なんでも褒めりゃ良いってもんじゃない

アル中は人を褒めるのが苦手だと言います。

本当かどうか知りません。でも無理もないことだと思います。人は自分がしてもらってないことを、人にするのは苦手です(苦手ではなく出来ないと言うべきか)。飲んでいるアル中は人に迷惑ばかりかけて、褒められることはしてないのですから、人を褒めることが出来なくなるのも不思議ではありません。

アメリカのAAスポンサーの中には、スポンシーに人を褒める練習をさせる人がいる、と聞いたことがあります。人を褒められないと立食パーティの時に話題に困りますしね。人を褒める能力というのは、惹きつける魅力の一つかも知れません。「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」と行ったのは山本五十六だそうです。

『自閉症スペクトラム障害のある人が才能をいかすための人間関係10のルール』(Unwritten Rules of Social Relationship)という本の中で、テンプル・グランディンは、最近の人たちは(褒めて動かされることに慣れてしまったので)褒められないと何も出来なくなってしまった、と嘆いています。褒めて伸ばす教育にも罪作りな一面があるというわけです。

今回は、アディクションの人に対してであれ、発達障害の人に対してあれ、人を褒めるのにもやり方がある、という話です。

以前に fixed mindset(固定思考)とgrowth mindset(成長思考)という話を取り上げ、このサイトを紹介しました。スタンフォードの心理学者キャロル・ドウェックの話です。

自分の能力を固定的に考える人と成長し続けると考える人
http://d.hatena.ne.jp/himazublog/20060318/1142697735

参考キーワード:実体理論、拡大理論

fixed mindset(固定思考)の人は人間の本質的な部分は変えられないと信じています。となると、良い人生を送るためには、失敗を避け、欠点が露呈するのを避けて良い評価を保とうとします。一方growth mindset(成長思考)の人にとっては、人生は成長の連続であり、失敗によって自分の価値が減るわけではないので失敗を恐れません。

固定思考の人にとって、自分に欠点が存在することは自己評価を下げるだけですから、自分に対して甘い評価を求めます。一方、成長思考の人にとっては、成長するためには自分の現状を正確に知る必要があるので、自分に対する正確な評価を求めます。

自分を回復させ、人の回復を手助けすることは、変化を促すことでもあります。固定思考の人には失敗からの立ち直りが難しいのですから、成長思考に変える必要があります。また12ステップの棚卸しも、自分の正確な現状を知る作業ですから、固定思考のままでは苦痛なだけで、棚卸しすることの価値を感じられないでしょう。

ではどうやったら人を(自分を、他者を)成長思考に導けるのか。

先のリンク先の中に、ドウェック先生がやった実験が紹介されています。

子供たちを二つのグループに分け、片方は良い結果を出した場合にその「結果」を褒めました。すると、そのグループの子供たちは、困難に出会うと簡単に諦めてしまうようになりました。良い結果が見込めない場合には、失敗を避けることで自尊心が傷つかない行動を選んだと解釈できます。つまり、固定思考を持ってしまい、成長しようとしなくなってしまったわけです。

もう一方のグループは頑張った場合に、その頑張りを褒めました。良い結果がでたかどうかに関わらず、その努力の姿勢を褒めたわけです。そうすると、そのグループの子供たちは、困難に出会っても、前にも増して頑張ろうとしました。成長思考になったということです。

(ドウェック先生はもうひとつ「上手なやり方」に対して褒めることも挙げています)。

自分を回復させよう、変化させようという「努力の姿勢」に対して結果にかかわらず褒める、ということが大事なのでしょう。ミーティングに通うのが嫌で、駅まで行ったけれどそこで嫌になって家に帰ってしまった、というスポンシーに対して、嫌味を言うのではなく、駅まで行く努力をしたことを褒めれば、やがては雨が降る嫌な晩でもちゃんとミーティング会場に現れるようになるわけです。

(逆に言えば、出来て当たり前のこと、やって当たり前のことは褒めないほうが良いかも)

最初は褒められるというインセンティブで努力していた人も、やがて成長思考に切り替われば、自分が努力すれば回復できるという自己効力感を得て、外からのインセンティブがなくても継続的に変わる努力ができるようになっていくと思います。

相手の頑張りを褒めるためには、相手に関心を持ってよく観察していなければなりません。同時に沢山のスポンシーを持つことが出来ない理由、忙しすぎるスポンサーが良くない理由の一つでありましょう。

発達障害の人にとって障害は「変えられないもの」なので、変化を促すのは良くないのではないか、という意見もあるでしょう。障害は障害として、その人に変えられる範囲で自分を変える努力が出来た方が良いと思います。いくらその人にとって安定的な環境を用意しても、季節の変化や社会情勢の変化によって環境は刻々と変わっていきます。それにまったく対処する術を持たない、というのは不幸です。

テンプル・グランディンの嘆きは、褒めることで人を動かそうとする安易な処世術を使う人が増え、しかも「結果」を褒める人たちが増えた結果、世の中に固定思考の頑張り嫌いが増えたことを示しているのじゃないかと思う次第です。

経済活動(仕事)の場合には成果が求められるので、結果を褒めるのもありでしょう。だって報酬とか昇給、昇進というインセンティブが別にありますからね。けれど、こと回復という分野では、結果を褒めるのは避けるべきだ、という話でまとめてみました。

テーマ : メンタルヘルス・心理学
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高橋会長の思い出

もう10日ほど前になりますが、断酒会の高橋会長が亡くなりました。

会長その人の存在を知ったのは、僕がまだ飲んでいた頃でした。アルコール病棟の3ヶ月にはヒマな時間がたっぷりあります。患者たちは無駄話に興じ、その中には断酒会やAAの話題も含まれていました。

当時僕がAAについて知った伝聞情報は「黄色い小さな冊子を読み、神とか言い、自分はアル中だと名乗る謎の人々」というものでした。まあ間違ってる情報は無いかも。

高橋さんはある断酒会の会員だったのが、その会の運営が気に入らず、会を飛び出してみたものの、やはり自分には仲間が必要だと気付いて、自ら別の断酒会を始めたという噂でした。

AAには「彼は恨みとコーヒーポットを持って出ていった」という言葉があるそうです。グループの運営方針を巡って対立したメンバーの一方が、グループから出てしまう。けれど、一人で酒をやめ続けることは出来ないと気付き、やがて別のAAグループを始める。さらに時間が経つと、元のグループと連携して活動するようになる。アメリカではそんな風にしてAAグループが増えることが多かったのだそうです。もちろん日本も同様です。会長はそれを地で行ったのです。

実際に会長にお会いしたのは、僕の最後の入院中でした。会長は病棟のロビーを訪れて、タバコを吸っている患者に声をかけていました。僕も断酒会に誘われましたが、「すでにAAに行くことに心を決めています」と言ってお断りしました。

退院してAAに戻ったところ、スポンサーから「自分でAAグループを始めなさい」という提案をもらいました。まだソーバーだって1〜2ヶ月だし、他のメンバーもいないし、無茶すぎると思いましたが、何しろスポンサーの「提案」です。ともかく、会場やコーヒーセットやハンドブックを揃えて準備しました。

始める前に、県内のAAグループを回って「始めることになりましたんで、一つよろしく」と挨拶をしてまわりました。反応はだいたい一緒で、「ソーバーが短すぎる、せめて1〜2年やめてからにしろ」とか「他に一緒にやってくれる仲間はいないのか」と言われるのですが、スポンサーに言われたんでと言うと、皆さん「それじゃあ仕方ない」とおっしゃいまして、やっぱりそうなのかと。

ついでに、近在の断酒会にも挨拶に回った方が良いのじゃないかと思って、3カ所回った一つが、会長の断酒会でした。ただ、この時のことはあんまり憶えていません。断酒会しかなかったところへ初めて出来たAAでしたから、いわば異分子であり、その後のそちこちからAAに対する謂われのない非難も受けましたが、会長がそうした声を諫めてくれたとも聞いています。

それから十数年が断酒会ともその例会とも縁が薄いまま過ぎました。あるとき引き受けたスポンシーがどうにも不安定で、ヒマにさせておくと飲んでしまいそうでした。毎晩AAミーティングに出て欲しいのですが、東京や大阪のような大都市圏と違って、長野では毎日AAに行くことが難しく、どうしても空きの曜日が出来てしまいます。

そこでスポンシーに「その曜日は断酒会に行ってくれ」と伝えました。AAメンバーに断酒会に行けと言うと嫌がる人が多いのですが、この彼は素直に分かりましたと言うではありませんか。とは言うものの、そのまま送り込んで、何かトラブルがあってはいけません。最初の一回は一緒に行って、これからこの人に通ってもらいますのでよろしく、と挨拶することにしました。

十数年ぶりの例会でした。僕が出席簿に書いた住所名前と僕の顔を見て、会長が「ずいぶん前に一回来ただろう」と言われたのでビックリしました。そんな昔に一、二回会ったきりの人を憶えているとは、これは常人ではないだろうと(少なくとも僕には出来ない)。

それからスポンシーもよく面倒を見てもらいました。またスポンシーの家族もその断酒会に通うようになりました。当地はアラノンの活動が不活発なので、家族が通えるグループがなかなかありません。会長の断酒会は家族の出席が多く、それによるスポンシーの家族の変化が、スポンシーのソブラエティの助けになったことは間違いありません。(個人的には家族の出席が多い断酒会は良い雰囲気だと思います)。

それからは僕の関わる別の団体のセミナー関係でお世話になり、年に何度かは例会に出席するようになりました。いつ行っても盛会で、会の運営もいろいろ勉強になりました。

過去には会長が会を割って出たことに対して他の会から非難もあったそうですが、やがては推されて県断連の会長も務めたと聞いています。それを降りた後に、新聞記事にもなった金銭トラブルが起き、事態の収拾のために再び会長に推されました。警察との折衝など、かなりお疲れの様子がうかがえ、心配したものです。

会長がガンで入院して、余命に限りありと聞いたときは残念でした。幸い定期的に退院して家に戻ると知り(それがさらに命の限りを感じさせるわけですが)、僕らのホームグループのミーティングに会長ご夫妻をお招きして、1時間ほど話を伺う機会を作りました。(奥様の話のほうが人気?でしたけど)。

その後で質疑応答みたいな時間を設けたのですが、メンバーの一人が「アル中に接するときに気をつけていることは」と聞いたところ、「相手が酒をやめていることに尊敬の気持ちを持つことだ」という答えでした。相手が一日しか酒をやめていなくても、その努力を認めてやり、敬意を持てば、それは必ず相手に伝わる、という話でした。

口ではどんな厳しいことを言っていても、心の中で相手を努力を尊重する気持ちは、必ず相手に伝わる(ただし、伝わるのにずいぶん時間がかかることもあるが)というのは、僕も同じ気持ちです。

会長が表彰を受けたという話は僕も喜びました。
http://www.ieji.org/dilemma/2011/12/post-374.html

ある医師が、僕の最近の活動を評して「高橋会長の若い頃に似ている」と言ったと伝え聞いたときは、正直嬉しかった。偉大な先輩に例えられるのは悪くない気分です。ただ、正直、あそこまでのことはできない、とも思いますが。

病院にお見舞いに行けたのはつい先頃でした。すでに認知症が進んでいて、僕のことは憶えてらっしゃらいませんでした。共通の知人(他の断酒会の会長さんとか)の話をしましたが、その人たちもすでに故人です。お別れ会には多くの人が集まったと聞いていますが、僕は出張で行けず、スポンシーに香典を持たせただけでした。

十数年前、断酒会は活発でした。会の支部ができ、その支部が独立して一つの会になり、またその支部が出来る・・と広がっていきました。現在では残念なことに高齢化が進み、後継者不足が深刻だそうです。すでに活動をやめ休会になったところもあります。でもそのぶんのアルコホーリクをAAが吸収できているわけではありません。難しい時代になったものだと思います。

下手に墓参りになど行こうものなら、そんな時間があったら生きている人間のために何かやれ、とあの世から叱られそうな気がします。あと人間にはロールモデルが必要なんだということね。

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満足させると問題解決につながらない

1枚の紙をいただきました。医学雑誌のコピーで、論文の紹介記事のページです。

それは「患者を満足させると死亡率が上昇する」という題で、患者の満足度と、その後の死亡率の関連を見た、前向きコホート研究の結果が紹介されています。

患者が病院に行くのは病気を治すのが目的です。良質の医療が提供され病気が良くなれば、患者の満足度も上がるし、死亡率だって下がるはず、と普通考えますよね。しかし、満足度が上がると、死亡率も上昇するという意外な結果になったという話です。

患者の満足度の調査方法は、下記の5点を尋ねています。

1. 話を注意深く聞いてくれるか。
2. 理解しやすい言葉で説明してくれるか。
3. 患者自身が話したことを尊重してくれるか。
4. 十分な時間をかけたか。
5. 医療従事者から受けた医療サービスの10段階評価。

なるほど。1〜4の逆をやれば満足どころか不満が高まるのは明らかです。医者でも看護師でも患者の話をろくに聞いてくれず、説明の言葉は難しくて分からず、こちらの希望は無視されて、短時間診療で帰される・・のでは、不満も高まろうというものです。

ところがこの論文では、満足度が高い患者のほうが、その後の死亡率が高かった、という明らかな結果が出ています。

記事では、満足度の高さと死亡率の高さの関係を様々に考察していますが、そこはざっくり省略するとして、結論的には「医者が患者の希望を常に取り入れることは、最善の医療につながらない。時には患者の満足度を犠牲にしてでも、自分のすすめようとする医療を提供すべき場面が意外と多いはずだ」というところに持ち込んでいます。

The cost of satisfaction: a national study of patient satisfaction, health care utilization, expenditures, and mortality.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22331982

話をよく聞いてくれて、こちらの希望も考慮してくれる医者が良い医者とは限らない、って話ですね。まあ、考えてみれば「常に希望を叶えてくれる存在は、問題の解決を阻害する」というのは、何にでもある話です。

なにか感情的な問題を抱えるたびに「カウンセラーに話してみる」という人がいます。その人によれば、話をよく聞いてくれるのが良いカウンセラーなのだそうです。話はするのですが、カウンセラーから言われたことはあまり聞き入れていないようです。単なる話の聞き役だったら、金のかかるカウンセラーじゃなくて、近所のおばちゃんに聞いてもらえば良いのじゃないか。聞き方が上手なカウンセラーって、そういう意味じゃないと思うけど。

自助グループだって、アットホームで「そのままのあなたで良いよ」という雰囲気が強いところは、あんまり問題解決に役立っていない印象です。

人間というのは承認不安を抱えているものですから、「そのままのあなたで良い」と言われれば安心します。ただ、人間が人間に無条件の承認を与えることは不可能です。生まれたばかりの赤ん坊は、世のため人のために役に立たなくても、ただただ可愛いと愛されて、おっぱいだ、おしめだ、おねむだと母親から世話をされます。赤ん坊は人間として無条件の承認を得るのに最も近いところにあります。

しかし、そんな可愛い赤ん坊でも、母親にとって、時に疎ましく不都合な存在になることもあります。人間が人間に無条件の承認を与えることはできず、それができるとしたら神さまだけです。(だから、神を否定することは、無条件の承認を諦め、承認不安を抱えて生きる選択をすることです)。

AAのミーティングは、グチをこぼしてストレスを解消する場所ではない、という話は以前にもしました。安心してグチを言える人間関係を作れない人が、ミーティングにグチを吐き出しに来ているという感じもします。酒のやめ始めには、そういうことも役に立つかも知れませんが、やがては、信頼できる人間関係を作れない自分の問題を見つめる時期が来るでしょう。

AAミーティングには目的があります。その目的に沿って話をすることは、自分の都合と合わない時もあります。しかし、常に自分にとって都合の良い場所(ミーティングでもグループでも人間関係でも)というのは、自分の回復や成長には役に立たない(少なくともそういう局面が多い)、と心にとめておいた方が良いでしょう。

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家族の飲酒について

「アルコール依存症者の家族が飲酒するのは避けた方が良いか?」という質問を頂きました。つまり、家族が一緒に酒をやめた方が良いか、という話です。

ややこしいので順を追って説明させて下さい。

断酒が安定して続いていくためには、様々な手段が考え出されています。そうした手段は大まかに二つに分けることができます。一つは内面が変化すること(回復)。もうひとつは、その人を取り巻く環境を変えることです(環境調整)。

で、環境調整も大事なのです。たとえば、過重労働でうつになった人が、復職するときに負担の少ない職場に異動することで、うつの再発を防いだりします。酒をやめるのだってなるべく酒をやめやすい環境を整えるに越したことはありません(クスリやギャンブルでも同じです)。

良く言われることは、酒から物理的に距離を取ることです。病院に入院するのも、アルコールから物理的に隔離する効果があります。家に酒を置かないのも一つの手段です。

酒をやめて1年ぐらいは、酒を飲みたいという強い欲望を感じることがしばしばあります(飲酒欲求)。この飲酒欲求には波があって、強い時もあれば弱い時もあります。とても強い飲酒欲求はあまり長続きせず、数分程度で弱まっていくとが多いのです。そのピークを乗り切ることが大切で、そんな時にAAのスポンサーや仲間に電話したり、あめ玉をなめるとか、その人なりの手段を身につける必要があります。

飲酒欲求のピークの時に、手近に酒があると手を出してしまいがち、というリスクはあります。そして、家の中に酒がある理由は、家族が酒を飲むから、という理由がほとんどです。(本人が飲むために持ち込んでいなければの話)。

もちろん、環境調整ですべて解決することはできません。僕らは酒が溢れる社会の中で生きて行かなければならないのですから、「近くに酒があるからやめられない」と言っていられません。酒をやめない言い訳に使われても困ってしまいます。

ではあるものの、出来る環境調整はやったほうが良いわけで、協力的な家族は一緒に酒をやめてくれることが多いものです。もちろん完全に断酒しているかどうか知りませんし、そんな必要もないでしょう。ともあれ、家の中で飲まないとか、外でしょっちゅう飲んで帰ってくるのを慎むとか、ぐらいに控えることはしてくれます。中には完全に止める家族もいます。

アルコール依存症でないなら、酒をやめることも、控えることも難しくないはずです。それが、やめることも、控えることもできないなら、家族も依存症である可能性を疑ってみた方が良いです。やめることも控えることもできない理由として、社会的なつきあいとか、ストレス解消などの理由を挙げる人もいますが、酒を一切飲まなくても社会生活に不都合がないことは、酒をやめ続けるアルコホーリックの姿が証明しています。

アメリカでは夫婦揃って依存症という例も少なくないそうです。日本はそこまで依存症者が多くありませんが、AAメンバーの親も酒がやめられない、という話はしばしばあります。相談の現場に本人しか登場しない(家族が現れない)、家族が酒を慎まないというケースは、家族の他の誰かも依存症である可能性を考えてみる必要があります。

クスリやギャンブルについても同じ事は言えます。

もちろん、上に書いたように、家族が酒を飲んでいるから俺もやめられない、と依存症症者本人に言わせてはいけないわけです。家族が酒をやめてくれなくても、本人は酒をやめ続けなければ問題は解決しません。それに、順調に酒をやめ続けて回復すれば、周りの人が飲んでいるかどうかはそれほど気にならなくなるものです。

また、家族内に複数の依存症者がいる場合でも、同時にやめられないのなら、誰かが一番最初に酒をやめるしかありません。あまりに環境が悪すぎて断酒が続かないというのであれば、別居するなどして、環境を改善するべきかもしれません。

ビッグブックを読むと、依存症者が回復し安定した後で、(来客に出すために)家に酒を置くかどうかは、初期のAAメンバーの間でも意見の統一がなかったようす。置くも置かないもそれぞれの家庭の事情に合わせれば良いとしています。しかし、ともあれ酒のやめ始めは、アルコールから物理的に距離を取ることが役立つのは確かです。順調にいけば、危険な時期は1年か2年で脱するのですから、それぐらいの期間は家族にも慎んでもらって悪くないと思います。家の仕事が酒を扱ってたりする場合は、家業を変えろとまでは言えないですが。

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欲の強い人ほど傷つきやすい

人間には欲望(欲求)があります。

様々な哲学者、精神科医、心理学者が、人間の欲望について論じています。フロイト、ヘーゲル、ラカン、マズロー、ロジャーズ・・・。論者によって欲望の分類に違いはありますが、「人間が複数の欲を持っている」という点では共通しています。

人間は全ての欲を望むままに満たすことはできません。たいていは「あちらを立てれば、こちらが立たず」ということになります。例えば金銭欲を満たすためには、労働することが求められますが、働くためには時間と労力を割かねばならず、自分の時間を自由に使いたい、という欲は満たされなくなります。

12ステップも心の問題を扱うので、人の欲望について論じています。それについては『12のステップと12の伝統』(12&12)のステップ4のところに詳しく書かれています。

12ステップは人の欲求を「本能(instinct)」という言葉で呼び、三つに分類しています。

共存本能(social)、安全本能(security)、性本能(sex)。

ジョー・マキューは、12&12の長い説明をひとつの表にまとめています。



これはジョー・アンド・チャーリーで資料として配られた中の1ページだそうです。日本語訳は赤本や緑本に載っていますが、それをここに載せるわけにもいかないので、日本語が読みたい人は、12&12や赤本・緑本を参照して下さい。(今回は細かいところまで踏み込んだ話じゃないし)。

ビル・Wは12&12で、こうした本能(欲求)は「本当に必要で正当なもの」であり、神から与えられたものだ、と書いています。欲求は少ないほど良いというわけではなく、人が生きていく上で必要で欠かせないのだから正当なものだ、というわけです。

ところが、時に人はその本能に振り回され、操られてしまうことがあるわけです。これは神が意図したことではなく、限界ある人間だからこそ起きることです。どんなに立派な人間であっても、この罠から逃げることはできません。自分の欲求どうしが競合するし、同じように欲求を持つ他の人との衝突も招きます。

欲求を満たそうとするのを誰かに邪魔されれば、私たちは邪魔した相手に怒りを持ち、恨むようになります。欲求の充足を邪魔されそうだという予感があると、私たちは不安(恐れ)を持つようになります。「重大な感情的問題のほとんど」は、人が本能を自分勝手に満たそうとすることから起きる、というわけです。

私たちはしばしば「傷つけられた」と感じますが、この「傷つけられた」というのは、私たちの本能(欲求)を満たすのが邪魔された状態です。(ついでに言えば、腹が立つとか、嫌な気分とか、怖くなるのも同じことです)。

ここで見落としていけないのは、欲求が強いほど、私たちは傷つくことが多くなることです。

傷つきやすい人=欲の強すぎる人

というのが常なる真実です。

例えば、金銭欲の強い人は自らの貧しさに常に傷つくことになります。名声欲の強い人は、自分が尊敬賞賛されないことに傷つくことになります。ささやかな欲望は簡単に満たすことができますが、人並み外れた欲望は誰もが満たせるわけではありません。欲の強い者ほど不平不満が大きい、ってことは心理学の本を読まなくても常識的に理解できます。

人は「傷つけられた」と主張して、誰かを悪者にして不平不満を述べ立てます。しかし、自分が過剰に欲を満たそうとした結果であるとは考えないものです。その自己チェックをするのが棚卸しです。

・ ・ ・

ここで自己評価(自尊心)というものについて考えてみます。自己評価が高いとか、低いという言い方をすることもありますし、「自尊心を傷つけられ自己評価が下がった」という言い方をしたりもします。

上の図を見ると、共存本能(social instinct)のカテゴリ中に自己評価(self esteem)も入っています。より高い自己評価を求めるのは、人として自然な欲求だということです。

そして、他の本能と同じように、自己評価への欲も大きすぎれば傷つく機会が増えるのは当然です。自己評価を高める欲が強いほど、自尊心が傷つけられたと感じてしまう機会が増えるわけです。

「どうすれば自己評価が高められるのか」という質問に対し、ジョー・マキューの弟子ラリーさんは、二つのことが必要だと答えました。ひとつは「自分に正直になること」、もうひとつは「責任を果たすこと」です。

先日のセミナーでも話題に上っていたのが、アル中は責任を果たしていないのに要求が強いという話です。父親としての役割を果たしていないのに、親として敬えとか。まっとうに働けてないのに、人並みの給料を寄こせとか。そういう状態で自己評価だけを上げようったって無理があります。その無理さ加減が、自己評価への欲の強さです。ご本人の望みどおりに自己評価の本能が満たされることはない(傷つくことが増える)し、周りの人間も「つきあってられない」と言って離れていくでしょう。

やりたいことだけするのではなく、責任を果たすことによって自己評価は上がるし、集団の中に受容され承認されてもいくでしょう。責任から逃れ、やりたいことをやれば気持ちがいいかもしれませんが、その気持ちよさはアルコールによるのと同じで、消えやすく、過ぎ去った後は落ち込みが以前より増すものです。

お手軽に自己評価を上げようとすれば、傷つくことが増えるわけです。

・ ・ ・

自動車のメーターパネルには速度計や水温計の他に、エンジンやブレーキにトラブルが起きた時に点灯する「警告灯」があります。点灯したら、なるべく早くエンジンなどを点検し、整備や修理をした方が良いのは言うまでもありません。警告灯を無視して運転を続ければ、やがては自動車は深刻なトラブルに見舞われるでしょう。

「傷つけられた」という感情もこの警告灯と同じです。本能に振り回されだした徴候です。傷つけられたと感じた時には、つい相手の問題に目が向いてしまいがちですが、そんなときこそ自分の問題を点検し、修正すべき時です。「私は間違っていない、相手が悪いのだ」と考えて、警告灯を無視して人生を続けてると、トラブルはより深刻化します。

アル中やACの人生というのは、いったん水没した車を運転しているみたいなもので、あちこち調子が悪く、警告灯がしょっちゅう点灯してくれます。そのおかげで、いつも自分自身の問題を見なくちゃならならず、大変ではあるのですが。でも、そういう旅にも楽しみはあります。

俺とポンコツ車とメカニックの12のステップ
http://www.ieji.org/archive/the-steps-another-version.html

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現実検討について(その2)

ジョー・マキューの弟子、ラリーさんの話の中に、深く感銘を受けたものがあります。これは、AAの本やジョーの本には書いてないことなので、ラリーさんの理解なのでしょう。

それは、感情に知性をコントロールさせるか、知性に感情をコントロールさせるか、という話でした。ステップ6の部分での話です。

多くの人は、自分は十分な知性を備えており、感情に振り回されずに、知性を使って理性的な判断を下すことができている、と信じています。しかし、知性が感情をコントロールできていたのなら、アディクションの罠に落ちることもなかったはずです。

大学を出ている人もいれば、もっと高い学歴を持つ人もいるでしょう。しかし、これまでの人生のどこかで感情に知性を支配させたゆえに、今の自分に至ったわけです。せっかくの知性が役に立つような生き方ができてこなかったのです。少なくともステップ5をきちんと終えた人には、そのことが分かるはずです。

だから、今後は、知性を活かして、知性に感情をコントロールさせる生き方をしなければなりません。

この場合、感情とは何を示しているのでしょうか。それについてラリーさんが詳しく語ることはありませんでした。ただ、察するに、ここでの感情とは、主観とか内的事象を指しているのでしょう。つまり、感じ方です。

私たちは、自分の「感じ方」が間違っているとは思いません。感じたことは真実であると思っており、それを積極的に疑うことをしません。そして、感じ方を補強するような材料を集めます。自分が集団から疎外されていると感じれば、疎外の原因を自分の中に勝手に探してしまいます。上司から嫌われていると思えば、嫌っている証拠をどんどん集めてしまいます。

感じことを否定するような材料に気がついても、それは捨てられてしまいます。集団が暖かく迎えてくれているとか、上司が公平であるという気づきは、無視されてしまいがちです。そのような材料集めとフィルタリングは、もちろん知性の働きによるものです。感情の正しさを証明するために、知性を使っている状態ですから、知性が感情に支配されてしまっているのです。

どんなに知能が高かろうが、これでは感情に振り回されるばかりで、知性的・理性的な生き方はできません。情動不安定と言われるばかりです。

知性を使って生きるためには、自分の「感じていること」を疑うしかありません。知性を使って感情をくつがえすことです。例えば、相手の言葉や行動に悪意が感じられたとしても、自分の感じ方が間違っているのではないかと点検してみる癖を付けるわけです。よく分からなければ、他の人と相談しても良い。実は相手は悪意なんか持っていないかもしれないし、少々の悪意があったとしても、相手の立場からすればやむを得ないと、自分が納得することもあるかもしれません。あるいは、そんな風に相手をさせたのは、自分の過去の行動が悪かったことに気づけるかも知れません。

神さまはせっかく私たちに知能を与えてくれたのですから、知能を使って主観と客観の違いを捉え、感じ方を訂正していく。それが「知性に感情をコントロールさせる」生き方であり、ソブラエティというものでしょう。感情に知性を支配させ、その知性が行動を支配し、他者との間に軋轢を生んでいく、という古い生き方と決別したいと願うのがステップ6です。

私たちは、自分が不愉快に思い、嫌っている相手は、向こうからも自分のことを嫌っているはずだ! という思い込みがあります。棚卸しをして自分の落ち度に気がつくと、「これでは相手に嫌われるのも当然だ」と思い、情けなくなります。相手に合わせる顔がないように感じますが、それでも埋め合わせで直接会いに行けと促されます。

そうして会ってみると、実は相手はこちらのことを心配していたのであって、憎まれていたのではないことが分かったりします。憎まれていたとしても、それは自分のやったことゆえだし。基本的に、人間というのは情と思いやりを備えたものだということを理解するようになります。

このようにして、12ステップは、自分の頭の中で起きていること(感じたこと)が、外の世界の現実と違っていることに気づかせてくれます。私たちは12ステップを通じて、現実検討能力を身につけることができます。

こうして説明してくると、12ステップと認知行動療法(CBT)との類似に気付く人もいるでしょう。12ステップの成立はCBTの成立に数十年先行しています。しかし、12ステップも、それ以前に人類に受け継がれてきたものを、アルコホーリックに受け入れやすくしただけのものです。どれも普遍的な知恵なのだろうと思います。

知性によって感じていることを否定するには、相手の立場に立って理解したり共感することが必要です。それは脳の皮質部分が担っています。酒をやめたばかりのアル中は、皮質の働きが鈍っています。だから、意識的なトレーニングがいるわけです。

人が不安(恐れ)のは、脳の中の扁桃体が主役なのだそうです。境界性パーソナリティ障害(BPD、いわゆるボーダー)の人は、扁桃体の活動が過剰になり(大きな不安を感じ)、前頭前野が圧倒されて機能低下してしまいがちなのだそうです。まさに感情が知性を圧倒し、感じたことを訂正できなくなってしまいます。ボーダーの人の逸脱行動には、扁桃体の過活動が背景にあります。

ある心理の人が、ボーダーの人に30分ぐらいの短時間で12ステップの原理を説明し、表を使った棚卸しのやり方を教えたのだそうです。その上で、日常生活の中で、不安になったり、怒りを感じたとき(恐れや恨みだ)、頭の中で棚卸し表を書いてセルフチェックをする習慣を勧めたのだそうです。そして、一日に一回、その棚卸し表の中身を話し合ってチェックすることを続けていたところ、ボーダーの人の逸脱行動が減った、という話を聞かせてもらいました。(多分、high functionなボーダーの人だろうけど)。

結局、脳の機能のアンバランスを、意識的な努力でバランスを取り戻していく、ってことなんでしょうね。(まあこの雑記は毎度そこに落とし込むわけですが)。

(この項お終い)

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プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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