有」

であると述べています。

基本的自尊感情は子供の頃に育ちます。家族と一緒に同じものを食べ、一緒に眠り、同じ風呂に入り、一緒にテレビを見て同じ事で笑ったり怒ったりする・・・。こうした体験の共有が「生まれてきて良かった」「自分は大切な存在だ」「自分は自分のままでいい」という基本的自尊感情を育てるとともに、自分を変えていく努力もできる存在に育ててくれます。

となると、子供の誕生日に仕事で忙しい父親からのプレゼントだけが届くより、帰ってきた父親が一緒にケーキを食べてくれることがうれしいのは、同じ体験を共有しているからです。つまり「トゥギャザー」であるからです。そのように心理的に親子が不可分であったものが、成長すれば、物理的には together でなくてもかまわなくなります。離れていても精神的に together でいられるわけです。

また、子供たちは同じ年頃の子供たちと一緒にいることでも基本的自尊感情を育てます。年齢に応じた喜びもあれば悩みも生じます。それを同じ年頃の子供たちと共有することによって、基本的自尊感情が育っていくと説明されています。

近藤先生は子供の心理を扱ってらっしゃるようなので、大人になっちゃった人が基本的自尊感情を育てるにはどうすれば良いかという話は見あたらないのですが、(僕が発達障害について学んだ経験が生きるとすれば)子供に通用するやり方は大人にも通用します。

例えば僕らAAメンバーは、ミーティングで過去の飲酒体験と回復の経験を他のメンバーとシェアしています。これをひたすらやればいいわけです。過去に戻って一緒に再体験することはできないけれど、皆に共通のものはあります。物理的にトゥギャザーな空間で、経験を共有することが、基本的自尊感情を育てうるはずです。また、アフター・ミーティングで一緒に食事したり、一緒に病院メッセージやサービス活動をすることが、その人の自尊感情を高めるという考え方も当を得たものでしょう。

自助グループの定義の中に、「直接対面」とか「少人数」という条件が入っていることもこれで納得できます。ネットにおける自助グループが成立・維持されづらい原因もこのあたりにあるのでしょう。

基本的自尊感情が育てばそれで良し、とは僕は思いません。それだけではその人に変化(回復)は生じないでしょう。回復のためには行動する努力が要ります。しかし、基本的自尊感情は努力ができるようにその人の準備を整えてくれるでしょう。

棚卸し(ステップ4・5)では厳しい体験をせざるを得ません。自分の落ち度(誤り)を見つめることになるからです。それは褒められる体験とは逆の効果があるでしょう。つまり二階部分(社会的自尊感情)の泡を吹き飛ばす効果です。僕らは自分に対して持っていた幻想を吹き飛ばされます。多くの人が棚卸しを忌避するのは、それを予感してのことではないでしょうか。実際にはそんな惨めったらし経験にはなり得ない(つまりその予感は間違っている)のですが、でもやはり偽りの自信は失われます。

泡が吹き飛んでも大丈夫なためには、一階部分の基本的自尊感情がしっかりしていなければなりません。そのためには、しっかりAAミーティングに出席して、仲間と過去と現在の体験を五感で共有する経験を持ち、基本的自尊感情を育てなければなりません。それをせずに棚卸しに向かうと、痛みを避け、表面的な分析しかできないのではないかと思います。つまり自省という作業は「仲間とともにある」ことによって実現可能になるのです。

ジョー・マキューは、12ステップには勢いがあり、短期間で次々と進めていくべきだと主張しました。その考え方もよく分かります。しかし、僕はスポンシーが十分な回数ミーティングに出席し、グループの中にとけ込んで、今後泡が吹き飛ぶ体験をしても乗り越えられるなるまで待ってから棚卸しに取りかかったほうが、トラブルが少ないと思っています。

ミーティングと共同体はソブラエティをサポート(支え)てくれ、12ステップは変化(回復)をもたらしてくれる・・・まさにそうだと思います。

ビッグブックには自尊感情の育て方は直接書いてないかも知れません。しかし、これを書いた人たちは自分の周りにソブラエティを持った人たちの共同体を育てることを最後に提案しています。僕らはその共同体の中で、仲間たちと様々な体験を共有していくでしょう。それこそが変化(回復)へのエネルギーを与えてくれます。

(この項、おしまい)

テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

自尊感情・自己評価について(その2)

自己評価が低いことは辛いことです。そこで私たちは手っ取り早く楽になろうと、酒や薬に頼ったり、ギャンブルやセックスにふけったり、他者を支配しコントロールすることに熱心になりました。なぜならそれは私たちに一時的な万能感を与えてくれ、自信を与えてくれ、自己評価が高まった「つもりになれた」からです。

依存対象を断つということは、そうした解決手段を失うことでもあります。そのままでは、再発しやすいし、別のジャンルの依存症に移行しやすいままです。

では、どうやったら自己評価を高めることができるのか。

ここまで自己評価という言葉を使ってきました。それは self-esteem に対してビッグブックの新訳が「自己評価」という訳語をあてているからです。しかし、評価という言葉は evaluate (価値を見極める)という意味と取り違えやすいので、ここからは「自尊感情」という言葉を使うことにします。



この図は、リンク集に載せている共依存おやじさんのブログの記事に掲載されていたものです。
元記事はこちら。
http://ranran-panda.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-02c1.html

自尊感情(自己評価)というのは、実は二階建てになっていると考えられます。(この考え方は心理学者の近藤卓という人のものだと思います)。

一階部分が「基本的自尊感情」(basic self-esteem)です。これは「自分には価値がある」とか「このままの自分でいい」とか「自分は大切な存在だ」という感情です。

二階部分が「社会的自尊感情」(social self-esteem)です。これは「自分にもできることがある」とか「人より優れている」という感情です。

二階部分は、人に褒められたり認められたりすることによって成長します。良い学校を出たとか、良い仕事をしているとか、有名であるとか、知り合いがたくさんいるとか・・これらは二階部分を膨らませてくれます。成功とか他者からのプラスの評価によって高まる部分です。

上の図では、一階部分をビールに、二階部分をビールの泡に例えています。(アル中相手の話でビールを例に使うのは好ましくないとすれば、一階部分がゴンドラ、二階部分が気球の例えもあります)。自尊感情の高い低いは人によって違いますが、それはビールの泡の表面の高さです。表面の高さが同じでも、中身はほとんどビールの人もいれば、泡ばっかりの人もおり、ビールと泡が半々という人もいるでしょう。

ところで、二階部分(ビールの泡の部分)は、失敗や挫折によって失われやすいものです。泡が吹き飛んでみたらビールが底のほうにちょっとあるだけだった・・というアル中さんも少なくありません。真面目な子供時代を過ごした人たちです。努力によって、他者から分かりやすいプラスの評価を獲得してきた人たちです。しかし、アルコールによる挫折によって社会的立場を失ってしまうと、もう一度努力して再獲得する気力が生まれてきません。なぜなら、その人に残されたのは底にあるちょっぴりのビールに似たわずかな基本的自尊感情だけだからです。厭世的な無気力や抑うつに支配されており、「今さら努力して何になるのだ」と言いたげです。

こういう人がやる気を出すと、手っ取り早く人に認められ、褒められることばかり目指してしまいます。(いるよね、自助グループにもそういう人)。12の伝統の言う無名性の良いところは、そうした誤った自尊心の回復手段をいさめてくれることです。

逆に、ビールが多く、泡が少ない人は、今の自分に満足しすぎているので、努力できません。進歩がない人です。やはり、一階と二階部分のバランスが取れていることが大切です。

よく学校教育で、できの悪い子供でも「その子の良いところを見つけて褒めてあげる」と良いと言います。これによって伸びるのは二階部分です。もともと学校における情緒教育が社会的自尊感情を延ばすことを目的としているから、当然のことだとされます。

「褒めて伸ばす」というやり方が基本的自尊感情を育てないことに注目しなければなりません。高機能自閉症者テンプル・グランディンの本に、最近の学校の先生は生徒を褒めすぎるし、会社の上司は部下を褒めすぎると指摘していました。結果として

「褒められなければ動けない」

という人たちが増えてしまったと。褒めることは二階部分を伸ばすけれど、それはビールの泡のように吹き飛びやすい。結果として、常に褒められなければ落ち込みやすい努力できない人になってしまうわけです。いつも褒めて、大事に扱ってやらないと仕事しない部下ばっかりになってしまったら、面倒すぎてやってられません。やはり、世間から評価されようとされまいと、こつこつ努力できる人でなければ。

というわけで、二階部分は努力して他者からの評価を得ることで伸ばすことができることがわかりました。でも、一階部分(基本的自尊感情)の話は出てきていません。

逆境にあってめげず、自分の努力が実を結ばず無視されても腐ることなく続けていける強さは、いったいどこから手に入るのでしょうか。

(つづく)

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自尊感情・自己評価について(その1)

esteem という英単語は「尊重する、高く評価する」という意味です。

the esteem of our friends and business associates は「友人や同僚からの信用」と訳されています(12&12 p.120)。

セルフ・エスティーム(self-esteem)は、自分で自分をどう捉えているかです。ビッグブックのピーター訳版では「自尊心」と訳されていますが、新訳では「自己評価」となっているので、いまビッグブックのやり方をしている人たちは、もっぱら「自己評価」という言葉を使っています。

自己評価の低さは「自信のなさ」と言っても良いでしょう。ただし、それがいつも自信のない態度として表れるとは限りません。自己評価の低い人は異性と付き合おうとしないし、せっかく異性から誘われても断ってしまいます(自分に自信がないから)。

しかし、性的に活発な人の自己評価が高いとも言えません。浮気ばかりするダンナは、自己評価が低い(特に男性性に自信がない)からこそ、異性交遊によって手っ取り早く自己評価を高めようとしているだけだったりします。このように自信満々である人の自己評価が高いとは限らず、その態度は自信のなさの裏返しであったりします。(虚勢を張るというヤツで、しばしば依存症者はこれをやる)。

自分自身のことを正確に捉えるのは難しいことです。時には高く捉えすぎて自信過剰になり、また低く捉えて自己憐憫にはまります。表面で意識される自己評価がどうであれ、奥深いところでは人間は正直なものであり、それがその人の感じ方や行動様式として表れてきます。

もしあなたが、自分のことを傷つきやすい繊細なタイプだと感じていたり、日常生活の中でイライラさせられることが多いのなら、自己評価が低いと思って間違いがありません。

自己評価の低い人は、恨みや恐れを抱きやすい人であり、罪悪感や自己憐憫に支配されやすい人です(人との境界線が曖昧になりやすい人と言っても良い)。自己評価の低い人は自ら行動する人ではなく、他者の言葉や行動に「反応する」人です。ステップ4では、自分の自己評価が傷つけられたとき、私たちがどのように反応したかを過去のパターンを分析します。

ステップ5で私たちは、自己評価が自分で意識していたより低いことを知ります。その自己評価が何らかの外因によってさらに脅かされたとき、私たちは激しく反応し、恨みや恐れに支配されて行動し、それが自分の首を絞める結果につながりました。(もちろん脅かされるのは自己評価に限りません、財産だったり人間関係だったりいろいろですが)。こんなことを続けていたら、私たちはまた飲んでしまうでしょう。依存症の再発は死につながります。

飲まない生活を続けたければ、私たちはこの反応パターン(行動様式)を変えねばなりません。それがステップ6から先です。

スポンシーに対して「ここであなたが怒ったのは、相手の言葉で自己評価が傷ついたからでしょう」と言うのは簡単です。自分の怒りは自己評価が傷つけられたからという理由が示されるだけで、行動様式を変えられる人もいます。しかし、皆がそうではないし、変えられる人であっても、自己評価は低いままです。だとすれば、その人は相変わらず恨みや恐れを抱きやすい人であり、それを防ぐために大きなエネルギーを費やしていかねばなりません。

やはり「回復」と言うからには、自己評価そのものが高まっていくことも必要です。実は、ビッグブックにも12&12にも「こうやれば自己評価は高まる」ということは直接的には書かれていません。

どうやったら自己評価を高めることができるのか、それが問題です。

自己評価が高まった「つもりになる」ことは簡単です。それは自信過剰への道です。自信過剰の後には必ず自己憐憫が待っています。やはり「つもりになる」だけではダメで、本当に高まらねばなりません。

(つづく)

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プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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