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発達障害と発達凸凹(その2)

前の雑記では、人には能力の発達の凸凹が誰にでもあることを述べました。

その凸凹の特定のパターン(主に自閉圏とADHD)について、社会的な不適合が起きていればこれを「発達障害」と呼び、起きていなければそれは障害とは呼べず「発達の凸凹」というのが相応しいという話をしました。

では、発達障害に至っていない凸凹レベルであれば、何も問題ないのか?

それについて、前掲の杉山先生の『発達障害のいま』の内容の一部や、その他のことも含めながら、書いておこうと思います。

凸凹レベルであれば、社会生活を送る上での不適合がないので、何もしなくて良いことになります。しかし、凸凹が激しければ、そうとも限りません。何かの能力が弱いと、人は別の能力でそれを補おうとします。

例えば自閉傾向がある場合は「人の気持ちを読み取る」という能力が弱くなります。しかし、人の気持ちが読めないことと、他者への配慮が出来ないことは別のことです。人の気持ちを読みづらいぶん、逆に人の気持ちを気にかけるようになります。それが「人への思いやりと配慮に満ちた人」という評判につながることもあり得ます。

しかし、本来の能力を別の能力で補うのは、どうしても無理がかかります。例えば、人の気持ちに敏感になりすぎると、自分の気持ちが周囲の人の気分に左右されてしまいます。同僚が何かの理由で腹を立てて汚い言葉を口走っている場面を想像して下さい。その怒りの矛先が自分ではないことは分かっています。もちろん、隣に怒っている人が居るのは誰にとっても気分の良いものではありません。しかしながら、人の気持ちが気になりすぎて、自分の仕事が手に付かなくなってしまう、というのは誰にでもあることではありません。

他にも、自分としては他の人の気持ちを十分おもんぱかっているつもりでも、なぜか「人の気持ちの分からない人」という非難を受けてしまうとか。自分の行動や言葉が相手を傷つけてしまってないか、事後になって気になって仕方ないとか。

別の例として「二つのことが同時に出来ない」という例を挙げましょう。例えば、電話をしながら話の内容のメモが取れない、というやつです。話に集中するとメモが取れず、メモに集中すると相手の話を聞き逃すというパターンです。

同じことですが、仕事をしていて、別の仕事に割り込まれると、元やっていた仕事を忘れてしまう、というのもあります。この問題があるので、仕事をしているときに、電話がかかってきたり、上司に声をかけられると怒り出すこともあります。普通の職場では、作業中に上司に声をかけられたら作業を中断して上司と話をするものですが、発達障害の人を雇う特例子会社の職場では、作業中に声を掛ける上司のほうが悪いという理屈になります(環境調整の例)。

ADHDの場合には、整理整頓ができない症状が出ます。片づけや掃除が苦手なので部屋がぐちゃぐちゃになってしまいます。しかし逆に苦手だからこそ、強迫的にいつもきっちり片づけることもあります。こういう人がお母さんになると、子供が部屋を散らかすことにイライラします。小さい子供は散らかす存在であり、片づけない存在です。それを何とかしようと、親に過剰なしつけがしばしば虐待に発展していきます。

実行能力(遂行能力=executive functions)の問題もしばしば取り上げられます。これは、ある目標を与えられたとき、その期限から逆算していつ頃何をやるのか計画をたて、それを実行していく能力です。これは様々な能力の統合です。夕食にカレーを作るなら、何時頃買い物に出かけて、材料として何を買って、それを買うお金が足りないからまず銀行に寄って、という、計画し、そのとおり実行し、計画外のことが起きたら計画を修正しつつ目標を実現する能力です。この能力が弱いと、何月何日までに完成させろと仕事を与えられても、〆切の日に全然できてないってことが起きてしまいます。

代償的には、計画を細かく立てて、その通りに実現しようとします。計画通りに進めばいいのですが、計画外のことが起こるとパニックになったり、ストレスに感じられたりします。

いろいろな例を挙げましたが、発達障害のパターンは様々なので、ある能力の弱さとそれに対する補い方もこれ以外にたくさんあります。しかし、どれを見ても、なんだか負担が重そうで疲れそうですし、自分だけでなく周囲にその負担を押しつける結果にもなりがちです。その負担が「うつ症状」という形で出てきやすいのも想像できるでしょう。そうなれば、それは単なる凸凹ではなく「障害」ということになります。

では、発達凸凹の場合にはどうすればいいのか。

それは、自分が何を苦手としているか把握することです。無茶な適応戦略を採っているのなら、もっと自分にも周囲にも無理のない戦略に切り替えることが可能になります。杉山先生の本でも、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の兵法を引いて説明しています。

もちろん、この場合難しいのは己を知ることです。例えば、人の気持ちを読み取る能力が弱い人に対して、それを指摘したとします。しかし、その人が無自覚のうちに能力の弱さを感じ取って、かわりに人の気持ちを推し量り配慮を効かせる代償戦略を採り、しかもそれにある程度成功していたとしましょう。この人は自分が「人の気持ちを読み取る能力が弱い」とは思っていないでしょう。むしろ、その能力が人より秀でている思っているに違いありません。

能力の弱さが認められなければ、別の戦略を採ることもなく、その人の生き辛さは解消されずに残ることになります。これが「己を知ること」の難しさです。

発達障害の支援をしている人たちで、センスの良い人たちは、当然「己を知る」ことにも長けるようになります。杉山先生はアスペルガー的傾向があることを認めてらっしゃるし、福島の星野先生はADHD傾向を認めた話を書かれています。もちろん不適合のない凸凹のレベルという話なのでしょうが。その他の沢山の人たちも同様です。

この雑記で発達障害の事を読み、それが部分的であれ自分に当てはまって不愉快な気分になる人もいることでしょう。

しかし考えてみて欲しいのです。人間とは不完全なものです。そして、大多数の人は自分が不完全な存在であることを受け入れ、納得しています。自分が完全な存在であることを期待するほうが、どこか病んでいるのです。

突然12ステップの話になってしまいますが、ステップ2で必要なのは「神を信じること」ではなく、「自分が神でないことを知ること」です。こう言うと、自分が神でないことなど分かっていると反論される方がいます。自分は神でないと言いながら、一方で自分の完全無欠さを信じ、凸凹の存在から目を背けています。まさにそれこそが「神であること」です。

僕らは、アルコール(や薬物やギャンブル)をコントロールする「能力がない」と認めることが幸せにつながりました。もし「能力がある」ことにこだわっていたら、今ごろアディクションのせいで死んでいたでしょう。能力があることではなく、能力がないことを認めることが、人を幸せに導くのです。同じことは発達障害あるいは凸凹にも言えることです。

彼を知り己を知れば百戦危うからず。難しいのは己を知ることです。せっかく発達障害という分野にふれる機会を持ったのなら、自分がどんな凸凹を持っているか知り、どんな無理をしているか知るように努めるべきだと思います。

テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

発達障害と発達凸凹(その1)

「心の家路」の更新履歴を見ると、このサイトは2002年1月24日に初公開しています。(雑記はそれ以前から書いていますがそれは含めないとして)。1月の末になれば10周年というわけです。

2012年は政治の年です。アメリカ、ロシア、韓国で大統領選挙が行われ、中国でも党大会が開かれます。日本でもおそらく総選挙になるのでしょう。

今年の総選挙で、日本人が本当に原子力発電所の撤廃を望んでいるのかどうかがはっきりすると僕は考えています。表現を変えれば、日本人の多くは原発の撤廃を望んでいることは間違いないと思いますが、その思いが実際の投票行動にどれだけ影響するか。撤廃が重要なことだと思っていれば、それを約束する政党が大躍進するでしょうし、そうならないのなら、皆が放射能のことをそれほど深刻には捉えていないということになります。日本人が本当のところどう思っているか、それが分かると思うのです。

さて、杉山登志郎先生の『発達障害のいま』という本を、ようやく読了しました。ここ数年の発達障害に関する進歩がまとめられており、発達障害についてある程度の知識をすでに得ている人には「次に読む本」としてお勧めです。

ところで、「ひいらぎさんの雑記を読んでいたら、あの人もこの人も発達障害っていう気になってきた」という問いかけを受けました。

それについて書こうと思っていたのですが、実はさらりと説明するだけで済まない話題なので先延ばしになっていました。

杉山先生がどこか(たぶん「こころの科学」)に書いていた文章に、こんな話がありました。看護師が杉山先生のところに着任すると、仕事に必要なので発達障害について学び始めます。そして数ヶ月すると、外来に来た人が「あの人も、この人も、みんな発達障害」に見えてしまう、という訴えをするのだそうです。もちろん児童精神科医のところへ来る患者が全員発達障害のはずがありません。

発達障害の「障害」は、元は「障碍」という字を使っていました。ところが「碍」が当用漢字に入っていないので、同音の害の字を使っています。「碍」は妨げるという意味です。妨害という言葉も元は妨碍と書きました。(碍子は電気の導通を妨げる装置です)。

だから障碍(障害)とは、何らかの妨げによって、その人の能力に障りがあることを意味します。能力の発達が阻害されたのが発達障害です。

ところで、人は様々な能力を持っていますが、全ての能力が均等に発達することはあり得ません。例えば学校のテストで5教科すべてが同じ点数という生徒はまずいません(教科ごとの難易度の違いを差し引いても)。得意な科目もあれば不得意な科目もあるのが人間です。勉強以外の様々な能力についても同じことが言えます。

人は誰しも能力の凸凹を持ちます。それは能力の発達の凸凹です。前出の看護師は、その凸凹を敏感に感じ取ってしまったと言うわけです。

その凸凹が激しい人もいれば、あまり凸凹が目立たない人も居ます。そして、凸凹が激しい人のなかに、その凹の部分が足を引っ張って、社会的に不適合を起こしてしまう人が出てきます。その状態に発達障害という名前を付けているのです。

人はなぜ発達障害の診断を受けるのか。何も問題が起きていないのに、「いっちょ診断でも受けてみっか」と専門医を訪ねる人はいません。やはり何か問題が起きているからこそ医者にかかるのです。

だから、同じ程度の能力の凸凹を抱えていたとしても、社会的不適合を起こしていなければ(つまりその人も、周りの人も困っていなければ)発達の凸凹にすぎないわけで、不適合を起こすことで発達障害という診断に至ります。

その不適合とは、例えば仕事に就けないこと、学校に行けないこと、暴力を振るうこと、迷惑行為を繰り返すこと、依存症になること、うつ病などになることなどなどです。

というわけなので、僕が雑記で発達障害の様々な表現形について書いたことが、自分あるいは他の誰かに当てはまると思っても、その人に社会的不適合が生じていないというのなら、発達障害ではなく発達の凸凹と捉えてもらえばよいのです。言っておきますが、凸凹の無い人はいません。誰しも得手・不得手があり、人が人生につまずくときは、得意なこと(凸)でつまずくのではなく、苦手なこと(凹)でつまずくのです。

さて、発達障害にも様々な種類がありますが、目立つのは何と言っても「自閉症スペクトラム障害(広汎性発達障害)=ASD」と「ADHD(注意欠陥多動性障害)」です。

僕の雑記の中に書かれた発達障害についての表現が、自分や他の誰かに当てはまると思うのならば、やはりそれは自閉圏(ASD)あるいはADHDの傾向を、いくぶんか持っているということでしょう。それが「障害」と呼べるレベルかどうか、それだけで判断してはいけません。

大切なことは、人は全能力が均等に発達した「真円」ではなく、様々な能力が凸凹に発達したいびつな存在であり、その不完全さこそが「人間らしさ」です。

はてさて、この雑記を書き起こしたのは、

「では、発達障害に至っていない凸凹レベルであれば、何も問題ないのか?」

ということを書きたかったからです。それについて、前掲の杉山先生の『発達障害のいま』の内容の一部や、その他のことも含めながら、書いておこうと思います。

(続く)

テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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