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恨みの感情は人の心に何をもたらすか

ビッグブックの表形式の棚卸しは、まず「恨み」の表を書くことから始めます。

なぜそんな表を書くのか、という理由を説明すると12ステップ全体の話をしなければならなくなるので省略します。そのかわり、恨みが人の心にどんな影響を及ぼすかという話をしましょう。

恨みとは何でしょう。私は誰も恨んでいないと言う人も少なくありません。「恨み」という言葉で表現するほど強い気持ちじゃなくても、「気に入らない相手」「顔を合わせたくない人」「その人の言葉を聞きたくない」と思うような相手はいるのじゃないでしょうか。その人と接したり、接しなくてもその人のことを思い出しただけで嫌な気分になる・・その時に心の中に存在する感情が「恨み」です。

会いたくない人、避けたい人に対しては、私たちは恨みを持っているものです。

さて、怒りの感情は誰でもあります。それは正常な反応です。生きていれば理不尽な目に逢うこともあります。例えば満員電車で足を踏まれれば、痛いので頭に来ます(その痛みが快感だという人はちょっと黙っていてくれ)。自動販売機でおつりを取り忘れれば、自分に対して腹が立ちます。自己憐憫の気持ちです。しかし、そうした感情はその場限りのもので、過ぎ去っていきます。足を踏まれるからもう電車に乗らないとか、おつりを取り忘れるからもう自動販売機で買わない・・とはなりません。

恨みの感情は一過性ではありません。相手のことを思い出しただけで、嫌な気分になります。その人と同じ部屋にいるだけで(相手がなにもしなくても)楽しい気分が台無しになったりします。

なぜ相手を恨むのか。それは相手が過去に私(たち)を傷つけたからです。傷つけたといっても、身体的な意味に限りません。傷ついたのは私たちの自尊感情や名誉かもしれません。陰口を言われたとか、私の金を無駄遣いされたとか、責任を果たしてくれなかったとか。あるいは、セックスを拒まれたとか。私たちの傷つき方は様々です。

そうした過去のことを思い出すたびに(しばしば必要もないのに思い出すのですが)、私たちは過去の被害を再体験します。まるでビデオをリプレイするように。(ただビデオと違うのは、場面が正確に再現されず、リプレイするたびに脚色が施されるということです)。

私たちは恨みは正当なものだと感じます。だって、私たちを傷つけたのは相手ですから、相手が悪いのであり、反省するとすれば相手であって、私たちが何かする必要はない、と。

しかしここに罠があります。この理屈では、私たちが良い気分になるためには、相手が態度を改め、反省をし、行いを変えねばならないことになります。しかし、そうするかどうかは相手次第です。確かに相手が態度を変えてくれれば、私たちは良い気分になれるかも知れませんが、相手が変わらなければ私たちは悪い気分のままです。ということは、私たちの気分は相手次第ということです。

これはつまり、私たちの気分(心)を相手にコントロールさせ、支配させているということです。相手は別にこちらの気分など支配したいとは思っていないでしょうけど、こちらが勝手にそうしてしまっているのです。嫌な相手に自分を支配させ、コントロールさせる・・何とも自虐的な趣味です。

だから、自由になりたければ恨みを避けねばなりません。私たちは強い気持ちを持っていれば、相手を変えられると勘違いしてしまうことがありますが、しかしたいていの場合、どんなに強く相手を恨んでも、相手は変わってくれません。ますます自分の気持ちを相手次第にさせてしまうだけです。

だから私たちは「道路のこちら側を掃除」します。つまり、相手の落ち度ではなく、自分の側の落ち度を見つめます。態度を改め、行動を変えるべきは相手ではなく、自分であると。それは慣れないうちはラクではないことかもしれません。けれど、相手ではなく自分に問題があるというのは福音です。なぜなら、相手は変えられないけれど、自分は変えることができるからです。

そうして私たちは自由を取り戻し、良い気分で生きることができます。変えられないものを変えようとしないから疲れにくくなりますし、当然抑うつ気分も改善していきます。

さて、ここからは応用編です。

相手を恨んでいれば、気分を支配されてしますが、それは嫌な体験です。酒や薬やギャンブルで、その嫌な気分を解消するのも一つの手段です。しかし依存症になってしまうと、その手段は使えなくなります。すると人は別の手段に手を出します。

なんとか支配されている気分をごまかさなければならないので、例えば「腹を立ててはいないが、相手を軽蔑している」という言い訳を自分にします。しかし、この場合の軽蔑とは、恨みを別の言葉で言い換えただけで、なんとか気分を支配させないぞと強がって見せているだけです。

「自己憐憫」は相手に対する恨みが自分に向かった状態です。おつりを取り忘れたとき、自動販売機を恨むわけにもいかないので、自分を恨むのです。相手が人の場合には、相手との力関係で恨みづらいとか、自分の側の落ち度に自覚的の場合に、恨みは相手ではなく自分に向かって自己憐憫となります。(この場合、実は相手を恨んでいることを自覚することから始めたほうがいい)。

ありがちなのは、例えば親や職場の上司や同僚に恨みの感情を持っている人が、自分と同じ立場の人(例えば自助グループの仲間)に対して恨みを持っていないと主張することです。普通はそういうことはあり得ません。というのも、回復以前の恨みがましい人は、自分の周囲360度の人にまんべんなく恨みの気持ちを持っているものだからです。(なぜなら、問題を抱えているのは周囲の特定の誰かではなく、その人自身だからです)。

しかし、その人は恨みの感情が自分を傷つけ、相手との関係も悪くしてしまうことを体験的によく知っているものです。同時に、自助グループはその人にとって「大切な居場所」であり、社会の荒海を渡っていくための船着き場みたいなものです。だからそこで居づらくならないように、グループの仲間に対して恨みを持たないように気を使います。恨みを持ったとしても、そんな自分をなんとかごまかそうとします。

そうした自己流の対処法は、たいていうまくいきません。一つには、そこで堪えたぶんだけ、仲間以外の人に対してより恨みがましくなります。もう一つは、結局そのグループにもやがては居づらくなります。すると今まで「大切な仲間」と言っていた相手に対して、失望したなどとして評価が180度反転します。こういう人は、何年もかけて、あっちこっちの自助グループを転々としている場合が多いのです。まさに「自分に正直になれない」人というのは回復の率が低いのです。

人はどんなに好きな相手にも、同時に恨みの感情を持っているものです。そういうアンビバレントな存在なのです。だからこそ、そういう偏った表を書いてきた人には、実は仲間のことを大変恨んでいるということに気づくようなガイダンスをしてあげなければなりません。そうしなければ、その人が自分の本当の姿を見ることができなくなり、回復が難しくなります。また、どんなに恨んでいる相手に対しても、その相手のことを評価し、認めている部分も発見します。

好きであると同時に嫌いでもある。白であると同時に黒でもある。人と人との関係とはそういうものだと納得することが大切なことだと思います。

怒りや恨みは大変強いエネルギーを持った感情であり、大きな被害を受けた人が、恨みを生きるエネルギーに転化している場合もあります。生きるために、恨みのエネルギーしか頼るものがない場合もあります。しかし、見てきたように恨みの感情は自分自身を蝕むものです。最初は頼りになった酒や薬が、やがて自分を蝕みだしたように、蝕まれていることが分かっていても酒や薬がやめられなかったように、頼りになった恨みの感情が、やがては自分を蝕みだし、それでも恨みを手放せなくなってしまうことは多いものです。

光市母子惨殺事件の上告棄却について、被害者の夫の方が記者会見をしていました。最初の頃は、妻と子どもを殺された恨みがこの人の人生を支えていたことは間違いないでしょう。しかし、いつまでも恨みを頼って生きていくことはできません。変わってしまった人生から、また新しい物語を紡いでいくには、別のものが必要です。もちろん、そうした変化は容易なことではなかったでしょうが。

恨みの話をすると、「もう恨みは手放します」と言いだす人がいます。しかしそれができるのだったら、もうずっと前にしていたことでしょう。やはり能動的な何かが必要であり、棚卸しもその一つです。こう考えてみると、回復とはやはり単に酒や薬やギャンブルが止まっていることではなく、人生の転換です。棚卸しの相手をするということは、人生の転換点に立ち会うことですから、そこには感動があります。せっかく転換点に立ち会ったのに、そのままの人生を歩み続けていってしまう人もいます。残念と言うしかありませんが、相手をする側の技量不足という面もあります。
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テーマ : メンタルヘルス・心理学
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伝統破り?

> だからAAにいる私たちは霊的原理に従っている。最初はやむを得ず、そして最終的にはそれに従うことによってもたらされる生きかたが好きだから従っている。
> (『12のステップと12の伝統』p.237)

> AAの回復のステップと伝統は、私たちそれぞれの目的のために必要なおおよその真理を表していると私たちは信じるようになった。ステップや伝統を実践すればするほど好きになる。だからAAの原理が、今あるかたちで護り続けられていくことに疑問の余地はない。
> (『ビルはこう思う』86)

AAの12のステップは、酒をやめた後で人格を磨くために取り組むものである・・というのがありがちな誤解です。12ステップはまさに「酒をやめるため」の手段です。

とりあえず今は酒を飲んでいなかったとしても、再飲酒を繰り返していた頃と考えが何も変わっていなければ、次の再飲酒は遠くない未来にやってくることになります。それでは「酒をやめられた」とは言えません。再飲酒を防ぐためには、変化を起こす必要があり、その変化こそが回復です。12ステップとは必要な種類の変化を起こす手順です。

12のステップの字面を読むと、ずいぶんストイック(禁欲的)なことが書かれていると思われるかも知れません。なんか、反省を強いるような印象があります。確かに、12ステップの作業はあまり楽しいこととは言えず、AAメンバーもついつい「もっと易しい、もっと楽なやり方」、つまり安易な方向へと流れてしまいがちです。だから、AAメンバーでも12ステップをやっていない人がたくさんいます。

しかしステップをやっている人たちは真剣です。なぜなら、なんとか再飲酒をふせいで、生活を立て直し、良い人生を送りたいからです。それに必要な変化を我が身に起こしたいと願うからです。

だから人は最初は「やむを得ず」12ステップに従います。

しかし、やった結果は「酒がやめられる」以上のものです。それは実際にやった経験のある人に聞いてみれば分かります。人生の様々な問題に以前よりずっと上手に対処できるようになり、退屈や疲れやすさもなくなっていきます。人生が楽しめるようになれば、それを手放したくないと思うのが人情です。だから、12ステップをやった人は12ステップが「好きになる」のです。

見かけは不味そうで最初は敬遠しているけれど、勧められて食べてみると美味で好物になる。12ステップもそういう食べ物みたいなものです。

さて、AAの「12の伝統」というのは、そうして(霊的)変化が起きた人たちのグループを、どうやって維持していくかという原理です。そして「12の伝統」についても、12ステップと同じ事が言えます。

それは、12ステップに取り組む前の人にとって、12の伝統は「ルール」に感じられるということです。ルールは外から人を縛るものです。束縛を受けることは誰だって不自由で嫌だと感じますから、12の伝統のことも好きにはなれません。だから、つい自分の考えに任せて、そこから逸脱しようとします。そして「12の伝統はそれほど厳密なものではない」と言い訳をします。

しかし、12のステップによる回復を経た人は、12の伝統の価値も分かるようになります。最初は「やむを得ず」しぶしぶと従っていたのが、「好きになる」というのもステップと同じです。自分が価値を認めるもの(12の伝統)から、わざわざ逸脱したいとは思いません。

伝統に共感できず、それを不都合な制約と感じるのは、ステップによる回復を経ていないからです。だから12の伝統に対する態度は、その人の回復をみきわめるリトマス試験紙になります。12ステップで回復したのに12の伝統を尊重しない人はいません。尊重していないのなら、その人は回復していないのです。そういう人に「伝統を守れよ」と圧力をかけてみても、その人は理不尽な押しつけを受けたとしか感じられないでしょう。それよりも、12ステップをやったほうが良いよ、というアドバイスのほうが適切です。

12ステップの効果が出ているかどうかは、その人が12の伝統やアノニミティ(無名性)を尊重しているかどうかで推し量ることができます。

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またまたDSM-5

NHKスペシャル「ここまで来たうつ病治療」は、やはり残念な番組だったようですね。見てないので、あちこちのブログの評判から判断しているだけですけど。TMS(経頭蓋磁気刺激)の素晴らしさみたいな話は聞きますが、じゃあなんで今までECT(電気痙攣療法)が避けられてきたのかっていう話は出て来なかったのでしょう。

以前「リサーチ200X」っていう、一見科学的でありながら「そんなわきゃねーだろ」とツッコミを入れながら見るのが楽しみという番組がありましたが、最近のNスペもそういう路線ですか?

さて、DSM-5への改訂作業は1999年から始まっているそうですが、ようやくホームストレッチにさしかかったようです。

DSMについて簡単に説明しておくと、アメリカ精神医学会(APA)の定めている、「精神疾患の分類と診断の手引(Diagnostic and Statistical Manual)」のことで、精神医学の診断バイブルとも呼ばれています。現在使われているのはその第4版改訂版(DSM-IV-TR)です。DSMの変更はアメリカ国内のことですが、やがて日本にも影響が及んでくることは間違いありません。

雑記でもDSM-5については何度か言及しています。
DSM-5ドラフト
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100224

ドラフトに対しては、いろいろな反応があるようです。まず発達障害関係では、自閉症・アスペルガー症候群・PDDNOSなどが「自閉症スペクトラム障害(ASD)」に統合されることになっていますが、合わせて行われる診断基準の変更によって、多くの人たちが該当しなくなるという指摘があります。

DSM-5:自閉症の多くが診断クライテリアから外れる可能性
http://kaigyoi.blogspot.com/2012/01/dsm-v.html

[自閉症]DSM-5:自閉症スペクトラム障害の診断基準変更に伴うインパクトに関する報道について
http://d.hatena.ne.jp/bem21st/20120122

自閉症の範囲が狭くなると、グレーゾーンの人たちが健常だと判断されることになり、必要な福祉サービスや支援を受けられなくなる、という問題があります。

自閉症の線引きを縮小したほうが、国の負担が減ったりとか、あるいは以前に書いたようにADHDへ患者を振り向けてADHDの治療薬を売りたい製薬会社や、支払額を減らしたい保険会社の思惑があったりする・・のかもしれません。

依存症関係では、DSM-IVで「物質関連障害」と呼ばれていたものが、ドラフトでは「嗜癖およびその関連障害」という表現に変わり、「依存」という言葉は捨てられています。

以前、依存とは離脱症状のことだと書きました。しかし乱用薬物の中には離脱症状のハッキリしないものがあって、依存を頼りに診断するのは不適切です。またまた頭痛薬や胃薬や花粉症の薬にも離脱症状があって、それはアディクションとは言えません。結局依存というのはアディクションを表現するのに適切な言葉ではなかった、という反省があります。(さらには、アディクションの対象が物質以外にまで広がるに当たって、人が何かに「依存すること」そのものが悪だという誤解まで生じてしまいました)。

さらにドラフトがチャレンジングだったのは、対象をアルコールや薬物に限らず、ギャンブルを含めたことです。ギャンブルは「病的賭博」として衝動制御障害の中に入っていたのを移動させました。さらにインターネット嗜癖とセックス嗜癖をAppendixに置きました。

これは物質使用(アルコールとその他薬物)とそれ以外のアディクションの間にあった垣根を取り払い、アディクションとして一つの分野に統合しようという、とても意欲的な取り組みでした。しかし、パブリック・コメントを受けて、病的ギャンブルは元の衝動制御障害に戻っています。統合は頓挫した形です。

最近は日本でも、ギャンブル・買い物・セックス・ネット・食べ物などのグループも増えてきました。そういう人たちと付き合ってみると、たしかにアルコールや薬物と同じアディクションが成り立っている人もいますが、別のアプローチのほうが効きそうだという人も少なくありません。安易なアディクション概念の拡大は慎んだほうが良いと思います。

DSM-5はこの春に最終ドラフトが発表され、2ヶ月間のコメント受付期間があり、それを受けて最後の修正が行われ、来年早々に採択される予定です。医者ではないので特別な関心を持っているわけではなく、しかも二次情報の後追いばかりですが、当事者活動にもいずれ影響は及んでくると思います。

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受容と承認

心理学や哲学は、人間の欲望を解明しようとしてきました。フロイトの性欲説、マズローの欲求段階説、アドラーの優越追求説、ロジャーズの自己実現と承認欲求の対立。いずれも、人間の欲求を構造化することで把握し理解しようとする試みです。

『12のステップの12の伝統』のステップ4では、人間の欲求を、共存本能・安全本能・性本能の3分野に分類するという独自の構造化が行われています。

共存本能の例としてあげられているのが「仲間作りの欲求(companionship)」です。これは人の集団に所属したい、仲間として受け入れられ、価値ある存在として認められたいという欲望です。マズローの欲求段階説で言えば、第3段階の所属と愛の欲求・第4段階の承認の欲求にあたるのでしょうか。

12ステップでは人間の本能(欲求)を「神から与えられた善いもの」として必要なものであり、どれが良いもので、どれが悪いという扱いはしていません。ただ、いずれかの本能(欲求)が暴走すると、自分の持つ他の欲求を抑圧したり、同じように欲求を抱えた他者との衝突を招きます。そうした偏りを招くのが、私たちの持っている欠点だとしています。

ついでに言うと、そうした欠点が首尾良く取り除かれれば、自分の中の様々な欲求を、同じような他者との関係を見極めつつ、バランス良く充足させて生きていくことが人にはできる・・という性善説というか、楽天性が12ステップにはあります。そうした楽天性は、親に存分に愛されて育った人が持っている楽天性に通じるものだと思います。ほら、そういう人って、心にぽっかり穴が開いた人間から見ると鼻持ちならないほどの自己効力感の持ち主だったりするじゃないですか。でもそうした楽天性を持っていたほうが、逆境に強く、自分の能力を発揮して生きていけるように思います。

で、所属と承認欲求の話に戻ります。普段この雑記にはスポンシーだとか僕の身近な人々のことは書きません。それは書いて欲しくないだろうと思うからです(どうせロクでもないことしか書かないし)。でも、たまには書いてしまいます(もちろん気を使いながら)。

ずいぶん前になりますが、AAスポンシーが「僕はホームグループのみんなに受け入れられているのでしょうか?」と尋ねてきたことがありました。「受け入れられているか?」という質問は、裏返せば「受け入れられていないように感じる」とか、「受け入れられていないような気がして不安だ」という意味でしょう。一緒にいてもなんとなく疎外感を味わっているとでも言いましょうか。集団の中の孤独感。

じゃあ、彼がこう言っているんだけど、とグループの他のメンバーに伝えたとしたら、みんなは首を横に激しくふるでしょう。受け入れてないなんてとんでもない! 存分に仲間扱いしているじゃないかと。もし彼がASD(具体的にはアスペルガー症候群)だということを皆が知っていなかったら、中には「言いがかり」だと言って怒り出す人もいるかもしれません。いないけど。

どうしてこのようなギャップが生じてしまうのか。きっとそれも発達障害の特性ゆえではないかと思います。

自閉の三要素は、想像力の障害・コミュニケーションの障害・社会性の障害です。社会性の障害は、前者二つの障害の結果だとされます。よく「空気が読めない」と表現されるのは、想像力の障害にカテゴライズされます。そして、先ほどの、十分に受け入れられているのに、受け入れられていないと感じるのは、このKY特性ゆえではないかと、僕は捉えています。

人間同士のコミュニケーションには、非言語的なメッセージもたくさん使われています。その中には、「あなたは私たちの仲間ですよ」「受け入れていますよ」というメッセージを、表情や身体的な所作で表現することも含まれています。(逆に邪魔だからとっとと出て行けという非言語的メッセージが発せられる場合ももちろんある)。

グループの仲間、あるいは職場の同僚や、家族。そうした自分を囲む人たちが、「私はあなたを受け入れています」というメッセージを発していたとしても、そのメッセージを受け取ることが苦手であれば、受け入れられていることが実感できず、疎外感すら感じてしまうでしょう。その苦手さに発達障害の特性が絡んでいるだろうという話です。

よく「自分の意見が否定されたとしても、自分という存在が否定されたわけじゃない」と言います。意見を否定されることと、所属と承認を拒否されることは違うということです。しかし、意見が言語的コミュニケーションで否定されつつ、同時に所属と承認が非言語的に伝えられるとしたら、自閉圏の人たちはどう受け取ってしまうでしょうか。意見を否定された以上、自分という存在はここでは望まれていないのだ、と捉えてしまうことが十分あり得るでしょう。

「仲間作りの欲求(companionship)」というのは、とても強いものです。しかし自閉圏の人は、その欲求を満たそうとする努力に見合っただけの成果を受け取れない(受け取っているのに感じられない)という困難を抱えているのではないか、というコンセプトです。

感度が鈍いんだったら、強く刺激すりゃいい、っていう考え方もあります。AAグループの中にも、大変真面目で、なおかつホモソーシャルな雰囲気のところもあります。妙に体育会系のノリだとか。そんな風に文化を単一化すれば、それに合わせることができる人は、所属と承認を十分に感じることで安心感を得られます。ある依存症施設では、「愛」や「仲間」という単語が使われ、ハグをして仲間意識を高めあっています。アイコン的単語を繰り返し、ハグというオーバーアクションの分かりやすい所作によって、疎外感を取り除く努力とでも言いましょうか。なるほど、そういうやり方もあるのか、と納得です。

じゃあ、ひいらぎ、お前はなぜそういう戦略を取らないのだ、と言われるかも知れません。

ホームグラウンドに戻ればいつでも仲間が分かりやすく受容してくれる、ってのは素晴らしいことに違いありません。けれど人はそこだけで生きているわけではなく、ふつーのメッセージが飛び交う世間の中で生きていかなければなりません。たとえ感じられる受容と承認のシグナルがか細くても、確かに自分は受け入れられているという確信を持って進んで欲しいと思うからです。その為には、人は誰でも基本的には信頼できる、という人間存在に対する根源的な信頼を身につけて欲しいし、その為に12ステップは有効だと思うからです。つまり環境を変えるばかりではなく、本人が変わって欲しいわけです。(ま、だいたいAAはハグの文化じゃなくて、握手の文化だしね)。

受容と承認のメッセージは、おそらく親から子に向けられて発せられるものが最も強いのだと思います。「私は親から愛されなかった」という人は、それがアダルト・チルドレンとしての自覚につながっていることがしばしばあるのですが、その「愛されなかった」というのは果たして本当だろうか、と僕は疑いを持ちます。客観的に見れば、存分に愛されていることもしばしばだからです。となると、親が発するシグナルの絶対量が不足していた可能性ばかりでなく、子どもの側が信号を受け取る能力が弱い可能性にも目を配らなければならなくなってきます。

いずれにせよ、受容と承認は人間にとって大事な欲求だということでありましょう。

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情報メディアと人間の不安

毎年年末には「心の家路」のWebalizerのデータをまとめているのですが、昨年末は忙しくて手が回らなかったので、今頃になってまとめです。

2011年一年間の統計データ
送出バイト数 54.6Gbytes
訪問者数 63万2千
リクエストページ数 298万
リクエストファイル数 445万
リクエスト数 510万

一日あたりの訪問者数は、以前は2,000人/日ぐらいだったのですが、昨年は1,700人/日ぐらいまで落ちています。日々雑記の更新頻度がすっかり落ちてしまったのと、FC2ブログに同じ内容を載せているので、そちらを見ている人はカウント数に入ってないことも影響しているのでしょう(スマホから見るのであればFC2のほうが見やすいし)。

ただ今年に入って少し増えて、また2,000人/日ぐらいに戻っています(謎)。

(人/日といっても、検索エンジンのロボットも含まれており、実際の人間を数えているわけではないので、それは割り引いて考えてください)

さて、話題を変えて。昨年3月11日以降、多くの人が感じたことのひとつは「マスメディアへの失望」ではないでしょうか。政府や電力会社が情報を隠蔽しているのではないか、そして新聞・テレビ・ラジオなどのマスメディアは、その隠蔽に加担しているのではないか、という疑いが生まれました。いわば、メディアの公平性への失望でしょうか。

多くの人たちが見落としているのは、新聞であれ、テレビであれ、企業が運営しているということです。営利である限り、売り上げが必要です。毎年8月15日になると戦争反対の論陣を張る新聞ですら、第二次大戦中には翼賛体制の中に組み込まれていました。百人、千人単位の雇用や、会社やメディアの存続を考えたとき、それ以外に選択肢はありませんでした。

新聞は購読料だけでは成り立たないので広告主が必要です。ましてテレビ・ラジオの民放ともなれば、収入の大部分を広告料が占めます。メディア各社にとって「大事なお客様」とは購読者・視聴者ではなく、広告主です。コンテンツに広告主の意向に従ったバイアスがかかるのは当然のことです。

では民間企業ではない国営メディアはどうかといえば、当然政府の介入があります。

純粋に購読料や視聴料だけで成り立っているメディアがあれば、もっと公平性が担保されるかもしれません。しかし、ニュース専門チャンネルの加入数が伸びないところを見ると、どうやら人々は公平性に金を払うだけの価値を認めていない、ということになります。

フィルターのかかっていない情報が見たければ、2ちゃんねるやTwitterがあります。ただし、そこにある情報は玉石混淆で、真偽は受け取る側が判断しなければなりません。基本的な情報リテラシを養う教育も施されない中で、人々に自己責任ばかり求めるのは酷だと感じます。

反原発デモがニュースに取り上げられないことを、酷い話だと言った人がいましたが、公平性を期待すること自体が間違っているという視点は持っていないようでした。そもそも公平性とは何か。反原発デモがニュースに取り上げられないと言っていた人も、某宗教系政党が行った人数がより多いデモがメディア各社にまったく無視されたことには憤りを感じないだろうと思います。

そもそも、人はフィルターのかかっていない情報に価値を認めていない側面があります。最もフィルターの少ない報道として挙げられるのが、NHKの国会中継です。あれはフィルターやバイアスが皆無とは言いませんが、他の番組に比べれば格段に少ない。しかし、国会中継の放送が面白くて、好きで好きでたまらないという人にはお目にかかったことがありません。

人々はフィルターを経てバイアスがかかった情報を欲しがっています。ただ、そのバイアスのかかり方が自分好みであるかどうかが気になります。だから昨年起きたことは、大手メディアの信頼性への失望ではなく、大手メディアが自分の好みのバイアスがかかった情報を提供してくれない事への失望だったと言い換えることができます。

3月原発事故以降、放射線関係の書籍の売り上げが大幅に伸びました。それはビジネスチャンスでした。ところが、出版関係の人のブログによれば、そのブームも夏には沈静化してしまったそうです。人々の関心の移ろいは早いものです。しかし、来月は事故の一周年にあたります。再びビジネスチャンス到来です。おそらく皆さん商売に精を出されることでしょう。商売はそんなに悪いことではないと思うのです。

ここで「そんなに」悪いことではない、と限定を付けたのは、実は結構悪いことも起きるからです。

いまの日本はモノがあふれており、そんな中で商売をするには、人々の不安を煽るに限ります。つまり、髪の毛が薄くなるのは良くありませんよ、と不安を煽れば、育毛剤やカツラが売れます。インポテンツが良くないと不安を煽ればバイアグラが売れます。結婚できないのは良くないと不安を煽れば、婚活産業が流行ります。ほら、これを手に入れないあなたは不幸です。不幸であることも知らないなんて、可哀想なあなた・・、というメッセージであふれています。原発事故や放射線関係の出版や放送も、この不安を煽るという手法にうまくマッチしています。

解消できない不安は、精神に対しても、肉体に対しても、健康を害することが知られています。「ヤマアラシのジレンマ」のブログの方に二つほどあげておきましたが、実はチェルノブイリの原発事故では、放射性物質による外部被曝・内部被曝による健康被害よりも、放射線による健康被害が強調されるあまり人々が不安に陥った事による被害のほうが深刻だった、という見積もりがあります。

福島の事故ではどうかは後年の検証を待たねばなりませんが、原発事故がもたらした被害より、人々の不安を煽る情報が流布した事による健康被害のほうが大きくなると予測します。というのも、チェルノブイリの時代よりも情報メディアが発達し、人々が不安な情報に触れる機会が増えているからです。(もちろん個々の例でいえば、直接被害のほうが大きい例はたくさんあるでしょうが、全体としての話)。

東京電力は商売の上で健康被害をもたらしたことで激しく非難されています。それは非難されて当然です。しかし、同じく大きく健康被害をもたらしている商売が非難されることはありません。(善意において不安情報を拡大している人たちはどうか)。

パソコンが誕生し、インターネットや携帯電話、FacebookやTwitterとメディアは進歩を続けてきました。しかし、メディアが人間にもたらす混乱は、僕が30年近く前に大学で情報について学んでいた時代とまったく変わっていません。なぜなら、メディアは変わろうとも、人間はちっとも変わっていないからです。おそらく、千年後も(人類が滅亡していなければ)変わらないでしょう。

メディアの問題なのではなく、それに接する人間の側の問題なのです。つまり自分の問題というわけですが、多くの人はそれを自分の問題として捉えていません。

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答えを求める人・応えを求める人

Twitterにこんなつぶやきがありました。
https://twitter.com/#!/sweets_shocho/status/162331930463977473
> 多くの人たちが求めているのは後者なんだろうと思います。RT @mayakima: 日本語の「こたえ」にはどうして「答え」と「応え」があるかには意味があると思う。

「答え」というのは解決方法。「応え」は応答してもらうこと、相手をしてもらうこと。

12ステップというのは、アディクションの問題に対しての解決方法を提供してくれる道具です。だから、AAなどの12ステップグループでは、問題と解決策について分かち合うことになります。AAであれば、問題はアルコールに打ち勝てないということであり、そのために人生がどうなってしまったか、です。解決策は棚卸しやら埋め合わせの経験の分かち合いということになります。

つきつめて考えると、AAのミーティングでは酒の話と12ステップの話だけしていれば良い、ってことになります(少々極端な言い方だけど)。だから余計な話をするなよ、と少々強めの圧力をかけつつミーティングをやっていても、それなりの人数が集まってきます(実際には逸脱も多いしね)。それは問題を解決したいという思いが強い連中です。いわば「答え」を求める人たち。

だが、そういうミーティングは窮屈で嫌だと思う人もいます。もっと自由に、今週あったこと、今日あったこと、様々なことを話したい人もいます。年配の女性は嫁の愚痴を言い、サラリーマンは会社の不条理を嘆き、職場の「困った同僚」の話をします。傷ついたとか、腹が立ったとか、あるいは頑張らねばならないのに頑張れないとか・・。そういう話をする場をAAミーティングに求めている人たちが確かにいます。

それは相互援助(自助)グループの目的外使用です。しかし、自助グループに、愚痴や恨み言や弱音を吐く場所としての機能を求めている人たちはたくさんいます。

おそらくこれは間違いなく言えることだと思いますが、そういう人たちはミーティング以外に恨み言や弱音を言える場所を持たないのです。内面の負の感情を言える人間関係をミーティング以外の場所で持っていないか、そうした信頼できる人間関係を築く能力が弱い人たちです。なぜ、そんなことを断言してしまうかといと、僕もAAにやってきた頃はそうだったからです。

こういう人たちが求めているのは「応え」のほうです。否定したり叱ったりせずに話を聞いて欲しい。理解して、できれば承認して欲しいということであり、必ずしも解決方法を求めているわけではありません。助言は受けたくないし(自己否定感が強まるから)、助言を受けいれたとしても実行には移しません。

「答え」を求める人と、「応え」を求める人。自分の目の前に来た人が、どっちを求めているかです。「応え」を求めている人に、12ステップという「答え」を提供しようとしても、うまくいきません。ニーズとシーズがずれているからです。

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プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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