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発達障害ネタ

スポンシーさんとステップワークをやっていました。彼が持ってきた紙束の中から、棚卸し表を取り出そうとするのですが、なかなか見つかりません。「あれ、どこ行っちゃったかな。忘れちゃったかな」と言いながら数分探し続けたのですが見つかりません。こちらも、表がなかったら今日はどうしようかなどと考えながら待っていると、そのうち「あ、ここだ」と脇に置いてあった棚卸し表の束が見つかりました。

鞄から他のものを取り出すのに邪魔だったので、棚卸し表を取りのけて脇に置いたのを、すっかり忘れてしまっていた、という話でした。

実は彼は発達障害の疑いで専門医を受診しているのですが、医師によれば、そのように「ついさっき物をどこかに置いたことを忘れて探し回る」というのは、ADHD(注意欠陥多動性障害)の典型的な症状なのだそうです。

・・・そんなんだったら、いくらでもある僕です。

実は先日の夜も、風呂上がりにドライヤーで髪を乾かし終え、メガネをかけようと周囲を探したのですが、メガネが見あたりません。普段だったら、ドライヤーをかける前にメガネを外してテーブルの上などに置くので、あちこち探したのですが見つかりません。埒があかないので家人にも手伝ってもらうのですが、それでも見つかりません。「風呂に置いてきたのではないか」「二階にあるのではないか」と言われ、自分の記憶はハッキリしてないのですが、普段どおりこの辺に置いたはずなので、風呂や二階という可能性はないはずでした(ええ、そうに違いありません)。

数分後、ふと気がついてお風呂を見に行ってみると、湯船の底にメガネが沈んでいました。メガネをタオルでぬぐいながら風呂から出てきたら、家人にはすっかり呆れられてしまいました。

こういうADHD的な僕が、アスペルガーとか自閉圏の多いIT業界で働いているので、結構気疲れするわけです(慣れますけどね)。

この雑記では以前、発達障害に関する連続記事を書いたことがありました。知的障害→自閉圏と話を進めて、次にADHD、最後に杉山先生が唱える「第四の発達障害」(虐待による発達障害)で締めくくる予定でしたが、ADHDの話の前で途切れてしまいました。

最近、雑談の中で聞いた話だったので、元ネタはどこか忘れましたが、発達障害と診断される人で、純粋なADHDの人はほとんどいない、という話でした。でも、実際にはADHDと診断される大人は結構いるわけです。それは、発達障害の診断に慣れていない医師が、心理検査の結果に頼りすぎて、目の前の患者の特性を見落としてしまった結果、ADHDという診断を下してしまうからではないか、という話がくっついていました。

国際的な診断基準では、ADHDと自閉圏の症状が重なっている場合には、自閉圏の診断を優先する決まりです。だから、アスペルガー症候群とか、高機能自閉症とか、PDDNOSとか、広汎性発達障害とかの診断名がつくはずのものが、ADHDという診断になってしまっている。実際にその人の社会適合を妨げているのは、ADHDの症状より自閉的な症状であるのに、それが無視される結果になっているわけです。

僕も、純粋なADHDの人で、発達障害の診断を受ける大人は珍しいのではないかと思っています。いるとすれば、余程症状の激しい人でしょう。以前テレビでADHDの女性の生活を放映していました。それは最初はキッチンで料理をしている場面で始まります。そこで宅急便が来て呼び鈴を鳴らすと、鍋を火にかけたままそれに応対しようと玄関に向かいます。戻ってくる途中で洗濯が終わっているのに気づき、洗濯機から取り出して干し始めます。そこへ電話がかかってきたので、話に夢中になり、やがて焦げ臭い匂いに気づき・・という流れでした。さすがにここまでの人は珍しいでしょう。

ADHDは子供の頃は顕著なものの、脳が成長する連れてバランスが取れて症状が治まっていき、成人する頃には目立たなくなるケースが多いわけです。(それが連続記事が途絶えた理由でもある)。むしろ自閉の社会性の障害のほうが、適応の障害になりがちです。

別の話ですが、病名のかっこよさ悪さってのはあると思います。

佐々木倫子の『おたんこナース』というマンガに、糖尿病という病気はかっこわるいという話が出てきます(病名に尿がついているから)。精神科の病名だと、統合失調症という病名は忌み嫌われるけれど、うつ病だったらオッケーという風潮があるように思います(昔だったら神経症とかはオッケーだった)。

発達障害というジャンルにも、似たような雰囲気があって、例えばアスペルガーっていうと「なんか頭がよさそうな感じ」とか(実際には自閉の症状がやや重度という意味)。自閉症よりADHDのほうがマシに感じられるとか・・・。

そういう雰囲気を背景に、自閉よりADHDのほうが本人も家族も受容しやすいというので、そちらを選んでしまう医師がいる・・・というのは雑談レベルの話なので、まともに取り合ってもらっちゃ困りますけどね。

ある場所で自分をADHDだと言っている人の話を聞いていたのですが、待ち合わせの予定に遅れるのがADHDの症状だと言っていました。確かに、待ち合わせの予定そのものを失念してしまうのは、ADHDの症状としてありがちなことです。でも、話の中身は、待ち合わせの予定から逆算して、何時に家を出れば間に合うか計画を立てる能力のことを言っていましたから、それは自閉の問題です。適切な支援策を受ければ、問題は緩和するはずなのですけどね。ADHDという診断がミスマッチを招いているわけです。

話はさらに飛んで、アメリカのAAはADHD的文化で、どんどん変えていくのを良しとし、日本のAAは自閉文化で、いつまでも変わらないことを良しとする、なんて言った人がいました。(日本人からすれば、そもそもアメリカという国全体がADHD的に感じますけど)。

日本のAAでは「先ゆく仲間からの述べ伝え」などと言って、先達から受け継いだやり方を変えないことが良いという雰囲気があります。たぶん始めたときにたまたまそうなっただけで、そうした意味は大してないのに、ともかく「変えてはいけない」という雰囲気が強いのです(自閉的こだわり)。

例えばバースディミーティングとかも、そのグループのやり方が「式次第」みたいに決まっていて、ちょっとでも変えると「違う!」とか指弾されちゃったりして。新しく司会進行役をする仲間が、オールドタイマーから何か言われやしないかと緊張しまくりとかね。(ADHD的な)僕に言わせれば、本質が保たれていればやり方なんてどうだって良いじゃねーかよ、と思うんですけどね。

えーと、何の話でしたっけ。
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テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

12の伝統の解釈自由度

AAの12ステップは個人の自由な解釈の余地を大きく残しています。
だから、ある人のステップのやり方を「間違っている」と断ずることはなかなかできるものではありません。

ただやはり、12のステップには「本質」とでも言うべき事柄はあるように思います。それは二つ。一つは「棚卸し」(ステップ4・5)です。これは自分のどこが間違っていて、どこが悪かったのか、書き出して、他者から指摘を受けるステップです。もう一つは「埋め合わせ」(ステップ8・9)です。こちらは、自分の過去の過ちを相手に謝罪しに行くステップです。ステップ10はこの二つの繰り返しです。

だから、「棚卸し」と「埋め合わせ」の両方がそれなりにできていれば、ステップとして効果が出てくるだろう・・というのが僕の考えです。この二つが欠けてしまうと、いくら12ステップを自由に解釈して良いとは言え、効果が期待できなくなるんじゃないかと思います。

棚卸しのステップ5は「神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた」となっています。「もう一人の人」は自分以外の人です。誰だって自分の間違いを他の人に認めることはしたくありません。まして、その相手がもっと鋭いツッコミをしてくる可能性があれば、なおさら嫌です。だから、このステップ5を避けて通ろうとする人は少なくありません。

最近こんなことを聞き及びました。某所で、「この<もう一人の人>は、自分の中の<もう一人の人>ではいけないのでしょうか?」と聞かれた精神科医が、「それで良い」と答えてしまったという話です。たぶん、その先生は12ステップには詳しくなかったのでしょう(普通医者は12ステップには詳しくない)。

自分の中の<もう一人の人>というのは、例えば自分の良心などを指した言葉でしょう。それを<もう一人の人>にするわけにはいかないでしょうね。他者に評価してもらうのがステップ5の肝心なところです。先生は善意でアドバイスしてくださったのでしょうが、真に受けたメンバーがいたとしたらご愁傷様です。

さて、12のステップが個人の回復に関わるもので、12の伝統はAAグループに対する指針です。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/ftradit.htm
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/ftradit2.htm

12の伝統も、12のステップと同じように、どのように解釈するかは各グループに大きな自由度を許しているのでしょう。であるのに、「伝統」が「ルール」であるかのように思い込んでしまう人もいます。

自分の12ステップの解釈を人に押しつけようとするメンバーは嫌われがちです。同じように、12の伝統の自分の解釈を人に押しつけようとすれば嫌われるでしょう。

伝統の11番には、AAの広報活動は「宣伝よりもひきつける魅力」に基づくべきだとあります。promotion ではなく attraction であるべき、という話です。日本のAAメンバーは、これはAAの宣伝をしてはいけないという意味だと解釈する人が多いようです。

しかし、海外ではテレビやラジオでAAのコマーシャルが流れており、YouTubeで探して見ることもできます。WSM報告書には、オーストラリアで駅にAAの広告を出したところ、ホームページのヒット数が激増したという報告が載っています。

海外のやり方が間違っているとも、日本の伝統の解釈が間違っているとも言いづらいものです。12の伝統の解釈がそれぞれに違っていて構わないということでしょう。例えば、国内で、あるAAグループはローカル新聞に広告をだして存在を世間に知らせ、別のグループはそうしたことはしない・・というのもありでしょう。

伝統の6番は、AAの外部に対してAAの名前を使うべきではない、とあります。AAメンバーが個人としてどんな活動に参加しようと自由だけれど、AAが団体として別の団体の傘下に入るのは良くないという趣旨です。

ウィリアム・ホワイト先生が音頭を取っている Faces and Voices of Recovery という団体のサイトからたどっていろいろ見ていると、アメリカでは結構いろんな集まりに、AAが「団体として」参加していることに気づかされます。日本のAAメンバーのなかには、それは伝統違反なのではと疑問を唱える人もいることでしょう。向こうでは、他の団体の傘下に入らなければ、参加団体として名を連ねることは禁忌とはされていないわけですね。

これも伝統の解釈の違いなのでしょう。12のステップ同様に、12の伝統も解釈に幅があって良いものです。日本の中でも場所場所で解釈が違っても構いません。

でも、先ほど12のステップでも例を挙げましたが、自由な解釈が許されるとしても、当然「明らかな逸脱」はダメなわけで、12の伝統についても「明らかな逸脱」を許していては、伝統の存在意味がなくなってしまいます。当然そういう場合には、決然とした態度が必要にもなるでしょう。

評議会や理事会は12の伝統の「最終的な守り手」であるとされています。だから、評議会や理事会あてに「この件は12の伝統に照らしてどうなのか」という判断を求める声が出てきます。その声には、(本来自由な解釈が許されるものに対して)全国一律の解釈基準を作って欲しいという意図が含まれているような気がすることもあります。

評議会や理事会が「最終的な守り手」とされているのは、そうした基準を提供する立場にあるというわけではなく、「明らかな逸脱」がAA全体に広まらないような番人たれ、ということです。決して、12の伝統の解釈について権威的な機関があるというわけではありません。

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ジェネリクかジェリネクか

AAのミーティングでは「ミーティング・ハンドブック」と呼ばれる16ページの冊子を使っているところがほとんどだと思います。これは日本独自の習慣で、他の国のAAではビッグブックを使っているところが多いそうですが、ともかく日本ではこの簡便な70円の冊子が愛されています。

この冊子はもう何年も改訂されていないので、メンバーの中には、この冊子の内容は変更できないと思っている人もいるようですが、以前は内容がずいぶん現在とは違っていました。

こんな図も掲載されていました。
アルコール中毒の進行と回復


これは、「ジェリネク・チャート」とか「ジェリネク・カーブ」と呼ばれる図です。図を作ったジェリネク博士(E. Morton Jellinek, 1890-1963)は20世紀半ばのアルコホリズム(アルコール依存症)の研究者として大変有名な人で、彼の功績は現在の医療にも大きな影響を及ぼしています(良い影響か悪い影響かはともかく)。

極めて研究熱心な人だったようで、最後の勤務地スタンフォード大学の研究室のデスクで絶命したという逸話が残っています。WHOのアルコホリズムに関するコンサルタントでもありました。

初期の日本のAAでは、AA以外の文書の翻訳を頒布していました。その中の一冊が『アルコール中毒という病気』という小冊子です。これはWHOのニューズレターをアメリカ・カリフォルニア州政府がパンフレットにしたものをピーター神父が手に入れ、日本のAAメンバーに紹介しようと訳出したものだそうです。すでに手に入らないので、こちらに掲載しています。

アルコール中毒という病気――アルコホリズムにいたる警告のシグナル――
http://www.ieji.org/archive/warning-signals.html

これはジェリネク博士の論文が元になっています。読めばジェリネク博士が、アルコホリズムをどう捉えていたかがよく分かります。彼はこの病気を「アルコールのコントロール喪失」であり「失ったコントロールを取り戻すことはなく、節酒は不可能で」「進行性で死に至る病気」であり、有効な治療を受け入れるためには本人が「底をつく必要がある」としています。これは、AAの主張と重なります。

ジェリネク博士は著書 The Disease Concept of Alcoholism の中で、アルコホリズムを5種類に分類しています。

α(アルファ)型:肉体的・感情的な苦痛に対処するために、アルコールの効果に頼っている。飲酒のせいで社会的な問題が生じているのだが、一方で(飲酒の原因となる)社会的個人的問題を抱えてもいる。いわば「問題飲酒者」。ジェリネクによれば、コントロールを失っておらず、本気で願えば酒はやめられる。「病気(としてのアルコホリズム)」とは言えない。

β(べーた)型:飲酒のせいで肝障害などの身体的な症状がある大量飲酒者。ほぼ毎日大量に飲酒する。しかし肉体的にも精神的にも依存しておらず、離脱症状もない。「病気(としてのアルコホリズム)」とは言えない。

γ(ガンマ)型:アルコールに対する耐性を獲得し、身体的に依存し(離脱症状があり)、コントロールを失っている。いわゆる「AA型のコントロールを失ったアルコホーリック」。ジェリネクによれば、このタイプこそ「病気」であり、アメリカ国内およびAAの中で最も一般的な存在。

δ(デルタ)型:γ型に似ている。コントロール喪失はないが、離脱症状があり断酒の難しいタイプ。状況によっては節酒ができる。

ε(エプシロン)型:他のどのタイプとも違い、周期的に大酒を飲む時期以外はまったく飲酒しない。いわゆる「渇酒症」。γ型の再飲酒とは区別が必要。

ジェリネク博士の研究はエビデンスに基づいたものだったとは言え、批判もあります。アメリカにおけるアルコール依存の研究は1940〜1950年代に進歩を見せていますが、それにはAAが発展したことにより、酒を断ったたくさんのアルコホーリクと面接することが可能になったという背景があります。

ご存じの通り、酔っ払いと話すのは骨が折れます。飲み続けている人にインタビューをしても得るものは少ない。きちんと酒をやめられた人たちの集団を相手にしたかったら、AAしかなかった。という当時の事情もあります。彼は数千人のAAメンバーと面接する研究から、AA型のアルコホーリックこそ、アルコホリズムという病気の本質であると結論づけることになりました。

彼はこの分類をすることにより、アルコホリズムにも多様性があることや、アルコホリズムという疾病概念がいたずらに拡大されることを防ぐ意図があったようです。しかし、彼の意図に反して、アルコホリズムはすべてγ型であるという解釈を広める結果になりました。

翻ってAAは、アルコホリズムは一つのタイプしかないという主張をしています。酒のコントロールを失い、そのコントロールは一生取り戻すことはなく、解決は断酒しかない(断酒を続けるために12ステップをやる)。一方で、酒でトラブルを起こしている人が、全員アルコホーリックだとも言っていません。

ビッグブックのp.31では、「大酒飲み」と「本物のアルコホーリク」を分けています。大酒飲みの中には酒をやめるのが困難で医者の世話にならなければ止められない者もいる、とあります。ジェリネク博士の分類で言えば、γ型以外のアルコホーリックでしょう。一方「本物のアルコホーリク」は、霊的な手段がないと助からないとしています。そして「本物のアルコホーリク」とは、シルクワース博士の描き出した「渇望現象」を持つ人たちを示しています。

僕は以前から、アルコールを乱用している人すべてに「アルコール依存症」とか「アルコホーリック」というラベルを貼るのはやめたほうが良いと主張してきました。境界性人格障害や統合失調症の人が症状としてアルコール乱用をするのは、いわゆるアルコール依存症の人たちの問題とは違っています。

また、ここ数年ビッグブックのやり方で12ステップを行っていると、明確な渇望現象を持たないAAメンバーの存在に気づかされます。自らの渇望の経験を捉えることができないということは、基本中の基本となるステップ1を理解することが難しい人たちです。

こうした「本物ではないアルコホーリク」がAAに存在していることに以前から気がついていた人もいたはずです。

一つは、DSMのような操作的な診断基準に従って、アルコール乱用があればその原因を問わずに「アルコール依存症」の病名を与え、自助グループを薦める医療機関の問題。もう一つは、12の伝統に従って「酒をやめたい」のなら誰でもメンバーになれるというAAの姿勢です。

僕は日本を訪れているシカゴのAAメンバーと一緒に食事をしたとき、「シカゴのAAにも本物じゃない人たちはいるか?」と尋ねました。相手の答えは「もちろんだとも」でした。でも、そういう人たちはAAに長居はしない。せいぜい2〜3年もすれば消えてしまうよ。だって他のメンバーと話が合わないからね。という話でした。

AAはメンバーになる条件として「酒をやめたい」という気持ち以外は要求しません。そうやって否認を伴いがちなアルコホーリックを幅広く受け入れられるようにしています。一方で、ミーティングではアルコールの問題を分かち合うことで、対象外の人たちがふるい落とされる仕組みになっているというわけです。少なくとも海の向こうの地では、そのふるいが有効に働いているようです。日本ではどうなのでしょう。

AAは12ステップを使って酒をやめ続ける団体です。その原則は変えることはできません。僕は5年ほど前からビッグブックを使った12ステップのやり方でスポンサーシップを行っています。その経験から、本物のアルコホーリック(ジェリネク博士のγ型)に対して、12ステップは極めて有効だと考えています。

しかし、前述のようにAAには本物ではないタイプもいます。ハッキリした渇望の経験を持たなかったり、別の原因で酒を飲んできた人たちには、12ステップの効果はあやふやです。むしろ別の方法のほうが良いこともしばしばです。薬物やギャンブルについてもおそらく同じ事は言えるでしょう。

最近では「これが12ステップの限界なのだ」と考えています。12ステップは有効な治療法です。しかし、どんな薬だって対象の病気以外には効きません。風邪の人に、高血圧や糖尿の薬を出す医者はいないでしょう。むしろ、「この薬はどんな病気にも効きます」と言えば、怪しい話になってしまいます。

今の日本で、12ステップの効果は過小評価されていると思います。伝言ゲーム的な述べ伝えによってプログラムが歪曲され曖昧化したのが原因でしょう。しかし、それだけでなく、対象をむやみに広げすぎたのもいけなかったのではないかと考えています。ビッグブックというテキストに忠実に、対象を絞って適用していけば、高い効果が得られて評価も変えられると信じています。

AAはどうあるべきなのか。本物であるかどうかを問わず、酒の問題を抱えた人を広く受け入れる団体になるべきなのか。伝統では「酒をやめたい」という願望さえあればメンバーになれるとしています。ただ、AAに詳しい人なら感じているでしょうが、AAの主張にはしばしば矛盾めいたことが含まれています。同じ12の伝統で、AAはアルコホリズムに苦しむ人を対象にしていると言っており、AAがアルコホリズムと言っているものは、単なるアルコール乱用とは違うものです。

AAは、12ステップ以外のやり方も取り入れて、本物以外でも、アルコール乱用者であればどんなタイプにでも有効な団体になるべきでしょうか。僕はそうは思いません。むしろそれは、本物タイプ(γ型)にも、それ以外にも役に立たない団体になってしまうと思います。「靴屋よ、なんじの本分をはみ出すな」です。

他のタイプは、他のやり方をする団体に任せて応援していけば良いのです。ビル・Wも書いているように、どんな酒飲みであれ「AAに来なかったという理由で発狂したり、死んでしまったりしていいわけではない」のです。同じようにアルコールやアディクションの問題に取り組んでいる「友人」たちの存在に対して敬意を持つべきだと思います。

田舎に行くと「洋食屋」の看板を掲げながら、メニューにはカレーも寿司もラーメンもあるような店もあるけど、たいてい美味しくなくて、いつのまにか閉店しているものですよ。

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プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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