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自分は神ではない

ミネソタ多面的人格検査(MMPI)というのがあります。今はどれぐらい使われているのか知りませんが、僕が入院していた頃は、心理検査として使われることが多かったように思います。ただ、これは400個近い(フルセットだと550個の)質問に答えなくてはならないので、対象は限られていたかもしれません。

質問項目は「山林警備をする仕事をしてみたい」、「ときどきたまらなく家出したくなる」、「愛に失望している」、「出世するためなら誰でもウソをつくと思う」みたいな、ありがち?な質問から、「私の魂はときどき身体から抜け出している」とか、「ときどき悪霊に取り憑かれている」みたいな怪しい雰囲気の質問まで様々です。

その中に「私は神の使者である」とか「私は神である」という質問が数問混じっています。僕は検査する側ではなく、される側だったので、MMPIの詳しいことは知りませんが、MMPI経験者の共通の話題は「神関係の質問に全部<はい>と答えたらどんな結果になるんだろう?」というものでした。

自分のことを神だと思っている人は、かなり困ったちゃんです。ただ、アルコホーリクは、よく自分を神だと思っている困ったちゃんであるわけです。

赤ん坊は自分の欲求を自分で満たすことができません。そこでむずがったり、大声で泣きます。すると母親やその他の人がやってきて、ミルクをあげたり、おしめを替えたり、あやしたり、暑さ寒さを調整してあげたりして、赤ん坊のすべての必要を満たしてあげます。誰もが赤ん坊時代を経験しているにもかかわらず、その頃にどう感じていたか記憶している人はいません。だから、赤ん坊の心の中は想像するしかありませんが、自分の欲求を他者に満たしてもらうことが、赤ん坊にとって最大の関心事である事は疑いありません。

やがて成長するにつれ、自分で自分の欲求や必要を満たすように求められます。さらには、簡単には満たせない欲求があることや、どうやっても満たせないものもあること、他の人も自分と同じ欲求を抱えていて、調和して生きていく必要があることなどを次第に学んでいきます。それが成長であり、成熟です。ごく僅かですが、赤ん坊のような状態で生きざるをえない人たちがいて、重度の障害者施設に行けば世話を受けながら暮らしている彼らに会うことができます。彼らが幸せである事を願うばかりです。

他者は自分の欲求を満たすために存在していると考えるのは幼児的です。自分を不快や不愉快にさせる相手を悪だと考えるのも同様です。周りの人が自分の思い通りに動いてくれれば、自分が幸せになれると考えるのは、神の役を演じる生き方であり、自分は神だと考えていることなのです。

アルコホーリクには、幼児的に自分は神だと考えている人が多いわけです。それはひょっとしたら、ミルク代わりに酒ばっかり飲んできたからかも知れません。「周りの人を思い通りに動かしたがる」という表現を使うと、まるで酒を飲んで暴れるDV男のように、暴力や暴言や威圧的な態度で人に何かを強制するやり方を想定してしまうかもしれませんが、そればかりではないのです。

人間には様々な欲求があります。例えば、「人に良く思われたい(悪く思われたくない)」、他者から良い評価を得たいという欲求は誰にでもあります。Joe and Charlieの本能の表ではこれは共存本能の中の pride(プライド)という項目になっています。(一般的にプライドがどういう意味かではなく、彼らが承認欲求に対してプライドという名を与えたに過ぎません)。

例えば、相手に何かをプレゼントしたり、親切にするとき、あるいは忍耐強く、愛想良く接しているとき、「相手が幸せであるために」やっているのではなく、「そうしなかったら自分が悪く思われるから」という動機があるなら、それはこの欲に動かされているということでしょう。・・・これはきっとあなたにも経験があるでしょう。

人は欲を満たすために生きている。これは一つの真実であり、持っている欲を満たすのは悪いことではありません。この pride の欲があるからこそ、人間社会が円滑に動いている面もあります。承認の欲求は人間に欠かせません。

しかし、欲が強すぎるのも良くありません。今日は疲れているので早く帰って寝たいと思っている人が、「相手に悪く思われたくない」という理由で、相手の話につきあって帰宅が遅くなるのなら、それは暴走する承認欲求に振り回されていると言えます。そうして、その人は自分の必要を満たすことより、相手の欲求や必要を満たすことを優先してしまっています。度が過ぎれば辛い生き方にしかなりません。ずっと、その生き方を続けていれば、それが身に染みこんでしまい、「相手に悪く思われたくない」という動機からやっていることだとすら自覚できなくなるかも知れません。

共依存には4つのパターンがあると言いますが、服従のパターンはこうしてできあがるのです。支配的なパターンの人(人に何かを強制しようとする人)はエゴが強いとされます。では、服従のパターンの人はエゴが弱いのでしょうか? いや、そうではなく、支配的なパターンの人と同様に、強い欲望(強いエゴ)を持っているのです。

直接的に自分の欲求を他者に満たしてもらおうとするやり方に比べれば、他者の欲求を満たすことによって自分の欲求を満たそうとするのは、間接的で回りくどいやり方であるのですが、他者を利用して自分の欲望をかなえようとすることに変わりなく、どちらも同じようにエゴイスティックであると言えます。自己否認や自己評価の低さというパターンも同様です。

アルコホーリクだけでなく、ACや共依存の人たちも、同じように「他者は自分の欲求を満たすために存在している」という幼児的な生き方、自分を神と考える生き方に陥っているのです。アルコホーリクにも権勢的なタイプも入れば、追従的な人もいます。ACにも強迫的に自己実現しようとしている人もいれば、服従パターンの人もいます。

人は、支配タイプと服従タイプのどちらか一方ということはなく、たいてい両方の面を持っていて、場面ごとに使い分けています。外では服従的、家の中では支配的とか。AAの中では服従的な人が、ACのグループに行くと支配タイプに様変わりしたりして・・。家族のグループの中にも支配的な人はいっぱいいるし。限界まで我慢して爆発するタイプもいます。

服従タイプの人も、自らの強いエゴに支配され、神になっているのだ、という捉え方をすれば、生き方を変える突破口は見えてくるのじゃないでしょうか。

こうして見れば、12ステップというのは、人間に共通した問題(だけ)を扱っていることが見えてきます。だから僕は「○○向けの12ステップ」というバリエーションを作る必要は特に感じていないのです。

僕の考えでは、12ステップは必ずしも神を信じることを要求していません。ただ、自分が神でないということは認めなければならないし、神の役を演じる生き方は手放していかなければなりません。そうすれば、神という概念に対する拒否反応はなくなり、他者の持っている信仰にも寛容になれます。

12ステップが神という概念を使っていることがハードルを上げている、と考えている人もいるでしょうが、実際にステップに取り組む段になれば、そのことはなんら障害になりません。

ただ、どうしても神という概念を拒否する人たちもいます。でもなんと言うか、その人たちは宗教的概念を嫌っているのではなく、(それを口実に)自分が神の座に座り続けたいだけなんじゃないかという気がします。自分が生き方を変えるのではなく、周りの人が生き方を変えて自分の欲求をかなえてくれれば良いのだ、という考えなのではないかと。

その人たちでさえ、MMPIの「私は神である」という質問には「いいえ」と答えているのでしょうけど。

テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

プロフィール

ひいらぎ

Author:ひいらぎ
飲まないアルコール中毒者の、ドライドランクな日常。
AAメンバーとして、ネット上でアディクション関係の情報をすこし発信。

本サイトは「心の家路」。

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